もういいよ
「どうするつもりなんでしょうね」
と泉先生は言ったが、私に言われても困る。管轄外のことだ。
「四年生、ひとりも捕まえられてないみたいじゃないですか」
「みたいですね」
「なのにいつまでも職員室に居座って……」コーヒーカップに口をつけて、「どうするつもりなんでしょうね、ほんと」
どうするつもりなんでしょうねえ、と私も同じくカップにつけた。あち、と唇を離したのが早かったから、おかげでなんとか火傷せず、泉先生に「なにやってるんですか」と笑われるくらいで済んだ。
席に戻ると、脇に長い影が立っている。天井まで伸びた無意味な柱のようなシルエット。特にそれに触れても害はないということはわかっているが、なんとなく私はそれを避けて通ってしまう。職員室にいる他の全員も、きっとそうだった。カップを机に置く。プリント作成の続きに取り掛かる。夕闇が部屋をぐずぐずと焦げ付かせている。子どもたちを見送ってからさほど時間も経っていないのに隣が空席なのは、そこにいるはずの彼が四年生の担任で、すっかり仕事をなくしてしまったからだった。
時計の短針が動いていく。日も暮れていく。段々と聳え立つ影が邪魔になっていく。影の頭はちょうど蛍光灯のあたりに半分ほどかかっていて、光を遮っている。見上げてもそこに顔があるわけでもなく、何を考えているかも当然わからない。ここ数日ずっと影は職員室にいる。何か策があるのか、それとも一種の諦めなのか、私には知る由もない。
コーヒーが切れた。
もう今日はこのくらいでいいだろうと思って給湯室にカップを洗いに行く。するとそこにはまたもや泉先生と、それから教頭が立っていた。お疲れ様です、と会釈をすると、おお、と向こうも軽く頭を下げてきて、しかしすぐに話の続きに戻っていった。
「やっぱりそうですよね。聞いたことなくて……」
「うーん。なんだかねえ……手際が悪いというか、なんというか……」
カップを洗いながら、私はそれを聞いている。大方あの影の話だろうということは想像がついていた。
「どうなんですか、これ。四年生たち、誰も帰ってこなかったら……」
「あんまりそういうことはないはずなんだけどねえ」
「あんまりっていうことは、ちょっとはあるんですか」
「いやあ、どうだろう。僕の知る限りではないんだけど……あ、」
先生、と私の名が呼ばれる。
「はい」
「聞いたことあるかな。こういう、その。『かくれんぼ』で誰も見つけて来られないって」
いえ、と私は素直に首を振って、シンクに向き直った。『かくれんぼ』自体は私が子どもの頃からある行事だけれど、教員側としてそれに直接関係したことは今まで一度もない。経験数自体が当然教頭には及ばない。だから順当に、私はこういうケースを知らなかった。
「だよねえ」教頭は頷いて、「なんだかなあ。別に、悪いことはないんだけど、こう多いのも……」
「問題ですか?」
「問題ってわけじゃないんだけどね。……あ、そうだ。今日遅くまで残る?」
え、と私は振り向いた。その声は明らかに泉先生ではなく、私に向けられたものだったから。
「この間、藤元先生が間違えて警報鳴らしちゃったらしくてさ。ちゃんと外に出してから帰るようにね」
はい、わかりました。と私は答える。本当はもう区切りをつけて帰るつもりだったけれど、こう狙い打ちに言われたのではなかなか気まずいものがある。
仕事自体はまだ残っている。これも機会と思い今週の他の日に早く帰宅できるよう、貯金をしよう。そう思ってコーヒーをもう一杯淹れる。机に座る。お疲れさまでした、と五回言う。それから泉先生と少し話して、あまり遅くならないうちに帰ってくださいね、との言葉をいただいて、とうとう私はひとりになる。昼間に人のいた部屋に訪れる夜は全て青白い。蛍光灯の音が虫の羽の擦れるように響いている。パソコンを閉じる。引き出しからヨモギの葉を取り出す。立ち上がる。窓を開ける。二十八度のエアコンでは外気の方が涼しいくらいだったということに今気付く。振り向く。影に向かって呼びかける。
「もう、閉めますから」
しかし不思議なことに影は動かない。おや、と私は思う。言葉が通じていないのだろうか。あまり私はこの影のことについてよく知らないし、そもそも教員の中にだってひとりも詳しい人はいない。ただ、少し面倒なことになったのは確かだった。
「あの、」
近寄る。ヨモギの葉を押し付ける。びくりと影は震えたが、それ以上は動かない。一般職員に知らされている解決方法の全てはこれで試し終わってしまい、少しばかり途方に暮れることになる。
「出て行ってください」
結局、私は直接言うことにした。「あなたがいると、学校を閉められない」
