真夜中の学校と怪談
ポタッ……ポタッ……。
水の滴る音が、静けさに包まれた無機質な廊下に響く。
そこは小学校だった。
夜もすっかりと老け込み、暗闇があたりを包み込む。校内に取り付けられた時計の短針は、12を少し過ぎたあたりを指している。
ポタッ……。
昼の間に誰かが利用したのだろうか。最後まで閉め損なった蛇口から、一定の間隔で水が滴り落ちる。
そんな子どもが帰り、昼の賑わいが嘘のような学校の中に、あたりの景色と同化する黒い服を着た3人組がいた。
廊下を歩く彼らは皆一様に、黒っぽいカジュアルなスーツを着ている。
先頭を歩く男が、場違いに大きなあくびをした。
「っはぁあ……ねみぃ」
ポリポリと頭をかきながら、もう片手をポケットに突っ込む。染めたであろう金髪はふんわりとパーマがかれられており、眠気をまとった目尻には、あくびによる涙が浮かぶ。
「日比谷隊員、真面目にしてください。任務中ですよ」
日比谷という男にそう苦言を呈するのは、一歩後ろを歩く女性だ。ロングの黒髪を揺らしながら、彼女はメガネ越しにジト目で男を見ている。
「真面目にったって、どうせ今回もスカっすよ」
そこまで言うと、日比谷はもう一人一緒に歩く存在へと目を向けた。
「なぁ、ちゅーた」
「う、うん」
『ちゅーた』と呼ばれたのは身体の小さな男だった。他二人と同じくスーツを着ているが、まさに服に着られている状態だ。
彼は先ほどからずっと周りを気にしており、明らかに挙動不審だ。しかし、親しげな二人がそれを気にしていないあたり、いつものことなのだろう。
そんなやりとりを見た女性は、片目を閉じてため息を吐いた。
「はぁ……その態度だといつか足元掬われますよ。それから、任務中はあだ名ではなく、中田隊員と呼んでください」
日比谷と呼ばれた男は、ヘラヘラと笑った。
「はいはい、分かりましたよ、山羽隊長」
「中田隊員も、しっかりしてください」
「は、はいい!」
中田はアワアワしながらもっと体を小さくする。
舞台は、神喜多小学校。とある地方にある一見何の変哲もない小学校だった。
校舎は南館、北館と二つに分かれており、どの階も渡り廊下で繋がっていた。その一階を見て回る彼らは、幾つもの教室を素通りする。
保健室、用務員室、PTA室、図工室……。
それでも目的地へは着かないのか、二階へと足を進める。
「……やはり、誤報でしょうか」
最初は気を張っていた山羽という女も、少し余裕が出てきたようだ。階段を一段ずつ登りながら自ら話を切り出す。
会話の内容的に、警備員か何かだろうか。
「だから言ったじゃないっすか」
先頭を歩く日比谷が得意げに振り向いた。
「今時、学校で『怪談』なんて古いんっすよ」
「……かも、しれませんね」
「おっ、珍しく山羽ちゃんが賛同してくれた」
「山羽た、い、ちょ、う、です。それでも、目撃情報があったなら駆けつけるのが、私たちの仕事でしょう」
そう言って、山羽は日比谷を追い越す。
「はいはい、山羽隊長は真面目っすねー」
日比谷はヘラヘラしたまま、また前に向き直って階段を上がり始めた。
「えっと、目撃者は市内在住の五十代男性。駅前で飲んだ後に徒歩で帰宅中、ここの二階の窓に映る『武者』のような人影を見た……ってことっすね」
「そ、それって、酔ってただけじゃないかな」
中田の言葉を聞いて、二階へと到着した山羽がゆっくり微笑んだ。
「確かに、中田隊員の言いたいことも分かります。ただ、ここ『神喜多町』は街全体が心霊スポットと呼ばれるほど、危険な場所です」
「信憑性もある……ってことっすね」
「はい……だから」
そこで、山羽は口を閉じた。足を止めて、右手を自分の左腰の辺りに伸ばす。
「……?どうしたんっすか」
