第52話 V
「うむ……冷静に考えてみると、赤ちゃん一人を急に世話することになるのって大変なんじゃないか?
お腹を空かせてるようだ。つかぬことを聞くがミリー、母乳って出るか?」
「本当につかぬことを聞くわね。出るわけないでしょっ!」
「そらそうだよなぁ。というか、ここにいる間母乳はどうしていたんだ……!?」
それ以前に、セルフィのところにいる三十年近くの間母乳はどうしていたのかも気になるところであるが、アベルたちはそれどころではなかった。
「さあね。牛みたいな胸してるあの団長があげてたんじゃない?」
「姫様がお乳出るわけないだろ。どうやって育ててたのかは知らないが、とにかくみんなのところへ戻るか」
「わかったわ」
「しかし、俺に何か言いたいことでもあったんじゃなかったのかミリー。
みんなを置き去りにしてまで。俺に出来ることであれば言ってくれ」
「もういいわよそれは。何だかバカバカしくなってきちゃったわ。
実を言うと、私は死神騎士団の連中をこの夜の闇に紛れてぶっ殺そうと思っていたのよ!」
「なにっ!?」
「サラは私の妹みたいなものよ。それなのにママ先生から騙して奪って治療なんてする気もない!」
「うむ……死神騎士団の連中なら俺だって殺したいところだが」
ところだが、アベルは教師時代に現代の死神騎士団たちの親たちとも交流があり、手にかけたビスマルクの父や母とも一緒に過ごした記憶はある。
記憶の悪魔によってそれが復活させられたためである。
「でもサラのことは普通にちゃんと世話してたみたいね。何なら可愛がっていたのかもしれないわね。
お留守みたいだし、宮殿にはもう用はないわ。
宮殿にはもうあらかた"魔具"の痕跡がなくなってるみたいだから」
魔女ミリアムが狙っているのは魔術的道具、略して魔具。
たとえばビスマルクがこの日の日中まで持っていて、アベルに奪われ、元の持ち主が殺されたあとアクセルがさらにそれを強奪したニコの剣。
それに悪魔の遺体。封印されし怪物。その他様々な呪いが込められた呪物だ。
これらは度重なる宮殿への闇の魔術師の襲撃のせいで奪われ切っており、唯一最後に残っていたのがこの呪われし子供、その名もアベルとセラの子・サラだった。
しかしそのサラも父親と半分姉か叔母のような存在であるミリアムによって"強奪"され、宮殿は素寒貧である。
ちなみに闇の魔術師と言ったが"ダーク"とか"シャドウ"とかいう意味ではなく帝政に認められた正規の者ではない魔術師のことで、闇医者とか闇市といった言葉で使われる闇だ。
「ミリーなら単独でもやり合えるかもな」
「やはり皇女の動員によって出払っているみたい。仕方ないわね。帰りましょ」
瞬間移動が行えるミリアムの許可なくしては、アベルが勝手にここを去ることは出来ない。
彼が何か言いかけた時には、すでに彼とミリアムは先ほどから何度も話題に挙がっている牛のように胸の大きな死神騎士団の団長、それにその部下などがいる薄暗い町の一角に戻ってきていた。
「えっ、もう戻ってきたの!」
「してやられた……皇女殿下どうします?」
「どうしようもないでしょう。彼女らにその気があったのならこんなに早く戻っては来ません」
「姫様、心配しなくても俺たちはこの子を取り戻す以外のことはしてないよ」
「それに"マーキング"はサラに対してのもの。宮殿にはしてないから私は飛んでいけないわ」
「……その言葉信じておきましょう」
言うまでもないことだが上記のような話をしている間に、母親であるセルフィはアベルの手から娘・サラを受け取っているところであった。
親子は数年ぶりに再会を果たしたわけだが、開口一番、セルフィが言い放った一言にはほかの全員が閉口せざるを得なかった。
「わあ、サラ、あなた石化病が治っているんじゃない? それとも今が夜だから……?」
「多分セルフィも治ってるんじゃないか?」
「ありがとうございます皇女殿下!」
セルフィは抱えている赤ん坊を落とさんばかりのものすごい勢いで腰を折り、皇女殿下に頭を下げた。
「ついに治療が実を結んだんですね!」
「えっ。それはその、まあ、はい。夜が明けても、しょ、症状が出ることはない……でしょう」
しどろもどろになりながらも、適当に皇女は話を合わせた。
これに訂正を入れても構わないが話がややこしいことになりそうだと考えた真相を知る二人は黙っておいた。
「えっと、つかぬことを伺うんだがみんな。サラはまだ乳児だ。
普段誰がお乳をあげていたんだ。こればっかりは俺は頼りにならないぞ」
「頼りにするかバカ。でも本当にそれは切実な問題よ。夜が明けたらお医者さんにも見せないと。
私、気合いでお乳出るようになるかなぁ。この子の顔見てたら出る気がしてきたけど」
「出ないわよミリー」
「姫様、どうします?」
「私もその件は詳しく知らないのですがね」
「何の話だ二人とも?」
「その子の食事は血液を与えていたのです。母乳は一度もあげていません。
セルフィさんのところでも三十年間はそうしていたのでは?