影に反応はなかった。動き出す気になるまで待ってやってもいいと思いはしたが、生憎今日は金曜日ではなく、明日も学校がある。睡眠不足というのは現代社会ではある程度許容せざるを得ない傷のひとつではあるけれど、積極的に享受したいとも思えない。こうなったら仕方がないと開き直って、最悪もう一度警報を鳴らしてしまってもいいと思いながら戸締りを始めれば、どういう意図が働いたのだろう、影は私についてきた。校舎をぐるりと回って窓の施錠を確かめる間、まるで私の本当の影のようにぴったりとついてきた。職員室の電源盤で全ての電気を消す間も。警備室に入って夜間警備に切り替える間も。外に出て勝手口を施錠する間も。校門の完全な施錠を行い、その横の通用口を開けて、閉めて、帰路について、スーパーで半額になった弁当を買って、アパートについて、鍵を開けて、鍵を閉めて、弁当を食べて、風呂に入って、歯を磨いて、スマホでニュースを見て、明日の授業スケジュールについて復習をして、少しだけ教育理論に関する勉強をして、カフェインがようやく抜けてきたらしいと電気を消してベッドに入る間も。
カーテンの隙間から薄い月明かりが部屋に差し込んでいる。影は顔のない顔で、私を見下ろしていた。
目を瞑る。薄い瞼を通して部屋の灯りが網膜に映り込む。遠くで一台の車が横切っていく音がすれば、あとはもう静寂だけが残る。雨の日ばかりよく眠れるのはどういうわけだろう。ウッ、ウッ、と小さく呻くような音が聞こえてくる。目を開ける。身体を起こす。辺りを見回す。音の出どころは、影のほかには見当たらなかった。
ウッ、ウッ。
影が身体を折り曲げている。顔のあたりがくしゃくしゃに歪んでいる。
「どうしたんですか」
泣いているように見えた。
「何かありましたか」
訊きながら、白々しいと私は思っていた。心当たりなんてひとつしかない。四年生の『かくれんぼ』。いまだ鬼はひとりも捕まえることができていない。そのおかげで四年生の授業はずっと休みになっているし、教頭も泉先生も、それから私も、給湯室ではこの影についてとやかく不平不満を述べている。そのことが原因に決まっていた。
ウッ、ウッ。
私は途方に暮れている。一体これに、私は何を言えるだろう。知らない行事のことだった。私には何の関係もなかった。なぜよりにもよって私についてきたのかと思うけれど、きっとそれを訊いたところで影は何も答えない。四年生たちはもう三ヶ月が経つのに誰も帰ってこない。問い合わせの電話もすっかり来なくなった。いまだに誰も見つかっていない。このままいけば二年後には卒業式を行う必要がなくなる。
私の受け持つ生徒たちも、来年にはそうして消えてしまうのだろうか。
「ちゃんと、」気付けば、口に出していた。「探したんですか」
影の動きが止まる。聞こえているような気がした。
「ちゃんと数を数えて、『もういいかい』と訊いたんですか。子どもたちのいそうな場所も、いなそうな場所も、探したんですか」
記憶を探りながら、私は言う。影は何も答えない。
「別に、全員を見つけろって言っているわけじゃないんですよ、誰も」
ウッ、ウッ。
「誰かが見つからないまま『かくれんぼ』が終わることなんてよくあることです。別に、帰ってこなかったところで誰も気にしていないんです」
ウッ、ウッ。
「ただ、いつもと違うことがあると、その『いつもと違う』ということにみんなが混乱してしまうというだけで……」
ウッ、ウッ。
「ひとりと全員には、大きな違いがあるように見えてしまう。ただ、それだけの話なんです」
私の言ってること、わかりますか。
影は答えない。ただ薄ぼんやりと突っ立っている。柱であればもう少し安心できたかもしれないが、生憎それは柱ではない。何の役割も持たない。何の役にも立っていない。
じっと見つめているうち、ふと私の頭の中に光景が過った。古い記憶。ちょうど小学四年生のとき。『かくれんぼ』の最中。もう使われていないプール。緑色の藻。ぬめぬめした床。黴くさい簀の子を渡った先にある更衣室。木製のロッカーは濡れて腐っている。いつまで経ってもその場所にいることに嫌気が差して、内鍵を開いたり閉じたりしている。それができなくなる。アルミの扉が浮いている。きぃ、と音を立てて開いていく。影が入ってくる。天井の方が背が低い。影の余った部分は折り畳まれて、更衣室の端の蛍光灯まで覆い隠している。その背に浮かぶ、月が綺麗だった。
私は、ゆっくりとベッドを降りて立ち上がった。影は再び、何も言わずにそこに佇んでいる。ふと私は、それがかつて私を迎えに来た存在なのではないかという気がしてくる。カーテンを開ける。月が輝いている。
「もしも、あなたが望むなら」
私は言う。
「一緒に今から、子どもたちを探しに行きましょうか」
振り向くと、月明かりが影に当たっていた。昼に見るよりもずっと影が薄いように感じるのは、きっと光の少ない場所だからなのだろう。夏の夜風が雲を押し流し始めれば、その光もいよいよ薄まって、影も同じく、いよいよ薄くなっていく。影は答えない。私は近寄る。影も私に近寄ってくる。私は微笑む。少し背伸びをする。影は微笑まない。ゆっくりと身体を折り畳んで、大人が子どもにするように、私と同じ高さに目線を合わせる。私は足を止める。影は止めない。さらに近付く。存在しないはずの顔と向き合う。いつの間にか月明かりはすっかり消えてなくなっている。遠くで車の音がする。遠ざかっていく。
耳元で声がする。
「馬鹿じゃねえの」
影は、ぶるぶると震え始めている。
(了)