山羽に続くように、階段を登り切った日比谷と中田が足を止める。
すると、山羽は伸ばした手で何かを掴んだ。
その右手には、スーツには不釣り合いな『出刃包丁』が握られていた。鈍い鉛色の金属が、月明かりに照らされる。
「出ました。警戒を」
それを聞いて、後ろにいた中田は、フード付きのレインコートのようなものを広げて、さっと羽織った。
日比谷も眠そうな眼から、キリッと引き締まった表情に変わる。
「あれは……」
ボソリと呟いた山羽の目線の先にいたのは、鎧を着たおどろおどろしい落武者……ではなかった。
身長は小学生高学年ほどで、白いシャツに真っ赤なスカートを合わせた服装をしている。
人型で前髪はまっすぐに切られており、全体的に短めの髪。所謂パッツンヘアだ。その上には真紅のリボンが揺れている。
山羽は警戒の姿勢を崩さずに口を開いた。
「こんな時間に……女の子」
よく見るとかなり整った顔立ちをしており、クルンと伸びたまつ毛と、黒い眼が印象的だった。小さいながらも大和撫子といった大人な雰囲気を醸し出す不思議な少女だ。
次に声を出したのは日比谷だ。
「まさか、この学校の子……なんて、わけないっすよねぇ」
「ククックククッ」
少女が笑った。
「……気味悪いっす」
「間違いない。『怪異』です」
笑うとほぼ同時に、少女は背後から形容し難いドス黒いオーラを吐き出した。
一般人ならその気味の悪さと狂気さに気絶してもおかしくない。
「クックッ……誰じゃお主ら」
「しゃ、しゃべった!?」
「知能の高い怪異と思われます。気をつけて」
山羽は左手を前、出刃包丁を握った右手を引いて、戦闘体勢を取る。
「こりゃあ当たりっすね!落武者じゃなかったのは気になるっすけど、あいつの妖気、ビンビン感じるっすよ」
妖気とは、怪異が持つ独特なオーラのことだ。強い個体ほど纏う妖気も大きくなる。
日比谷は手のひらを上に向けた。
「鬼火」
……ボッ
日比谷の言葉に呼応するように、彼の手のひらの上に『青い炎』がゆらめいた。それは、熱源を持たないにも関わらず、火の玉のようになって燃えている。
鬼火……空飛ぶ火の玉のことだ。夜の墓場を漂う青白いアレといえば想像し易いだろうか。
次に日比谷が手のひらを少女に向けると、炎はフラフラと少女の前に飛んでいった。
「なんじゃこれは」
少女は、まるでシャボン玉を見つけた子どものように、興味深くその炎を見ると、人差し指でツンッと指した。
火の玉が、爆ぜた。
ものすごい爆音と共に、少女の前で。
爆風でガタガタと窓ガラスが揺れる。
「はははっ、自爆しやがったっす」
「まだです」
炎の後、そこには変わらずに立っている少女がいた。普通の人間なら今頃火だるまだ。しかし、少女は何事もないようにそこにいる。
「コホッ……クックックッ、主ら、やはりただの人じゃないようじゃの」
そいつは、右手を口元あたりで左右に振って、煙を飛ばす。日比谷の危険度メーターがグンっと引き上げられた。
「『鬼火』『鬼火』『鬼火』!」
先ほどの炎を三つ空中に作り出した。
「飛べ」
全ての火の玉は一直線に少女めがけて飛んでいく。
ボンボンボンッ
少女のもとに飛んでいくたびに、火の玉は爆ぜた。
不思議なことに、それで周りのものが燃えることはない。
燃えるのは少女だけ……
というわけでもなかった。
「効いちゃねぇ……っす」
少女にも点火すらしなかった。日比谷の出す鬼火は、きちんと熱をもった物質だ。本来なら今ので敵は丸焦げになるはずだった。
彼女は、ニヤリと笑った。
「もう、よい……消えよ」
少女は口元を抑えながら、まるで犬を追い払うかのように、もう片方の手でしっしっとジェスチャーした。