まさかその間お乳を与え続けていたということもないはずですが」
まあ、確かに皇女の言うとおりである。ただ、必ずしもそう断言は出来まい。
サラは三十年間で一年も成長していない。せいぜい生後半年からそれ以上の零歳児のような姿をしている。
大雑把な計算ではあるがおよそ一年で一週間程度しか成長しないものと考えられる。
同じ時間のスケールでセルフィの体も活動してるのだとすれば、一般的に言って出産した女性がお乳を出し続けられる期間内ではある。
だが三十年間ずっと出っ放しだったら非常に肉体、精神的に辛いだろう。
栄養補給以外の世話だってある。だがサラの場合常人の五十分の一程度の新陳代謝しか行っていないものと考えられるため、一か月に一度か二度ほどお乳をやれば十分という計算になる。
下の世話についても同様だ。まるでサボテンである。
意外とサラの世話は大変ではないのかもしれないが、セルフィやミリアムたちはどうしていたのだろうか。
「はい。みんなで血をあげていました。先生からそうしろと教えられたので」
「あら。私母乳出るけど」
「えっ」
「なにっ!」
突然訳の分からないことを言ったかと思うと、肌寒い気温の中、着用していた服をたくし上げて、下着をずらして胸を放り出したモードがいるではないか。
アベルは既にその胸を確かめ、偽物であると知っている。
「おいおい、俺の娘に変なもの与えるなバカ野郎!」
「変なものとは何よ。私出るから。本当に出せるから!」
そんなことしている時間はないのは重々承知の上ではあるが、男と元男たちは軽くもみ合いになった。
「まあまあアベル。親切で言ってくれてるんだからさぁ」
「とりあえずそれをしまえ!」
言われた通りに服を着なおしたモード。
先ほどの発言は確かに冗談交じりではあったが、急に態度を変えて真面目な表情をしてこう言いだしたのである。
「それはそうなんだけど、その子は石化病が治ってしまったんでしょう。
じゃあお乳以外の物は受け付けないんじゃない?
それに今までとは違って他の赤ちゃんと同じ頻度の食事が必要になるはずよ」
「うーむ、確かにこれまで通り血を与えるわけには行かないですね」
余談だが、もしも人間が血液だけを食事として生きようとした場合、ものすごい量の血をのむ必要があるとされている。
人間は糖分を十分にとれていないと頭痛やめまい、眠気などに襲われ、意識は混濁してしまう。
だから多くの国でお米や小麦など糖分を多く含む食料が主食となっている。
しかし血には病気の人間でもない限りほとんど糖分は含まれていない。
ただしこの世界の人間には血に魔力が含まれており、魔族である吸血鬼は血を吸うだけで生きていける。
血を内蔵や消化器官で消化して栄養としているのではなく、そのため体の代謝機能自体がほとんど必要ない。
魔族が長命、あるいはほとんど不老不死なのはこのためである。
人間の場合魔力がいくらあっても腹は減るし、食わねば餓死する。
「モードさんだったかしら。
赤ちゃんがいるのに死神騎士団なんて危ない仕事してる場合じゃないわ!
