不思議な既視感
「紅の兄弟」と呼ばれる組織の本部へとやって来たアリス達は、ヴァンの案内で屋敷の中へと入って行った。
先頭を歩くヴァン自体は全くといっていい程に警戒心のない態度であったが、キーラとカインに至ってはどこか居心地が悪そうな、あまりここへ近付きたくなかったかのような、そんなわずかな緊張感が側に居ても窺える程である。
初めてここへ来たのはアリスとフランだけ。
しかしフランはまだ幼いせいかアリスのように緊張で固まってるような様子は微塵もない。むしろアリスと初めて出会った地下の檻から出られて、色んな場所を見たり聞いたり赴くことが出来て嬉しそうにはしゃいでる様子であった。
アリスはフランのように到底無邪気に振る舞うことは出来そうにないと心の中で思った。これから自分の知らない、自分に関する何かを聞くことになる。
それはきっと笑顔で聞けるような内容ではないだろうと心のどこかでわかっていたからだ。
まだアリスは真実を知ることを怖がっている。
しかし心に決めた以上逃げるわけにいかなければ、いつまでも恐れているわけにもいかない。
自分が本当は何者なのか?
義父であるエディオール・バースの真意は?
義理の姉であるイーシャ・バースの、アリスに対する敵意の理由は?
それを知らなければアリスはこれ以上前に進むことは出来ない。
何もわからないまま、もしかしたら自分は何者かの手によって命を狙われ、最悪殺されてしまうかもしれなかった。
そうなる可能性がゼロではないことを、あの研究都市で嫌という程思い知らされたのだから。
不安そうに俯きながらついて行くアリスに、先程までヴァンやキーラに注意されながらも渡り廊下をうろちょろと走り回っていたフランが、唐突にアリスの手を握って顔を見上げる。
小さく温かい手の温もりにアリスは、ふっとフランの顔に目をやった。
するとフランは半ば泣きそうな表情でアリスを見つめると、たどたどしく訊ねて来た。
「どうしたのアリス? こわいの?」
そう言いながらフランの手がぎゅうっと力強くアリスを励ますように力を込める。
フランの健気な力に、アリスはそれまでずっと拭うことが出来なかった恐怖感を一瞬にして払拭出来たように、胸の奥に潜んでいたもやもやがなくなった。
アリスの不安を敏感に感じ取ったフランが心配し、手を握ることでアリスを励まそうとしたのだ。
そんなフランの優しい気持ちがアリスはとても心強かった。
「ありがと、フラン君。あたしは大丈夫ですよ! フラン君のおかげで元気出ました!」
「ほんと? ぼくのおかげ?」
「はい! フラン君が励ましてくれたから、こわいの全部なくなっちゃいました! だからもう大丈夫です、もう平気ですよ!」
「えへへ、アリスにえがおがもどった! ぼくもうれしい! よかったよ!」
二人で手を握り合い笑い合う姿を振り返りながら微笑ましく見守るヴァンとは裏腹に、キーラとカインは少々呆れたような笑みを浮かべるだけであった。特にキーラに至っては何が気に入らないのか、こっそり舌打ちまでしている。
フランの活躍もあってアリスは本当にほんの少しだけだが勇気が持てた。
今まで自分に言い聞かせるように気丈に振る舞っていたが、それでも心の奥底では不安で一杯で押し潰されそうになっていたのが事実である。しかしフランのように自分の事を気にかけ、元気づけてくれる者がいるという心強さを得たことはアリスにとってとても大きな収穫であった。
他者を思う気持ちで自分を奮い立たせる、という感情に近かったが今のアリスにはそれで十分だと知った。
何か恐ろしい真実が待ち受けていようともアリスには自分を心から本当に思ってくれる者が側に居てくれる。
それがわかっただけで、本当に充分であった。
(大丈夫……、あたしにはこうしてあたしのことを心配して側にいてくれるお友達がいるんです。どんなに辛い内容であっても、きっと受け入れることが出来るはず。大丈夫……!)