そのとき、少女の背後から『半透明な手』が伸びた。ニョキニョキと地面から生えたように伸びるその手は、少女の背も越して、三メートル近くになった。
「な、なんっすか」
ありえない異様な光景。
白いモヤのような物であるが、きちんと手の形を取っている。
すると、その手はさらににゅっと日比谷に向けて伸びた。
「な、なんっすか」
日比谷が回避するようにバックステップを踏んだが、その手は一瞬で彼の右手を掴んだ。
日比谷の体はグイッと引っ張られる。
「え、っちょ!?」
パリンッ
「日比谷隊員!」
山羽が名前を呼ぶより先に、助け出すより先に、半透明な手は、日比谷を窓ガラスに叩きつけて、窓の外へと放り出した。
勢いよく窓ガラスが割れて、日比谷の体が二階から宙を舞って地に落ちていく。
その瞬間、中田の目つきが変わった。のんびりとして、自信のないものだったその瞳は、鋭い眼光を内に灯した。
中田は、フードを深く被り、少女めがけて突っ込んでいく。
「次は主か?」
中田は小さな声で言葉を繋ぐ。
「憑け!鉄鼠」
その言葉を合図にするように、フードが銀色に輝き始めた。次第にただの布だったそれは、硬質化する。
「潰れろ、化け物!」
鉄鼠とは、はるか昔にある人物の憎しみによって生まれた『鉄の歯』と『石の体』を持ったネズミの妖怪である。ここではそれ以上語らない。
とにかく、今少女に凄まじいスピードでぶつかろうとしているのは、石の塊そのもののようなものだ。
少女の目前に中田が迫る。
「無理じゃよ」
少女はそう言うと、先ほどの『手』を六本伸ばし、中田の身体をがっちりと抑え込んだ。
音もせず、彼の体は、少女まで残り数メートルのあたりで止められた。
「……!!」
攻撃が完全に止められたことに中田が驚愕する。
「まだです」
仲間の行動に、意味を与えるのが隊長という存在である。
鉄鼠を止める少女の背後で声がした。それは、山羽だった。手には出刃包丁が握られている。
すでに山羽は回り込んでおり、出刃包丁を少女の首めがけて振り下ろす姿勢に入っていた。
「何が、まだ、じゃ?」
落ち着いた無慈悲な声。
「……ちっ、七本目」
山羽の攻撃は、少女の出す半透明な手によって止められていた。突如現れた七本目の手は、山羽の右手を宙吊り状態に握った。
「ほれ、八本目じゃ。腹に力を入れろ」
少女はもう一つ、グーにした半透明な手を生み出すと、山羽に向けて勢いよく伸ばした……が、山羽はそれを回避するまでもなく叫んだ。
「今です!日比谷隊員!!」
「隊長、ちゅーた!下がるっす!」
それは紛れもなく日比谷隊員の声だった。
「遊火」
先ほど窓から落とされたはずの日比谷が、廊下の端から無数の火の玉を飛ばした。そこは、奥の階段を上がり切った場所だ。
「ほう、階段からもどってきたか!時間稼ぎとは、ないすちーむぷれいじゃ」
彼らはタイミングを見計らっていた。何やら満足げな少女を見て、そこに油断を感じた二人は、互いに目を合わせて、瞬間的に力をを込めた。
そのまま少女の半透明な手から抜け出す。
楽しそうに笑う少女を横目に、手を振り解いた山羽と中田は数歩下がった。
それを待っていたように、無数の小さな火の玉は、少女を囲んだ。
「集え」
日比谷のその言葉を合図に、火玉は少女に向けて一斉に集まっていった。
先ほどまでの火玉と違い、炎が消えることはない。少女に触れるたびに、それらは彼女を包み込むように延々と燃えていく。
「ほう、これは面白いのぉ」
ゴウゴウの燃えながら、彼女は笑う。
「まだです。中田隊員!」
「は、はい!!鉄鼠」
中田は、隊長の指示で、再び硬い銀のコートを身にまとい、凄まじい速さで少女に向けて突撃していった。
ドォォオオオン!!
