雨とガトーショコラ
ピロンッ♪
机の上に置いておいた携帯が鳴った。
『2時にいつものカフェに集合!』
シンプルなメッセージは彼女からのものだった。
僕は自身の頬が少し緩んでいることも気づかずに簡単に返信をし、大学の論文のための調べ物を続けた。
午後1時ごろ、いつものカフェに予定時間より早めに着いた。
彼女を待っている間、しばらく放置してしまった読みかけの推理小説を消化してしまいたかったからだ。
先にコーヒーを注文して、文庫本を開く。まだ内容を覚えていることに安堵しページをめくる。すぐに周りの音が聞こえなくなくなるほど、物語に没頭した。
ちょうど1章分終わったところで、ドスンッという柔らかな衝撃音と共にテーブルの振動を感じ本から目を上げる。
彼女は、と片手を小さく上げ短く挨拶すると、僕が読んでる本に注目する。
「え!まだ読み終わってないの!?」
目を丸くしながら、彼女は僕を凝視する。
「時間がなかったんだよ」
簡単に言い訳をして、冷たくなったコーヒーを一口飲んだ。
彼女とは同じ小さい街で育った。幼稚園から中学校まで同じ学校に通い、小学校では5クラスあるのに6年間同じクラスだったという腐れ縁でもある。まだ幼い頃はよくお互いの家で遊んでいたが、高学年になると同時に互いの家に行くのはおろか放課後遊ぶこともほぼ無くなっていた。なんの理由もなく、ただあの年齢特有の異性としてお互いを意識し始めてしまったからだと思う。
高校生になり、地元の学校から抜け出すことで、地元の友人達との縁が薄くなっていった。
それと同時に、僕と彼女の腐れ縁も解消されたらしく、別々の高校へ行くことになり顔を合わせることもなくなった。
僕たちが疎遠だった間、僕たちの母親たちは地元のスーパーマーケットなどで出くわすこともあり、夕食の時間に彼女の近況を聞かされることが多々あった。だからといって、僕らはお互いに連絡しようとは思わなかったので、彼女の高校生活はほとんど知らない。
久々に再開したのは、高校の卒業式の日だった。中学校の最後の年を含め計4年間全く連絡を取らなかったのに、僕はあの日に彼女からの簡潔なメールを受信した。それから僕らは、こうやって頻繁に会うようになった。
「ねぇ、そういえばこの小説の映画やるの知ってる?」
そう言って僕が読んでいた小説を指差した。
彼女は手を上げウェイターを呼び、キャラメルマキアートとガトーショコラを頼んだ。僕はまたコーヒーのおかわりを頼み、すぐに熱々のコーヒーをカップに注いでくれた。
「へー知らなかった」
古典的な推理小説の実写版とだけあって興味はある。
「一緒に行く?」
「うん」
彼女はニンマリとなぜか満足な笑みを浮かべながら、後に来たマキアートを得意げに一口飲もうとした。もちろん出来立てのカフェがぬるいわけなく、口の上にミルクフォームをくっつけながら、アツッ!と小さく叫んだ。
僕と彼女は複雑な過去を共有している。その事を機に、彼女とは中学の二学年の終わりから一言も話すことが無くなった。もちろん別の高校へ行ったこともあるが、メールも電話もすることはなかったし、地元で彼女と鉢合わせすることか無かった。心の底で僕らはお互いに避けていたと思う。
また彼女との縁が戻り始めたのは、高校の卒業式に彼女からメールをもらった事と同じ大学に入学したことだった。それからすぐに僕らは普通に遊ぶようになった。
僕は、彼女に僕らが疎遠になった理由を離そうとしなかったし、彼女もその事を話題に上げることはなかった。
僕らの関係の中で、1ミリ足りともあの事件に触れないことは暗黙の了解だった。
気づいたら、この1年で僕らは一緒に居ることが多くなっていた。そこに恋愛感情があるわけではないと思う。でも、僕らは確実に誰にも触れられたくない秘密を共有していたことは事実だった。
僕は熱いコーヒーを一口飲み、その映画はいつからなのか聞いた。
