マナーを守りましょう
彼の話を聞いていると、梅雨が去ったあとの、急激な暴力的蒸し暑さがいっそう身体にこたえた。気候だけではない。やはりこの国は、芯からどうかしてしまったのだという感が否めない。
同僚の語るところによると、雨模様の日曜日の朝、比較的座席が空いていた地下鉄の車内で、前に立った男から突然、足先を蹴とばされたという。口論になり、「ホームに出ろ」という話から、結果、掴み合いにまで至ったらしい。
それぞれ警察から事情聴取を受け、同僚はその後、社内で一定の処分を受けた。
彼は話を続けて、足を組んで座っていた自分の方が、車内でのマナーが出来ていなかったから仕方がありませんという。相手に怪我を負わせた彼の立場からは、反省という点で、潔く正しい態度なのだろう。
だが、怪我を負わせたという事実が厳然とある一方、この一件は明らかに、そもそもの非は相手方にあろう。なぜなら、座っている者を、ただ組んでいる足先が自分にとって邪魔になるという理由だけで、何の忠告も与えることなく、急に足蹴にしたのだから。
ただし、この相手の男の気持ちが、まったくわからぬわけでもないから厄介なのだ。平成が過ぎ行く間に、マナーなどという殊勝なものは、嵐に根こそぎ持って行かれたかのように、この国から消え去ってしまった。
混雑した車内で、足を大股に広げてスマホに興じる者をよく見かける。若者だけではない、年配の男に到ってもそうだ。膝を閉じれば、いまひとり他の乗客が座れるものを。同僚を足蹴にしたくだんの男と同様の心理を覚える人も、おそらく多数に上ろう。男との違いは、気持ちを外に表すか否かだ。
この国に住む者の心根がどんどんと荒んでゆく。根っこが枯れたら、あとは崩壊するしかないのに。これでは、まったくの悪循環だ。
他者の不調法から、自分の性根までが朽ちてゆき、性根が荒廃することで、周囲に厭な思いをさせる。心に施す歯止め装置も嵐にくれてやった結果が、現在の世界を覆う不寛容の正体ではないか。
みんなでもう一度、ますます厳しさが増すこの夏の暑さを、なんとか共に乗り切る風通しの良い社会を取り戻せないものだろうか。ほんの二十年前までは、まだ他者の気持ちを汲み取って共有し合える心のゆとりが、この国に住む者には残っていたように思う。
現在は、あまりに孤の殻が強くなり過ぎてしまった。閉じてしまって、内側がまったく見えなくなるほど塀が高い人と人との間柄では、外の風景の移り変わりも共に味わうことができない。塀の高さが当然の姿になってしまうと、自分の見ている風景だけが正しいと思うようになるのも、人の性である。