今度はクリーンヒットだ。少女が学校の壁にめり込んだ。
ピシピシとコンクリートに亀裂が入る。
「よし、離れてください」
山羽の声を聞いた中田は、ぴょんぴょんと身軽に下がった。
少女は変わらずに燃えたままだった。
「最後は私が」
山羽は、出刃包丁を片手に壁に倒れる少女の懐に走る。
しかし、それが少女の首に届くことはなかった。
「無駄じゃよ」
「これでも!?」
炎の先で、少女は笑った。
「ククッ、ここでは狭いのぉ」
半透明な手で山羽を掴んだ少女は、引き込むように彼女を抱えた。
「あっ、熱!」
「外へ行くぞ」
山羽を抱えた少女ら、例の手を器用に動かして、己から生える蜘蛛の足ようにし、自身の身体を宙に浮かせると、そのまま窓ガラスを破って外へと飛び出した。
パリンッ
「「隊長!!」」
中田と日比谷の声が重なる。
ズシャッ……
山羽を掴んだ少女は、校庭に降り立った。
「ほれっ、もっと楽しませてみよ」
少女は山羽をそこらの地面にポイっと投げ捨てると、楽しげに笑った。
「……もちろんです」
体勢を立て直した山羽は、メガネをクイッと上げて、走った。
迫り来る無数の手を避ける避ける避ける。
広い校庭に出たことで、機動力が増す。
少女の半透明な手は軽く十本を超えていた。
それら全てが山羽に向けて伸びていく。一本一本正確に。
「ほほう、これを避けるとはやるのぉ」
「はぁ……はぁ……」
しかし、山羽は正確にそれら全ての手から身をかわしていた。
余裕のある声と、絶え絶えの声。
チリチリと少女を包んでいた炎は、いつのまにか薄くなり消えていった。
「ほうれ、ほれ」
炎の有無など気にした様子もなく、少女はいかんせん楽しそうに、山羽を狙って半透明な手を伸ばしていた。
「いい加減、しつこいです」
山羽は、ここが正念場とばかりに、逃げから攻めへと転じる。伸びてくる手を極限で避けきり、少女との距離をつめる。
少女と山羽の目が合った。
その時だ。
二人の間に何かが飛んできた。
「……!?」
山羽は思わず足を止める。その瞳に映るのは、自身の部下である二人だった。
日比谷と中田。
どちらも、助っ人に来た……というわけではないことがすぐに分かった。
「ふ、二人とも!」
虫の息。
二人は地面をゴロゴロと転がると、力無く横たわった。遠目でも、彼らが自分の血で濡れているのが分かる。
少女にやられたのではない。なぜなら、少女はずっと運動場で山羽と戦っていたのだから。
彼らは他の何かにやられて、校舎の二階からここまで吹き飛ばされてきたようだった。
山羽は少女の半透明の手のことなど気にも止めず、飛んできた二人に駆け寄った。
「大丈夫ですか!」
返事はない。山羽は、防御力に優れた中田の身体を起こす。しかし、願いも虚しく中田は目を開かない。
「鉄鼠の力でも……」
中田は力を使えば、この世界のどんな物質よりも硬いコートを纏うことができる。
はずだったが……。
「切れてる」
世界の、どんな物質よりも、硬い。
そんなコートが両断されていた。
そこからは、中田のものと思われる血が溢れ出ている。
「あれが出たか……」
その声で、山羽は目の前にいた脅威……おかっぱの少女のことを思い出した。と同時に、彼女の言う『あれ』の方を見る。
「……!?」
そこにいたのは、ボロボロの鎧だった。日本武者の鎧。
それは、校舎の二階からこちらを見下ろしていた。
顔は面具で覆われており、はっきり見ることはできないが、目のあたりには、赤い光がぼうっと灯っていた。
「落武者……」
「ククッ、どうする?人間よ」
絶体絶命。
正面の強者に加えて、側面にももう一人……。
「勝てるかどうか……」
山羽は、自身に残された唯一の切り札を唱えるつもりだった。
それは、彼女にとってできるなら取りたくない手段だった。しかし、今使わずしていつ使うのか。
出刃包丁を落武者へと向けて唱えた。
「取り憑け、やま……」
彼女はその先を言葉にすることはできなかった。
「……ごふぅ」
カランッと音を立てて、山羽が持っていた出刃包丁が地に落ちた。
彼女の腹からは真っ赤な液体がどろりと流れ出している。
「は、はやい……」
山羽はそれだけ呟くと、二人の部下と同様に、その場に倒れ込んだ。
そして、そこに立つのは『落武者』だ。
先ほどまで校舎の二階にいたはずの彼は、どういう原理か、校庭の山羽たちの正面に立っていたのだ。
