銀色の狼と、美しき青年
何でも屋『銀の弾丸』を始めて丸二日、アリスは部屋の片付けをするだけで一向に依頼人が尋ねて来ることはなかった。
さすがに宣伝の仕方に問題があったことに気付くが、だからといって大々的に宣伝するわけにもいかない理由もある。
夕食のカップラーメンを食べながら、アリスは溜め息交じりに呟いた。
「やっぱり本格的で、もっと信頼性のある宣伝の仕方をしないと依頼人なんて来ないものなんでしょうか……。でもあまり目立つ行動をしたら、お父さん達に『何でも屋』を始めたことがバレてしまいます。それだけは絶対に避けないといけません。これ以上心配をかけるわけにはいきませんから……」
ずずずっと麺をすすっていると、突然ドアをノックする音が聞こえてきた。テレビもラジオも付けていない部屋で食事をしていたので、周囲の物音はよく聞こえる。だからノックをしてきたことに異常を感じるのも当然だった。
(……インターホンがあるのに、どうしてノックなんでしょう?)
怪訝な表情になりながらアリスは玄関の方へ歩いて行き、しばらく様子を
窺った。そしてもう一度、ゴンゴンと強くドアを叩く音が聞こえて来る。部屋の明かりをつけていたので、今さら居留守を使うわけにもいかなかった。
今アリスが食事をしているキッチンは外の廊下に面しており、明かりは外側にしっかりと漏れているためだ。
廊下にも一応電灯は付いているがその明かりは弱々しく、室内の明かりの方が圧倒的に強かった。世の中には空き巣対策のためにわざと明かりを点けっぱなしにする家庭もあるが、世間ズレしているアリスはそれを知らない。
室内の明かりが付いているということは、部屋の人間が在宅中という意味だと思い込んでいる。
不安にかられてる中、途端に研究都市を出る前に聞かされた話を思い出す。
『外の世界は危険だから、常に銃を携帯していなさい』
義理の父親であるエディオール・バースの言葉を思い出したアリスは急いで、しかし出来る限り物音を立てないように寝室までそっと移動し、ベッドの側に置いてあった銃を手にした。
弾がちゃんと装填されてることを確認し、玄関の前に立つ。これまでの動作を行っている間、なおもドアを叩き続ける様子は変わりなかった。それが余計にアリスに恐怖感を与えている。
怖くなってきたアリスはそれでも冷静に対処しようと、咄嗟に入口の前に設置してあった防犯カメラの存在に気が付き、ディスプレイが設置されているキッチンへ戻ると急いでノックをしている人物が誰なのか確認する。
カメラに写っているのは恐らく四十代後半の中年男性、頭は戦後の焼け野原のような悲惨な状態で、落ち着きなく体が揺れている様子から見て泥酔状態だと推測する。
「もしかしてこの方、酔って家を間違えているのでしょうか?」
特に何か危険な物を持っているようには見えなかったので、アリスは銃を
キッチンに置いたままもう一度玄関の方へ歩いて行く。
ゴンゴンゴンと更に強くドアを叩いてくる。アリスはそれでも警戒を怠らないようにしながらドアから少し離れてから声を上げた。
「あの、何かご用ですか!?」
アリスの声に反応したのか、それまでしきりにドアを叩き続けていた音が
ぴたりと止んで急に外が静かになる。知らない人物の声を聞いて、家を間違えたことに気付いたのだろうか?
そう思った瞬間!
ガンガンガンガンガン!
突然男が大暴れでもし始めたのか、力一杯にドアを叩きつけて今にもドアが壊れるかという位、激しく揺れる。
「あああーっ、開けろぉーっ! 開けろぉーっ!」
「きゃあああっ!」
狂気に満ちた怒声が聞こえて、アリスは恐怖におののき慌ててキッチンの方へ駆けて行った。
ドォンとこれまでにないほど大きな音が響いてくる。今度は両手で叩きつけるだけでなく、遂にはドアに向かって体当たりしてきてどうにかドアを無理矢理にでもこじ開けようとしているようだった。
震える手で銃を構える。しかし震えてしまってなかなか引き金に指を引っ掛けることすらできない。
「あぁっ、助けて! お父さん、お姉ちゃん!」
自分の身に一体何が起こっているのかわけがわからず、アリスはなんとか震えないように両手で拳銃を構え、ゆっくりと引き金に指を引っ掛ける。
それと同時に玄関が衝撃に耐え切れず内側に倒れ込んだであろう音が聞こえた。
「ひっ!」
玄関の方から聞こえた大きな音により、アリスは遂にドアを壊して男が部屋の中に侵入してきたのだと判断した。
いつでも発砲出来るようにしっかりと銃身を構えて、アリスはキッチンの柱の影からじっと玄関先に目を凝らす。
男が侵入して一気に室内が静まり返る、それがかえって不気味に感じられた。アリスの動悸が激しくなる。いつ男が飛び出してくるかわかったものではないからだ。
ゆっくりと後退しながら、アリスは他に逃げ道はないか必死に考える。すると玄関先の方から男の声が聞こえて来た。
「うぅっ、どこ……だ? 我らの、……どこにいる? 血が、血が……欲し……い、血を……肉を……っ!」
アリスは恐怖で体が硬直しそうだった。今、この部屋に侵入している人間はただの酔っ払いなどではない。とても危険な、自分を狙う危険な人間に間違いなかった。
(これは強盗とかそんなんじゃないですっ! あたしを狙ってる! あたしを殺そうとしてます! ど……どうしたら、どうしたらいいんでしょう?)