アリスは心の中でもう一度自分に言い聞かせると、きりりと視線を前方に向けた瞬間、アリスのすぐ前を歩いていたキーラが突然立ち止まっていたことに気付かずに勢いよくぶつかってしまった。
短い悲鳴と共にキーラの鍛え上げられた筋肉質の固い背中に思い切り顔面をぶつけたせいか、反動で跳ね返ったアリスの顔の中心が真っ赤に染まり、鼻をぶつけたせいで一瞬息が止まってしまう。
「何やってんだお前はっ!?」
結構な勢いでぶつかったことに驚いたキーラはすぐさま振り向くと、顔を赤く染めて痛そうに表情を歪めているアリスに向かって声を上げた。キーラ自身は別にアリスのことを怒ったつもりはなく、ただ単に声を上げただけであったが、キーラの元々の声の音量が大きいせいか、彼がアリスのことを心配して声をかけた行為を誤解したカインとフランが非難する。
「お前が急に立ち止まるのが悪い。――アリス、大丈夫かい? こいつの体は馬鹿みたいに固いからとても痛かっただろう?」
アリスを気遣うように手を差し伸べるカインは、真っ赤になったアリスの顔面を痛々しく見つめた。
「ら、らいじょうぶれす。……あたしがずっと下を向いて歩いていたのがいけないんです」
周囲に心配をかけさせないように片手で鼻の辺りをさすりながら、アリスは自分が平気であることを主張した。しかしアリスが怪我をしたのはキーラのせいだと思ったフランは、心配そうにアリスを見上げた後、キッとキーラの方を睨みつける。
「アリスにけがさせた! アリスにいたいおもいさせた!」
歯を食いしばりながらキーラに向かって怒声を上げるフラン。小さな子供に責められ、そして気に食わないカインからは一方的に自分のせいにされ、なぜだか自分がとてつもない悪人のように思えてだんだんと苛立ちが募って行くキーラ。
そんな時彼等の喧噪を遮るようにヴァンが呑気そうに声を上げながら、両手をパンパンと軽く叩きだした。
「はいはいはいはい、つまんないケンカはそれ位にすんのー!」
しれっとした態度で、さも適当に仲裁するヴァンの態度で更に苛立ちが増したキーラは八つ当たりするように声を荒らげる。
「つまんねぇってなんだよ! こっちは一方的にだな」
「だからそれ位にしなさいって。アリスちゃんだって大した怪我じゃないって言ってんだからもういいじゃないの。だからほら、静かにしなさいって。……シャルルの部屋の前では大人しく、ね?」
その言葉で一気に周囲が沈黙のベールに包まれたような、そんな奇妙な感覚に襲われた。
カインやキーラは気まずそうな表情で固まり、アリスは途端に緊張が増し、三人が黙り込んだせいでフランもつられて黙りこくった。もっともフランに至ってはわけがわからず、とりあえず静かにしなくちゃいけないというヴァンの言葉に従うように、両手で口を押さえただけであったが。
アリス達が静かにした所で、ヴァンは咳払いを一つ、そして改まった口調で四人に告げた。
「この扉、この部屋がシャルルの執務室だよ。普段ならシャルルの警備に何人もの警備員や護衛が、部屋の周囲やら中やらを警護するもんだけどね。ほら、最初にここへ来た時に既にシャルルへ報告が行ってるから、すぐさま人払いしたってわけよ」
ヴァンの言葉の意味がわからず、アリスは小首を傾げながら訊ねた。
「人払い、ですか? どうして?」
アリスの質問にヴァンはにっこりと優しげに微笑みながら、丁寧に、簡潔に答える。
「それはね、アリスちゃん。君がここへ来たからだよ。シャルルの元へアリスちゃんが訪ねに来たんだもの。野暮な連中はここには必要ないってことなのよ。それだけシャルルにとってアリスちゃんは特別であり、待ち望んでいたお客様ってわけ」
笑顔でそう告げるヴァンの言葉にアリスはかえって不安がよぎった。自分自身のことを何も知らない、わかっていないからかもしれないが。二年前に目覚めた時からそれ以前の記憶がないアリスにとって、自分がこのような大層な客人扱いされることにどうしても違和感を隠すことが出来なかったのだ。
アリスに言わせてみればごく普通に、平凡な生活を送ってきたに過ぎない。なのにこのような大きな敷地内にある、大きな屋敷を持った主が、そんなアリスを丁重にもてなすなんてことが現実味を欠いていて、どうしても「有り得ない」とさえ思ってしまう。