力になってくれようとしたのは嬉しいけどね」
「御心配には及ばないわ占い師さん。ところで姫様、私たちにはもうあの子にかかずらわってる義理はないでしょう」
「そうですね。石化病が解けた以上、私とあなたの関係はそこで終わりです、セルフィさん。
私の親戚にも乳児の時に、乳母が不運にも亡くなってからはスプーンで食事を与えられて育った人もいます。
そのくらい成長しているなら、あとは育ってくれるでしょう」
「ありがとうございました……!」
「こ……!」
我慢しなければ、とミリアムが我に返ったときにはもう遅かった。
彼女の魔法はとてつもなく殺傷力が高い。それでいて燃費がいい。
空間に干渉できるという希少な魔法をいとも簡単に扱える彼女の魔法はアベルが扱う音の魔法と性質は似ているが、威力は段違いのものがある。
回避や予知はほぼ不可能。速度的に、攻撃を知覚してからではもう遅い所も共通している。
「しまっ……!」
そしてまた、使い手自身にも速過ぎて、しまったと思った時にはこれを止めることは不可能であった。
これまでさんざん、人を嘲弄するような言動を行い、隣町では大量死のトリガーを引き、赤ん坊と母親を数年間も引きはがして、これと言って謝罪もない。
確かにミリアムにとっても我慢の限界であり、つい手が出てしまったとしても情状酌量の余地は十分あるだろう。
いずれにせよ確かなことは、ミリアムの魔法によって皇女の左腕が根元からちぎれ落ちて、砂利がちな地面に鈍い音を立てて落下したということである。
「なにっ!?」
「きゃあっ!」
「ちがっ……!」
「姫様、やるんですね、今……ここで!」
「落ち着きなさい、モード」
緊急事態ゆえ、己の言いたいことを口々に話す面々。皇女だけがこの場で落ち着いていた。
出血した傷口を手で押さえ、ほんのわずかに額に汗をかいているだけ。
しかも何を思ったのか彼女は落ちたかつて自分の腕だったものを己の傷口にくっつけ、断面と断面をぴたりとくっつけたではないか。
「私は大丈夫です。向こうの出方をうかがいましょう」
「ですが……!」
「私たちで争っている場合ではないということです」
「姫様、説明してくれよ。これは……!?」
皇女の腕は切断面が瞬く間に癒合していた。魔族、それも相当上級の魔族のような芸当だ。
この世界では悪魔の次に吸血鬼が強い。再三説明しているように、この世界では悪魔は魔力そのものである。
人々の負の感情という名の波に、悪魔の中の悪魔であるルシフェルが、輪郭と魂を与えた存在でありそれは魔力の塊だ。
そして吸血鬼は人間に流れる血、すなわち魔力を吸って生きているので下手な悪魔より強い個体もいる。
特に最も多くの血を吸った、つまり魔力を奪ってわがものとした個体を"真祖"などと呼ぶことがあるようだ。
つまりその個体が単純に考えて最も強い。それ以外の魔族はどんぐりの背比べと言ったところであまり大差はない。
人間族によって全滅させられたので記録もほとんど残っていない。
悪魔と吸血鬼だけは人間が束になってかかっても倒せなかった。
ゆえに人は闇を恐れる、と子供たちは母親から寝る前に何度もおとぎ話として聞かされるのがこの世界のどこでも見られる光景であった。
今、アベル達が目の当たりにしているのはその力を皇女が我が物としている決定的な証拠だった。
「バカな。"先生"は死んだとアベルに聞いたわ。ならその回復力は……!?」
ミリアムはこの状況でもかなり冷静に分析を行っていた。子供時代と全く変わらない性格をしている。
図太いというか、ともすればサイコパスじゃないかと思われるくらい精神的に動揺しにくい所があり、こういった極限状況下では信頼に足る女だ。
彼女の推論は正しい。仮に皇女が吸血鬼になっていたとしよう。
現代に吸血鬼の生き残りはほとんどいないし、"先生"とはお互い知り合いだから彼女によって皇女が吸血鬼化しているというのなら、一応納得は行く。
だがそう考えると、先生によって吸血鬼化していたサラやセルフィのそれが解除されている事実と矛盾している。
ということは、答えはどういうことかは明らかなことだった。
「そう、"先生"こと魔女イザベルは吸血鬼でした。そしてわが宮殿には実験データも大量に存在します。
むろんかつてアベル先生が研究なさっていた時代の資料も保存されています」
「作ったのか。その技術で……その力で!」
確かに、三十歳を大きく過ぎているにしては皇女は肌も白くきめこまかく、若く美しい方ではあるとアベルも思っていた。
皇女と接したことのある人間なら誰でもそうなのだが、彼もまた王侯貴族なのだから化粧の技術やスキンケア用品など一般の女性と比べて優れたものを使ってるからだろうと勝手に合点していたからだ。
「力があれば……力さえあれば。それを得るためなら私は人間をやめても構いません。
感謝していますよ先生。あなたの研究データはこの成果を生み出すために大いに役立ってくれました。
しかし何だと言うのです皆さん。私が吸血鬼の力を手にしていることで、何か問題でも?」
「そうよ。サラを救う研究が役に立ってるわけでしょ。
人間誰だって老化を止めて絶大な力を手にできるんだったらそうするわよ」
「なにっ、セルフィはそっち側かよ!」
「なんだかアベル、あなたが彼女を選んだ理由が分かった気がするわ。
男って彼女みたいなタイプが何だかんだ好きなのよね」
