夢の浮橋
「よう。お前の声がうるさくて眠れなかったよ。で、一体なんのようだ?」
僕じゃない僕を見た瞬間、全身が震えて体毛が逆立つのを感じた。
彼は一切悪びれず、ただ久々にあう友人に用件を訪ねるように猫の姿である僕に問いかけてきた。
色々言いたいことがあったはずなのに、それらの言葉は泡となって一瞬で消えた。いざ奪われた身体を目の前にすると、何も言えずに自分の臆病さが憎くてたまらない。
彼は、めんどくさそうに頭をボリボリかきながら、寒いとぼやいた。それがはやく僕との事を済ませて僕のベッドで寝たいとほのめかしているのかは分からなかった。
「……身体を返してほしいんだ」
辛うじて頭に残っていた言葉を、繋ぎ合わせた。
なるべく平静を装おうとしている声が微かに上ずっていることは、僕だけなく彼も気づいている。
彼は僕とは正反対に落ち着いた様子でこちらを観察しているようだった。一体彼の眼に僕はどんな風に映っているのだろう。
「いやだって言ったら?」
彼は僕と対面するのをやめて、川を覗きこむようにしながら欄干に肘を置いた。
「僕の身体だ。返してくれ」
「でも、要らないっていったのはお前のほうじゃないか」
「あの時は……」
「あの時?だいぶ前からそう思ってたじゃないか。俺はずっと知ってるよ」
高校を卒業した春、彼女と満の墓参りの帰り寄った公園で、初めて茶トラと出会った。
彼は、あの時に僕の心の一部が腐り始めていたことにすでに気付いていたんだ。どんな人間も、すべてを見透かすような猫の瞳の前では何も誤魔化せない。
「それは……そんな簡単に整理できない過去があって、僕は……」
どうしても何かを言い返したくて勢いに任せて口を開いたはいいが、自分の言い訳の粗末さに胸がムカムカして言葉を切った。
「よく知ってるよ、彼女がいつも話してた。その事とお前のこともな」
「僕のことも?」
「あぁ。お前がどれだけ彼女のことを苦しめていたか想像もできないんだろ」
僕は何も言うことが出来ない。彼が言っていることは正しかった。
「俺はお前が持ってたもの全てが羨ましかった。俺なんて彼女を慰めたくても、喉を鳴らすしかなかったよ。そんなお前が、俺が欲しくても手に入れられなかったものを投げ捨てようとしてたんだ。そりゃ意地でも奪い取るよ。そんなお前は思いのほか簡単に渡してくれたけどな」
彼は呆れ果てた表情を一瞬僕に見せたが、すぐに川底へ視線を戻した。
「それでも、僕は……」
彼は僕の話なんて聞く価値もないと、話を遮った。
「人間は馬鹿だから、自分がすでに手にしているものの価値なんて理解せずに持ってないもばかりに気を取られる。自分の周りにあるものの素晴らしさに気付けたとしてもすぐ忘れていまう。なんでだろうな。本当にイライラするよ。お前みたいな人間を見ていると特に」
「人間っていうのは、どうしても自分に足りないものに目がいく生き物なんだ!」
「あぁ。嫌というほど知ってるよ」
「じゃぁ、なんで僕の身体を奪ったんだ!」
視界がぐにゃりと歪んだ。
「奪った?人聞きが悪くないか。お前が要らないって言ったから、もらっただけじゃないか。まぁいいや。そんな愚かな生き物だと分かっていても、俺は人間になる必要があったんだよ」
「必要?」
「そうだよ。なぁ聞かせてくれ、猫になって何を一番強く感じたんだ?」
彼は、ようやくこちらのほうを向いて僕の目を確かめるように覗き込んだ。
その目は力強く、なぜか僕の瞳ではないように思えた。
「……無力感」
「それだよ、俺がずっと感じていたものは。俺を憎むなよ? 取り入る隙を見せて挙句の果てに何の抵抗もなくこの身体を引き渡したのは、お前自身なんだから」
「でもお前が僕の身体を奪ったなら、その反対だって可能なはずだ! 現に君は、僕の前に居るじゃないか。それに、君は猫として生きることに、本当に未練はないのか?」