(それもあたしの二年以上前のことと、何か関係があるんでしょうか……)
そんな風に思案しながらも、アリスはフランと繋いだ手をより一層強く握り返しながら、ヴァンの手によって開かれた扉の奥へと意を決して進み出した。
これだけ大きな屋敷に住んでいるのだから、きっとその主の部屋の中も豪奢なインテリアで埋め尽くされているのだと、アリスは勝手に想像していた。しかし部屋の中の様子が目に飛び込んで来た時、アリスが最初に抱いた室内の印象は「シンプル」であった。
確かに床に敷き詰められている真っ赤なふかふかの絨毯は、その上を歩いた時にまるでふわふわとした綿菓子の上を歩いてるような、ヒールの上からもそれが分かる位に非常に柔らかい素材が使われていた。
壁一面は白とベージュの中間の色合いで統一されており、それが一層室内に落ち着きとシンプルさを与えているようだ。
棚や壁には高価な壺や、何かのトロフィーや、アリスにはその価値が全くわからないような誰かが描いた絵画などが並べられていると想像していたが、そういった物は一切なく、むしろ棚の上には可愛らしい陶器で出来た動物の置物などが置かれているだけである。
黒い木肌に華やかな木目、何よりその色合いが非常に美しいブラックウォールナットで出来た棚に目をやると、中にはティーセットやワイングラスといった食器類が陳列されていた。
上を見上げると豪奢とも言えなくはないシャンデリアが吊るされている。この辺りは近代的な電化製品よりもむしろ、ヨーロッパ系の貴族の城をモチーフとしたデザインの物を好んでコーディネートしているように感じられた。
そのどれもがアリスの目を、感情を刺激するものばかりでついつい部屋の奥の、大きな執務机から見える一人の人物の存在に真っ先に気付くことが出来なかった。
部屋に入った途端、あれだけ緊張していたアリスは室内の雰囲気に一瞬心を奪われ、そして見入っていた。中にある物は全て新品のような輝きを放っているにも関わらず、それらにどこか古めかしい雰囲気を感じ取ったアリス。
部屋に一歩足を踏み入れた途端に感じたノスタルジックな感情、どこか懐かしさを覚えるような不思議な既視感。
アリスが持つボキャブラリーでは今の感覚を正確に言い表せないような、そんな奇妙な感覚に陥ってた時。部屋に入った途端に足を止め、少しぼんやりして立ち尽くしていたアリスのことを不思議に思ったキーラが、ほんの少し背中を押した。
その軽い衝撃で我に返ったアリスはようやく不思議な感覚から解放される。そして視線を一度周囲の見知ってる人物達に送り、それからやっと目の前に居る人物へと真っ直ぐに顔を向けた。
とても大きな執務机に居る人物。背後にある一面の窓から――シルク素材のカーテンでぴったりと閉められているが――降り注ぐ陽光によって更なる輝きを放っている美しい金髪。
華奢な体からその人物がとても小さく見えた。
いや、違う。その肩幅は少なくともアリスよりずっと小さかった。椅子に腰掛けたままだと思っていたその人物は、どうやら腰掛けていない様子である。思えばその人物の体型と比較して見れば、随分と大きな執務机だなとアリスは一目見た時からずっとそう思っていた。しかしそうではない。机の大きさは至って普通で、むしろその人物自身の体がとても小さかったから錯覚のような感覚を抱いただけであったのだ。
その人物は無垢な柔らかい微笑を浮かべ、ゆっくりと手招きするような所作を取りながらアリス達に話しかける。
「ようこそ、紅の兄弟の本部へ。どうぞもっと中へお入りください」
その声は男性にしては非常に高く、むしろ女性と間違う程の透き通ったソプラノの声が響いていた。
聞く者に落ち着きと安らぎを与えるようなその声質は明らかにキーラやカイン、ましてやヴァンのものとは程遠い。最も近いと言うならば、その声の高さはフランのものと一致する。
そう、アリス達を出迎えたこの屋敷の主は、「紅の兄弟」という組織を束ねる人物は、見た目ではまだ年端もいかぬ少年だった。