「ん~、秋くらいだったような気がする」
「半年以上も先か」
「半年なんてすぐでしょ」
「まぁ、そうだけど」
確かに歳を重ねるたびに、1年のスピードがどんどん速くなってのを感じる。
今だって、この前までお正月だったのに梅の花が咲いている。
遠い近いに関係なく、未来の話をされると僕は漠然とした不安に包まれる。
その不安は、小学生のころ家族旅行で濃霧の山を車で登った時に感じたものによく似ていると思った。曲がり道や対向車を確認できない視界、手前3メートルしか確認できない道がここまで人の恐怖心を煽るのかと子供ながら半べそになった。その時、僕は運転する父親を信じることと祈ることしかできなかった。
しばらくすると、あの濃霧はまるで幻覚だったのかと思うくらいに視界が晴れ、その瞬間に両親や妹も安堵し次の目的地について話を弾ませていた。ただ僕だけは会話に参加出来ずに、しばらく安堵感に浸っていたを未だに鮮明に思い出すことが出来る。
未来の話をする時は、あの時の同様の恐怖と不安でいっぱいで口数も減り、ただ祈るしかなかったあの時の僕がまたひょっこりと顔を出す。
「ねぇ、そういえばあの子とはどうなったの?」
「あの子?」
「ほらー、前一緒に歩いていた子!」
彼女は、右手で机をトントンと叩きながら口を突き出している。
「あー、櫻田さんのことか」
「そう!いい感じで歩いてたけど、その後どう?」
「ただ同じゼミで帰り道が同じだっただけだよ」
「連絡とってないの?」
彼女は自分で聞いておきながら今はガトーショコラを頬張ることに夢中らしく、僕の話を聞いていないようにも見える。
「とってないよ」
「可愛いのに、もったいない」
何がもったいないのか、と心の中でつぶやいた。このつまらない話題を広げるのも面倒くさいので、僕はそのまま会話を終了させようとした。
苦いコーヒーを2杯飲むと、胃が痛くなってきた。僕も何か甘いものを頼もうと思い、メニューに手を伸ばそうとした瞬間に彼女は口を開いた。
「そういえば、ちょっと前に話した林先輩のこと覚えてる?」
そうだ。そういえば、数か月前に彼女が林先輩のことについて話していた。林先輩はゼミの男の先輩で、また写真サークルの先輩でもあるらしい。彼と彼女には共通点がたくさんあり、時々食事を共にするとも言っていた。
「うん、覚えているよ」
「この前、先輩の車で夜景見に行ったの。その時に、告白された」
彼女は、特別なことではないというような口ぶりだった。
平静を装うようにガトーショコラを少し乱暴に頬張り、僕を見ようとはしなかった。
一瞬棘が刺さったよう心がチクッとした。すぐに、気のせいだと自分に言い聞かせた。
「そうなんだ、おめでとう」
反射的に言葉が出た。本心だ。
ただ自分でも理解できないこの戸惑いが彼女に伝わらないように、と願う。
「お祝いのお言葉を頂いて申し訳ございませんが、またお返事はしておりません」
「え?」
「なんか、そんな気分じゃない」
「気分で決まるのかよ。もったいない」
「なに、もったいないって。へんなの」
「そのまま数分前の君に言い返すよ」
僕らは無性に自分たちの会話が馬鹿らしくなって、笑いが込み上げてきた。
彼女がもしその林先輩と交際を始めたら、僕たちは今の様に一緒にコーヒーを飲むこともなくなるだろうし映画を見に行く約束なんて以ての外だ。
ただ、いつも少なくない時間を一緒に過ごしていた仲間が離れてしまうことに寂しさを感じた。たぶん、そのせいで心がチクッとしたんだ。
しばらくの間、僕たちは特に何も話すこともなく個々に暇をつぶしていた。彼女は、いつも持ち歩いているノートに今月の計画を立てたり、イラストを描いていた。僕はまた小説を読み進めていた。
なぜかこの時間がとても心地よかった。
さっきコーヒーを飲んだなのに、いきなり眠くなってきてしまった。
この古典的な推理小説が退屈というわけでもないのに、この睡魔はどこから来たのだろう。