銃を握る手に汗が滲んで、アリスが引き金を引くのを躊躇っていた時。遂に男が顔を覗き込んで来て目が合った。
顔面蒼白な男は瞳孔が開くほど両目を大きく見開いて、口は大きく開かれ、腹を空かせた犬のようにヨダレをぽたぽたと床に落としている。
前かがみによたよたと歩きながら、アリスの姿を確認した途端うっすらと
不気味に微笑む。
「お前の血を、肉をよこせー!」
そう叫び、男は両手を突き出しアリスに向かって襲いかかってきた!
恐怖のあまりアリスはリビングの方へ後ずさる。男に背を向けたら終わりだと思った。追いつかれてもどのみち終わっていただろうが、男から視線を外すわけにいかないと本能的に感じ取ったのかもしれない。
そうでなければ銃で防衛することが出来ないと思った。
「きゃああ! 来ないでー!」
そして遂に恐怖が絶頂に達し、アリスは反動で引き金を引いた。キッチンまで入ってきた男がリビングまで入ってくる前に発砲したのだ。
「う、あ……」
アリスが発砲した二発は外すことなく男の心臓に命中した。男が着ていたシャツがみるみる赤に染まっていき、そしてゆっくりと前のめりに倒れていく。
「はぁ、はぁ……」
腰が抜けたように、アリスは銃を構えたまま、そのまま床に座り込む。銃口からは硝煙が立ち上り、室内に火薬の臭いが充満した。
息を切らしながらアリスがゆっくりと床に転がっている男を見ると、うつ伏せに倒れた男から血が溢れキッチンの床に広がって行く。
2発もの銃弾を心臓に受け、男はぴくりとも動かない。
頭の中が真っ白になって行く。
恐ろしさで声も出なかった。
(あ、あたし……! 人を殺し……っ!)
ようやく目の前の事実を把握した時。
「血をよこせー!」
死んだはずの男が突然起き上がり、血走った目でアリスに再び襲いかかった!
「いやあー!」
一瞬の出来事でアリスは銃を構えることが出来ず、悲鳴を上げることしか
出来なかった。
(……殺されるっ!)
そう瞬間的に察した直後、がしゅっという奇妙な音が聞こえた気がした。それでも恐ろしさで目を開けることが出来ない。ただそのまま硬直し続けるしか出来なかった。
「おご……っ」
アリスを襲ってきた男の声だろうか。確信は出来ないが確かにその男のうめき声のようなものを聞いた気がする。
両目を閉じていたアリスには、何が起きたのかわからなかった。殺されると思った瞬間、不気味な音と男の短い悲鳴が聞こえて。
それから何かが床に倒れ落ちる音が聞こえてきただけだった。
ゆっくりと、怖いが何が起きたのか確認する。
するとさっきは2メートル程の距離にいたはずの男が、今はそれ以上離れた場所で倒れている。
両足は痙攣するようにピクピクと動き、やがて静かになった。
本当はそれ以上確認するのが怖かった。
キッチンの床が、血の海だったからだ。
先程アリスが撃ち殺した時に流した血とは比べ物にならない位、辺りは血にまみれている。
床だけではなく壁にも、それこそ辺り一面に。
たった二発の銃撃で、人間はこんなに出血するものなのだろうか?
人間を撃ったことなどないから、そんなことわからない。
改めてそう考えると恐ろしさで腰が砕け、そのままへたり込んでしまう。
恐怖で視界が狭くなっていたアリスは、やがてもうひとつの気配に気づいた。
それは倒れている男のすぐ側から、じっとこっちを見つめている。
アリスは震えながら視線を動かした。
白い、大きな生き物。
今まで見たことがない位、とても大きな犬。
全身恐ろしい程に美しい銀色の毛並みをしており、両目は金色に少し緑がかった輝きを放っている。
そして口元には銀色の毛並みを汚すように真っ赤な血が塗られていた。
「あ、あぁ……」
前足で男を踏みつけ、じっとアリスを見つめる巨大な銀色の狼。
足元で倒れている男の方にもう一度視線を戻すと、恐らく部屋一面の血は
この狼に喉元を噛み切られ、それで大量に出血したものだと把握した。
男は恐らく、失血死している。
そして次は、自分の番!
銀色の狼が、ゆっくりとアリスに近付く。腰が抜けたままで立つことも逃げることもままならないアリスは、震えながら銃を狼に向けて構えた。
すると狼は、ぴたりと動きを止める。
まるで銃に怯えるように、それ以上近付こうとはしなかったのだ。
アリスが銃を構えたまま、しばらく膠着状態が続く。
するとどこからともなく若い、美しい声が聞こえて来た。
「どうか怖がらないで、オレ達は君の味方だよ」
その声に振り向くとどこから入ったのか、リビングの位置とは真逆にある寝室から、アリスの背後から若い青年が姿を現す。
黒いロングコートを羽織り、寝室にある開け放たれたベランダから吹き込む風にあおられて輝くように金色の髪が揺れる。
美しく優しげな青年の微笑みに、アリスを支配していた恐怖感が消えて行った。そして力が抜けるように銃を下に向けて、そのままゴトリと銃を床に落とす。
金髪の青年がアリスの前に歩み寄って膝をつく。
穏やかな物腰で、そして落ち着く口調で青年はアリスに向かって囁いた。
「オレ達はずっと君を探していた、そしてようやく見つけた。……アリス。オレ達の母であり、恋人であり、そして花嫁であるアリス。どうかオレ達を救ってほしい」
「えっ、えええっ……?」
唐突な出来事の連続で、アリスの思考回路はその展開について行けず。室内に飛び散った血の匂いがなぜか甘美に感じられて。
そのままアリスは気を失ってしまった。