結果的に、その場で立っているのは二名。
赤い服を着た少女と、落武者の霊。
「ククッ、言うことを聞かんからこうなるんじゃ」
「………」
落武者は言葉を発さない。いや、発せないのかもしれない。
彼は、今山羽を斬った刀を鞘へと戻した。
次の標的とばかりに、今度は少女を見据える。
「おや、今度はわしか?」
刹那。武者は少女の前に到達した。
「ククッ」
そのまま居合の姿勢から、即座に刀を抜く。
ビュンッ
刃は少女の首を取り損ねた。空気を切る音だけがその場を包み込む。
「ぬしは、飽きた」
その声は、刀の上からだ。少女は、武者の伸ばした刀の上にちょこんと立っており、刀の持ち主を見下ろしていた。
「もう、十は倒した」
武者は、刀を上に向けて振り上げた。少女はそれを軽々と避けて、地面に着地する。まるで、小鳥が枝に着地するときのような、しなやかな動きだった。
「じゃあの、落武者」
落武者に興味をなくした……いや、元々もってすらいなかった少女は、自身の背後に半透明の手を無数に作り出すと、それを使って落武者をがっちり固定した。
「……」
武者は逃れようともがくが、少女はそれを逃さない。
「流水」
その言葉で、少女の前に直径五メートルほどの渦巻きが姿を現した。
そこはただの土の地面だったはずだ。しかし、空間が捻じ曲がるように、地面が流れを作り出す。
無数の手に引き込まれるように、落武者がその渦に吸い込まれていく。
「……!」
……トプンッ。
時間にして10秒。その程度で、落武者は地面に沈み込んでいってしまった。
そこには、ぐるぐると渦を巻いたまま、動かなくなった歪な地面だけが残る。
「さて、終わったのじゃ」
少女は、両掌を合わせて、パッパッと払った。
その後全ての手を消滅させると、山羽の元へ向けて歩き出した。
「かはっ……」
「おや、生きておったか」
咳をすると同時に血を吐く山羽を見て、少女は愉快そうにそばに寄った。
「ククッ、さて、どうしてくれようかの」
山羽の顔の前に行き、しゃがみ込む。
「ば……化け物」
「化け物とは心外じゃのぉ。こんなきゅーとなれでぃーに向かって」
すると、山羽の瞳に、少女の奥でへたばっていた日比谷が映り込んだ。
彼は、最後の力とばかりに、『鬼火』を作り出していた。油断した上で死角をついての攻撃。
だが、山羽はいち早くそれを止めた。
「やめ……私たちで勝てるわけがありま、せん」
そこで、山羽は大きく息を吸った。
「あの力、あの技、彼女は……間違いありません」
そこで、次の言葉がはっきりと聞こえるように、山羽は大きく息を吸った。
「彼女は『花子さん』です」
「はなこ……さん」
日比谷が目を丸くする。
すると、花子さんと言われた少女は、自慢げに胸を張った。
「ククッ、確かに、わしこそが花子じゃ」
己の小さな胸にポンッと右手を当てる。
「『噂』の怪異が、こんなところに……」
『花子さん』誰もが知る怪異だろう。真夜中の学校で、人をトイレへと引きずり込み、そのまま別次元に閉じ込めてしまう怪異。
人へ及ぼす害の大きさや、その行いの残虐性、知名度などを踏まえても凶悪な怪異だ。
「ははっ、本当にいるんすね……そりゃ、勝てるわけ、ないっす」
日比谷は諦めたようで、上を向いて大の字に寝転んだ。
「何が……何が狙いですか」
花子ほどの力があれば、出来ないことの方が少ないだろう。それこそ、邪魔な人間を片手間に捻り潰すことだってできるはずだ。
さっき落武者にやられた、ここにいる三人のように。
山羽はおそらく自分はここで死ぬ。それが分かっているからこそ、強気に質問することができた。
「ククッ、わしの目的か……?」
続きを聞き逃すまいと、その場にいる誰もが息を呑んだ。
この怪物は何を言い出すのか。
自分はここでリタイアでも、今回の一件を、花子さんの脅威をのちに伝えられればいい。
そんな考えが、山羽の頭をよぎった。
静寂が辺りを包み込む。
すると、その静寂は一人の男の声で破られた。
「おーーい、花子ちゃん、またこんなに壊して、明日どうするんだよぉ。また姫城さんのとこに言って誤魔化してもらわないと……」
「!?」
花子さんを花子ちゃんと呼ぶ人物の登場に、山羽たちの理解が追いつかなくなる。
痛みなど二の次で、無理矢理体を起こして、声のする方を向いた山羽の目に映ったのは、校舎から出てくる一人の男だった。