本をいったん閉じ、外を見る。いつの間にか、雨が降っている。
あぁ、甘いものをオーダーするはずだったのに、忘れていた。今からでも遅くないだろう。次こそはメニューを、と思った瞬間にふと窓の外に目をやると、ずぶ濡れになった見覚えのある猫がこっちを見ている。どこであの猫と出会ったか思い出そうとするが一向に記憶は蘇らない。
その猫と目が合ったと同時に、僕の名前を呼ぶ彼女の声がどんどん遠のき、僕の瞼は完全に視界を閉ざした。
雨が窓を打つ音で目が覚めた。
真っ暗な部屋から丸い穴が空いていて、そこから薄暗い明りが漏れていた。
身体を動かそうとおもった瞬間、思い出す。
そういえば、僕は人間ではなく猫だ。昨日の記憶が一斉に押し寄せる。
建物や車の威圧感、音の大きさ、たくさんの匂い、すべてが大きくなって押しつぶされそうな感覚。
色々な感情がいっきに身体を駆け巡り、思考が停止している。息が吸えてるかどうか分からないほど、胸が苦しくなる。とにかくこの小さい箱から出て水でも飲もう。小さい円形の穴から頭、前足と出し身体を抜き出し、ジャンプした。
トンッと床に着地し、僕が体中が凝っていると感じた瞬間に身体がほぼ反射的にストレッチをし出す。部屋は雨のせいもあって薄暗かった。白猫と三毛猫はまだ寝ているのだろうか?あたりを見渡すも、彼らの姿を見つけることは出来なかった。とにかく落ち着くために、少し水を飲みドライフードを食べた。
身体を動かし、腹を多少満たすと頭にかかっていた霧が少しずつ晴れていく気がする。
昨日は、僕はただ夢見る猫で人間だったというのはただの妄想でしかないのかもしれないと不安と恐れしかなかった。
でも、あの鮮やかな夢を見て思う。
僕は確かに人間として生きていた。僕は彼女のことを覚えている。
だが、名前と顔だけは黒く塗りつぶされている。
「おはよう」
後ろから優しい声がした。三毛猫ではないとすぐに気づき振り返る。白猫はすぐ僕の後ろに座っていて、彼の気配に気づかないほど僕は思考に没頭していたらしい。
白猫はゆっくりとこちらに向かってきて、身体を擦り寄せてくる。
「おはようございます」
「今日は身体がとても怠いよ。雨の日は本当に苦手だ」
「そういえばそうかもしれない」
目覚めた時から、まとわりつく疲労感はこの雨のせいなのかもしれない。
「よく寝れたかい?」
「はい」
「そうか、よかった。さて、いきなりだけど君に一体なにが起きたんだい?」
白猫はいきなり核心的な質問をしてきた。どうやって説明すれば僕の状況が理解してもらえるか考えてみたが、だれがこんな状況をうまく説明できるのだろう。
明らかに戸惑っている僕を見て、白猫は優しく微笑んだ。
「こう見えて10年以上この世界で猫として生きてるんだ、ちょっとのことじゃ驚かないよ。大丈夫、僕たちが力を貸すよ」
白猫がそう言うと、かわいらしいマカロンの猫用クッションから「たち!?」と三毛猫が声を荒げるのが聞こえた。
「信じてもらえるわけないんです。どうすれば、ちゃんと伝わるのか僕には分かりません。なので単刀直入に言います。僕は人間だったはずなんです。でも、起きたら猫になっていて。どうしても人間に戻りたいんです。でも戻り方が全く分からなくて」
「人間?これは、さすがに驚いたなぁ」
白猫は、目を大きくしてもっと詳しく話してみてと興味津々そうに僕の顔を覗いた。
ここまでの経緯を簡単に説明する。目が覚めたら、猫の姿になって公園のベンチの下にいたこと。三毛猫に連れられてきたこと。
そして、自分の名前もどこの街に住んでいたかも思い出せないこと、それでも自分が人間だったことを確信していること。
「思い出せないっていうのが難だね。調べることができないな」
「そうですよね」
白猫は、ヘンテコなことを言う僕に対して真面目に取り合ってくれた。でも人間であった証拠を探そうにも探せないという状況に、僕の身体がより一層重くなった気がした。