彼は、僕の問いかけにしばらく笑い続けた。
的外れなことを聞いたことに、顔がカァと熱くなるのを感じた。
「未練? 馬鹿を言うな。俺がどれだけ、毎日生きるために必死だったのかお前には想像できないのか? ずっと生き延びることだけに必死だったんだ。この身体には暖かい寝床と飯がある。俺にはそれだけで幸せだよ。それに、ある日猫の寿命じゃ足りないって気づいたんだよ。人間って長生きだろ。だからお前の身体をもらっただけだ。もう、その身体で生きるなんて懲り懲りだよ」
それに、と彼は付け加えた。
「俺は好奇心が強いほうでな。人間としての生活に興味があるんだ。猫だと指を加えて眺めることしか出来なかった。それがとても苦痛だったんだ」
人間を興味津々と観察している彼の寂しそうな表情が目に浮かんだ。
でも彼はそれだけ理由で僕から身体を奪ったのではないことを僕は知っている。
「君は家族と……彼女には会えたのか?」
彼の口元がピクリと動いたが見えた。
彼が動揺している表情を見るのは初めてだった。僕の顔なのに、僕のものではない表情を傍から見るのはとても不思議な感覚だ。
最初は自分の顔をしているやつと喋っていることに違和感を感じていたはずなのに、僕はいつの間にか目の前にある身体がすでに彼の所有物になっているような気分になる。
その一方で、自分が思った以上に猫の身体に馴染んでいることに気付いた。この小さな身体を見下ろしてくるあの身体がとても遠く感じる。
まさかこんな感覚になるなんて思ってもいなかった。
本当に僕はあちらの身体に戻れるだろうか。
もし戻れなかったら、僕は――。
「なんだ、知ってるのか。あ? もしかして、あの小汚い森に行ったのか?」
この不安を見せまいと僕は冷静を装って、小さく頷いた。
「あいつら、意外におしゃべりなんだな」
彼は肺一杯に空気を吸って、空を見上げゆっくりと息を吐いた。
僕もつられて黒い空を見た。そういえば、いつから小雨は止んでいたのだろうと、ふと思う。一瞬でも良いからこの恐れから解放されたかったが、彼の声ですぐに引き戻される。
「彼女には会ったよ。でも家族には会えなかった。本当はお前と深く話す気はなかったけど、俺もこの数日の出来事について誰かに話したい気分だった。こんな話、お前としかできないしな」
「本当に彼女と話したのか……?」
「あぁ。会った瞬間の彼女の顔、すごく気まずそうだったぞ。お前のせいなのは知っている。でも話始めると、公園で猫の俺に話していた時の顔とは大分違っていて、とても穏やかな顔だった。たぶん恋人が出来たおかげだろうな」
心を針で刺されたように、ツンとした痛みを感じた。
しばらくの間彼はしばらく沈黙して、言葉を選んでいるようだった。
「彼女が俺の言葉が理解できるようになっても……。何も伝えられなかったよ。そう、お前みたいに。あんなに憧れていた人が目の前にいるのに何も言葉にできなかった。人間になれば自分の気持ちが伝えられるって息巻いていたけど、思った以上に難しいことだった。どうしてもその場の空気とか、彼女がどう思うのかを考えると無理だった。人間の難しさを学んだよ」
彼は小さく笑った。少し自身を嘲笑するような、そんな笑い方だった。
「人間がよく言っていた様に次があるってその時は思ったけど、次なんてそうそう来ないんだな。チャンスをものにできなかったら、すべてが勢いよく流れていくんだ。ほら、流れ着いた場所がここ。お前がもう来ちゃった」
彼はまたはため息を吐きながら俯く。その姿は、人間そのものだった。
「なぁ、もう一度聞くけどこの数日間どうだった?」
海外旅行はどうだった?と友達に聞くのとあまり変わらないトーンだった。
「たくさんの猫たちが助けてくれたよ。あと、世界がとても大きく感じた」
「俺は猫の世界の小ささに辟易してたのにな。人間ならどこにだって行けるじゃないか。お前人間に生まれてきたのにもったいないよ」