もちろん、そのように穏当な表現でコメントしたモードレッドの本音は、男というのはセルフィのようにちょっと抜けたところのある女性の方が、つい守ってあげたくなるのでモテるタイプだということだ。
「アベルによって自分勝手に生きる道を示され、そのように生きることを自分は決めたのだ」
そんな風に語っていたセルフィであるが、そもそも人とは自分勝手なものである。また善悪や利己的、利他的といった性質の基準も人によって違う。
一般に言われる優しい人、というセリフもどの程度優しければ優しい人に分類されるかというと当然人によるわけだが、"生来優しい人が使う優しいという言葉"のほうがハードルが高い。
もともと優しい人にとってある程度誰にでも優しくすることは当たり前だが、太宰の「蜘蛛の糸」にあるように、悪人がほんのちょっと気を付けて蜘蛛を殺さないようにしただけでも悪人の基準で言えば優しいと言えるだろう。
セルフィは己で利己的に生きる、と宣言していてなお他人よりも遥かにお人よしの気質であり、これはもう死ななければ治らない筋金入りの形質だ。
むしろその名前は、利己的に生きようとしても生きられないほど、度を超えて優しい彼女の本質を表していると言わざるを得ないが、そういわれたら恐らく彼女は孫が居てもおかしくない年齢だが、無邪気な子供みたいに怒ることだろう。
この期に及んでもまだ皇女の味方をしているのは、あるいは皇女が美人なうえに社会的地位の極めて高い人物だから、ハロー効果によって好印象が強いのかもしれない。
「とにかくケンカはやめましょう。皇女殿下の言う通り、ケンカしている場合じゃないのはみんなわかってるでしょ。
ほら、ミリー。くっついたからいいものの、暴力はいけません!!」
推定四十歳過ぎだと言うのに、まるで子猫が首筋に刺激を受けると本能的に固まって身を任せてしまうようにしてミリアムはママ先生と呼び慕うセルフィの不健全なまでの言いなりである。
彼女の手がミリアムの後頭部に触れ、頭を下げるよう促すと不承不承ながらもミリアムは謝罪のポーズをとった。
「ぐっ……ごめんな……さい……!」
「気にしていませんよ。少し驚いただけです。皆さん、先を急ぎましょう」
皇女はもう丸一日近くも活動を続けており、普通の人間なら疲労困憊のはずだ。
半日近く歩き通しで、やっとたどり着いた人の住む町で休む暇もなく腕を切断される仕打ちにも動じてはいない。
不死者にありがちな傾向である。肉体はおろか、精神すらも不死身に適応し始め、痛みやあらゆる感覚が鈍ってくるのだ。
とはいえ、それが関係ないと言えるくらい、元々彼女は強靭なまでのペルソナ、いわば外面を取り繕う仮面としての人格を所有している。
それは厳しく教育された高貴な身分ゆえ、という部分もあるだろう。幼年期に経験した大きな喪失も関係しているはずだ。
幼年期に大きな喪失を経験した者はえてして、その喪失を埋めることを生きる目標にしてしまうことが多々ある。
分厚い仮面の奥に感情や情動、すべてを封じ込めて冷たい鉄面皮を保つというのは、単純で簡単そうに見えるが常人では耐えられる心の持ちようではない。
彼女はただひたすら、喪失した大切な物を取り戻すまでは、千年生きた不死者のような、あるいは禁足地に根付く古びた大樹のような不動にして静謐の精神を堅持している。
いや、正確には堅持してきたというべきか。もし皇女が今急に態度を変えてアベルに少女時代のように甘えたとしても、彼は受け入れるだろう。
これ以上彼女が何かを必死に守ろうとする必要はもうない。策をめぐらせ、演技をし、人を陥れたり騙したりといった真似をする必要ももうない。
彼女の大切な人を縛り付ける"魔女"は死んだ。ずっと目標にしていた魔女の抹殺は一度は失敗したかに思われたが、思いがけず叶ったのである。
そんな皇女殿下が今もまだ仮面を外さないでいる理由は本人もわからないでいる。
まだ魔女だけでなくアクセルという家族の鎖を断ち切らないといけないと考えているのか。
あるいはあまりに長く仮面をかぶり過ぎていて外し方を忘れてしまったのかもしれなかった。
陳腐な表現だが氷のような女、シロル皇女殿下の清々しいほどの邪悪なまっすぐさには感服すら覚えるミリアムだった。
「しょうがないわね。色々大変なことがあって忘れてたけど、本来の目的は確か……?」
「ビビという少年を連れ帰ることだ。奴をアクセルに奪われたら、何か大変なことが起こるようだ。
起こらなくても助けに行くがな。あの子はバージルたちの子供らしいからな」
「えっ、ティナから託された子ってことなの!?」
別に大して重要なことでもないのでさらっと流しておくが、ビビ少年の家はなぜか代々Vが頭文字に来る名前を子供につけている。
ビビアン少年もそうだしバージル、やその母ティナことヴァレンティナもそうだ。
重ねて言うが別に名前はどうだってかまわないのであくまでも余談として記述しておく。
「まあそうなるな。あの子の両親はアクセルによって殺されたらしい」
「そんな……!」
「だからミリー、これは至急の要件なんだ。それよりも、サラのことを優先してしまった俺を軽蔑するか?」
「決められないわよそんなこと。同じ立場なら私だって……でもごめんなさい」
「やはり、ビビのところへ飛ぶには"マーキング"がないか」