「でも抽象的には少しくらい覚えているってことだよね?それなら、もしかしたら思い出せるんじゃないかな。まぁ君からしたら、そんなのんびりしたことを言ってられないか…」
僕は果たして思い出すことができるのだろうか。なにを頼りにしていいか、今は分からない。
白猫は天井をみて、うーんと唸って何かを考えているようだった。
彼は僕の表情で察したのか「焦ることはないよ」と付け加えたが、たぶん僕は急がなくてはいけない。
「あの僕の話、信じてくれるんですか?」
優しく接してくれる白猫に、僕は尋ねずにはいられなかった。
「とても人間らしい問いだね。世界には驚くほど不思議な事が起きているのさ」
彼は茶目っ気たっぷりにウインクをした。
しばらくすると、三毛猫がマカロン型のクッションから怠そうに身体を引きずりだしてきた。
彼女は、僕と同じく軽いストレッチと水分補給をした後、どれくらい雨の日が嫌いか伝えながら白猫の隣に陣取った。
「ねぇ、白猫じぃさん、あたしを変なことに巻き込まないで頂戴」
「君が彼を連れ帰ったんじゃないか。口ではキツイことを言ってるけど、根はとてもいい子なんだよ三毛猫は」と言いながら白猫は三毛猫の顔を毛繕いをしている。
「あーもうなんでもいいわ。本当に憂鬱よ、雨の日は」
「君は、身体を動かすのが好きだから余計だろうね」
「身体を動かさないと、ストレス溜まるのよ」
「新入りさん、今日はあまりこの子に近寄るのはお勧めできないよ」
白猫は、顔をしかめながら僕に忠告した。
三毛猫はフンっと踵を返してまたクッションの中へ戻ろうとした時、白猫が三毛猫を呼び止めた。
「そういえば黒猫はどこにいるか知っているかい?もう2週間以上ここに帰って来ないんだ」
「知らないわ。でも、この前公園にいるやつらが黒猫を灰色の森で見たとは聞いたけど」
「彼はあんな物騒なところにいるのか」
「さぁ?本当かどうかは知らないわ」
三毛猫はそう言い残し、僕らは彼女がクッションの中へゆっくりと入っていくのを見送った。彼らの短い会話の中で、気になる言葉があったのを僕は聞き逃さなかった。
今はどんな情報も集めたほうが良いと直感で感じた。何かこの街の手がかりが掴めるかもしれない。もしかしたら、この街が僕の生まれ育った場所かもしれないという一抹の希望、いや願望は捨てられなかった。
「すみません、灰色の森って?」
「あぁ、人間たちが色々なゴミを捨てている森があるんだ。ゴミがたくさんあって、森が色褪せて見えるから、僕らは灰色の森って呼んでいるんだよ」
「危ないんですか?」
「散歩はお勧めできないかな。あそこに住んでいる野良猫たちはタチが悪くてね。絡まれると面倒なことになるんだ。近づかないほうが身のためさ」
「そんなところがあるんだ……」
「そう。少し前まで黒猫も一緒に住んでいたんだ、ちなみに彼は僕が連れてきたんだけどね。小さいころは随分生きるのに苦労したみたいで、斜に構える癖があったんだが……。ここにきて、だいぶ穏やかになったと思っていたんだが、まさか灰色の森に行ってしまったなんてね。ほら野良猫って、どうしても寿命が短くなっちゃうから」
白猫は、肩を落としため息をついて、長い尻尾を床に叩きつけていた。
雨が窓のフレームを叩くピシャピシャという音と、尻尾のコトンッコトンッという固い音しか聞こえない。
今何時なのだろう。この部屋に時計はない。
窓の外をみる。ここはどこだか分からない。記憶はどこに沈んでいると、頭の中を探し回るも砕けたピースだらけで何ひとつ自分が何者だと裏付ける記憶は出てこない。
意識の底へ沈殿すると、やがて雨の音は消えてなくなる。
「おはよー」と人間の声が部屋に響き渡り、我に返った。
そこには20代前半に見える深緑のTシャツを着ている男が立っていて、僕を見るなり「新猫さんがいるぞー」と言いながら僕のほうへ向かってくる。