もう一度、彼は鼻で笑った。
橋の入り口ににある街灯の弱い光が、時々彼の瞳を小さく輝かせる。
「あ、そうだ。昔の家族を探し出して、話を聞きたかったのに時間がなかったな。なんで俺を置いて行ってしまったか聞きたかったんだ。それに大きくなった子供たちにも、会いたかったんだ。たぶん俺を置いていった事を心残りに思っているはずだから、俺は怒ってないよって。まさかこんなにはやく終わるなんてな。神様が許してくれないだろう。このまま人間でいたかったんだけど、やっぱ無理っぽいな」
彼は自分の足を動かして、まだ自分がコントロールをしていることを確認しているようだった。ザッザッと、サンダルと地面が擦れる音がやたらと大きく鳴る。
「お前が言うように、人間は複雑でつらいことが多いのかもしれない。いや、苦しみとか悲しみの感情に引き込まれやすいのかもしれないな。それでも人間は、そんなのに負けないくらい楽しいこととか嬉しいことあるはずだよ。なぁ、お前がここへ来て俺を呼んだってことは、お前は本当にこっちに戻りたいってことだよな」
僕は頷いた。
「これは俺のためじゃなくて、お前のために聞くけど」
彼は、僕の元へゆっくりと歩き出した。
そして、僕の目の前にしゃがんで、念を押すように確認した。
「本当にこれでいいのか?」
たぶん僕は、このまま猫の生活に馴染んでいけるだろう。
白猫と三毛猫と一緒に暮らすことを想像するのは難しくなかった。人間に戻ると、これから先仕事のことや、煩わしい人間関係、金銭面の問題などに頭を抱える日が数えられないほどあるだろう。
「うん」
それでも僕は人間に戻ることを選ぶ。
辛いはずだったあちら側に戻るのは何故だろう。
また苦しみが気付かないうちに心や身体を蝕んでいく世界に戻りたがってしまうのは、自分でもよく分からなかった。
「そうか。でもこんな経験をしたにも関わらず、お前は生きていることに絶望するかもな。お前の瞳はすぐに曇りそうだよ」
「たぶん君の言っていることはあってるよ」
「は?」
これからの未来そんなことを思ってしまうことも、あるだろう。
でもそれは人間として生きていたら、仕方のないことだ。これからまた誰かの悪意に晒されることもあるだろうし、自分に幻滅してしまうことも出来事も起こるのかもしれない。
当然、自身自身に誠実で居続けることが難しくなる時もあるだろう。それでも自分の声に向き合うことを止めずにいれば、少しはいい方向へ未来を変えることは可能だと思う。
浅い考えなのは分かっていた。それでもそう願わずにはいられない。
「もう誰にも渡さないよ。これが僕の人生だ」
「なんだそれ。本当に大丈夫かよ。また変な気を起こしたら、また俺みたいなやつが来るぞ。こんな素晴らしい世界で生きてるんだ、いろんなことを経験したほうがいい。俺猫だからよく分からないけどな」
彼が俯くと同時に、ポタポタと雫が垂れる音がした。
その音は寂しくこの空間に響いている。彼の顔を見上げても後ろにある街灯が影を作って、彼がどんな表情をしているのか分からない。
「涙ってこんなに溢れるものなのか?お前が滲んで見えないよ。猫の涙とはまったく違うものだな。人っていうのは、こんなにも感情に圧倒される生き物なんだ。とても悔しくて悲しくて寂しい気分で、どうしようもないな」
彼は人間のように泣いていて、僕は猫のようにただ彼を見守った。
彼の姿を見ていると、心に込み上げてくる何かを感じたが、僕が彼に声をかけることはなかった。中途半端に情けをかけるのは、彼を侮辱しているのも同じよな気がした。
「次は、人間として生まれたいな」
それが最後に茶トラの猫が僕の声を使って放った言葉だった。
彼が僕の頭をそっと優しく撫でると、僕の視界は徐々に端から黒が滲み出して、意識もその黒に沈んでいった。