視界は暗く、その容姿はあまり見えないが、パッと見は、三十手前の冴えない姿をしていた。
ジャージ姿で、片手を上着のポケットに突っ込んでいる。
「おーいたいた……って、誰だそれ!?」
男は、驚いた様に倒れ込んでいる山羽たちを見た。
「それはこっちのセリフです!」
「それはこっちのセリフっす!」
山羽と日比谷の声が見事に声が揃った。
彼に特に目立った特徴はなく、唯一眠そうな目が他の人と差別化できるポイントだろうか。髪型は天然なのか若干パーマがかかっているが、まめに手入れしているようには見えない。
「お、おう……思ったより元気そうだな」
若干引きながらのリアクション。そんな男に花子は尋ねる。
「もう仕事は終わったのじゃろうな」
「もちろん……遅くなったけどこんな時間だし。って、それはいい。この三人はどこのどなたなんだ」
男は、少し早歩きで花子たちのもとまでやってきた。花子は眉を顰めて困った顔をする。
すると、そこまま地面に転がる者たちを見て、一言。
「わしも知らん」
「花子ちゃん、まさか人様に手を出したんじゃ……」
「これは落武者がやったんじゃ!わしはむしろ帰らそうとして、助けてやった側じゃ」
花子は男に対してムキにって言い返した。まるで本当に幼子のような可愛らしさがある。
「本当ですか……?」
男が確認のために目線を下げて、恐る恐る山羽を見た。
「は……はい」
山羽はポカンとしたまま、頷いた。
「そ、そうでしたか……それなら、よかったです」
男は安堵した様で、ほっとため息を吐いた。
「じゃから言うたじゃろ」
「あー、はいはい、すまんかったな」
花子は少しいじけた様に頬を膨らまし、ふいっとそっぽを向いた。
「悪かったって花子ちゃん。危害を加えてないならいいんだよ」
男は花子の頭をポンッと叩くが、返事はない。
「……オコだな。帰るか、明日も早いし」
男は、何事もなかったかのように、踵を返そうとする。
しかし、花子は男に続かない。代わりに、手を男に向けて差し出した。それを見た男は、仕方ないなと笑いながらその手を引いた。
「はいはい。エスコートさせてもらいますよ、お嬢さん」
「うむ。頼むぞ『祠堂』」
少し機嫌のいい花子の声とともに、彼らはどこかに向かって歩き出した。方向的に校門の方だろうか。
しかし、山羽たちはそれを易々と行かせるわけにはいかない。
「ちょ、ちょっと待ってください」
男と花子は止まらない。
「ま、待って『しどうさん』」
そのキーワードにピクッと男が反応する。
「……なんでしょうか。僕たちは暗くなってきたし、早く帰りたいんですが」
二度目の呼びかけでようやく止まる二人。しかし、顔は依然として前を向いたままだ。山羽の目には後ろ姿だけが映っている。
「あなたは、いったい。今、花子さんから『しどう』と」
「言われておるぞ、祠堂、はよ自己紹介せんか。新学年が始まるたびに、童たちにもそう言っておるじゃろ」
「馬鹿、余計なこと言うんじゃありません」
「ほれほれ、祠堂」
「花子ちゃん、何のつもりだ。さっきの仕返しか?」
「はて、なんのことやら」
かの有名な怪異を前に、本当の子供同然に当たり前に振る舞う謎の男性。
その様子にポカンと呆気に取られている間に、ひと段落したのか男は言った。
「やっぱり、お互い今日は見なかったことにして……」
「……!?」
「失礼しますね」
「え、嫌、だから話を!!」
山羽は必死に止めるが、彼女の体はボロボロで、男を追いかける体力も残っていなかった。
静かになった校庭に山羽の声だけが響く。
結局彼らは、「失礼しますね」という言葉を半ば強制的に押し付けると、そのまま校門の方に行ってしまった。
残ったのは、地面に横たわる三人のみだ。
三人は星々が輝く空を見上げながら、言葉を交わした。
「隊長、とりあえず、本部に救護連絡、しておくっす」
「頼みます。日比谷隊員」
「つか……れた……」
「おっ、ちゅーたも無事っすね」
「うん……なんとか」
「なんとか全員生存。まずは本部に連絡。無事の連絡と捜査の要請。それから、修理班を呼びましょう」
「はぁ……治療班も頼むっす」
この世界には怪異と呼ばれる存在がいる。
彼らは見た目も性質も様々だが、おおよそほとんどの怪異が人に仇をなす点は変わらない。
これはいっかいの教師がそんな怪異とともに、東奔西走する物語である。