猫からすると、人間という生き物は巨人のように見える。そんな知らない巨人がこちらを歩いてくると怖くて逃げ出しそうになるが、居候させてもらっている家主にそんな失礼な態度はとれないとそこから動かないようにどっしりと構えた。
男はある程度僕の近くに寄ると、腰を下ろし匂いを確認しろと言わんばかりに僕の前へ手を差し伸べる。いくら現在猫になっていようと、人間の男性の手の匂いを嗅ぐというのはとても抵抗がある。しばらく眼先にある手を眺めていると、男性は僕の頭を遠慮なく、そして少し乱暴に僕の頭をゴシゴシと撫でた。
「茶トラかー。お前オスだよな。時々いるんだようなぁ、異性にしか媚を売らない猫。にしても、一体どこから来たんだ?おーい、連れてきたのはシロかー?ミケ子かー?にしても君、人間慣れしているみたいだし、ゆっくりしていけよ。あ、一応後で病院にいって検査してもらわないとな。うちに居つくのは構わないけど、ほかの住人…いや…住猫?にちゃんと気を使ってくれよ」
独り言のようにそう僕に話しかけていた彼は、餌の補充や水の交換、床をすばやく粘着クリーナで掃除、など慣れた様子でキビキビとこなし、少しの間白猫を撫でまわして5分もせずに部屋から出て行った。
彼が部屋を出て行った後、僕は白猫に尋ねる。
「あの、今の人って」
「あぁ、この家の主人だよ。とても猫思いの良い青年なんだよ。僕たちはオーナーって呼んでいるんだ。君は、近いうちにあの恐ろしい場所、病院へ行かなければならないみたいだね。僕はあそこが大嫌いだよ......何度行っても慣れない。でも人間はなぜか僕らをあそこへ連れて行くのが好きみたいでね。信じられないよ......気を確かにね」
「はぁ」
白猫は動物病院に嫌な思い出があるらしく、顔を真っ青にしながら僕に同情をしてくれた。どんな事にも冷静に対処できろうなクールな猫というイメージを持っていたが、やはり動物病院は別らしい。
「君はあの場所の恐ろしさを体験したことがないから、そんな余裕でいることができるんだ。思い出すだけで、恐ろしい」
ふと気になる事が頭の中に浮かんできた。
万が一、この身体で死んだ場合、一体僕はどうなるんだろう。人間に戻れずに、そのまま猫としての一生を終えるのだろうか。
そんなことを考え始めると、冷や汗が全身から吹き出しそうな、ひどい悪寒が僕を襲った。
人間に戻るまで、死んではいけない。いつも最善の注意を払い、何が何でも僕は僕に戻るまで生き延びなければならない。
そう自分に言い聞かせるが、果たして僕に人間に戻れるチャンスはこれからにやってくるのだろうか。絶望感が体中を這いずり回る。
隣で真っ青になっているであろう僕のことは眼中にないようで、白猫はまだぼつぼつと呟いている。
「僕はあそこへ行くたびに、尻の穴に得体のしれない細い棒をいれられて…...」
それはたぶん体温計のことだろう。
少し前の話になる。飼い猫を動物病院へ連れて行くと、いつも不愉快そうな顔をして僕を睨みつけ、重い声で鳴いていた。体温計を入れられるその瞬間の猫の顔は、まさに不愉快さと恐怖が入り混じったような顔をしていたことを思い出す。
しかし、その飼い猫の色も名前も思い出せない。
ただ、あんなに大きく構えていた白猫が体温計に恐怖を抱いていることを知ると、少しだけ笑いそうになり、一瞬でも現実から目を背けられた。
しばらく雨の音に耳を傾け、再度思い出せることはないかと記憶を辿ろうとするも突如として睡魔が襲ってきた。どう足掻いても、重くなった瞼は持ち上げることはできず、身体にも力がはいらない。どんどん身体を共に意識に黒い影がかかり始めた。
雨の音は先ほどまで少しうるさいくらいだったのに、誰かがボリューム調節のノズルを左へゆっくりと捻っていくみたいに、僕の耳は雨の音を捉えられなくなっていった。




