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普遍魔法  作者: NS
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La sorceresse chevaliere

 アントワーヌ館は建築された当初、今よりもっと質素な一階建ての建物だった。百年ほど前に二階建てに改築されたが、それは学院全体でより多くの教員を雇い入れる必要があったからである。

 教員はそれぞれ、室内の小階段でつながれた、二階建ての部屋を割り当てられている。一階が研究室、二階が私生活のための部屋だ。歴史的に先行するのは後者である。言い換えれば五十年前までは、魔術師たちは研究を、学院内にある共同の、率直に言って使いづらい設備か、さもなくば学院外で行わざるを得なかった。

 当然、彼らはその両者も選ばなかった。彼らの寝床は安らかな眠りのためではなく、危険な実験のための場所となった。

 事故がありふれるのは当然の帰結であった。「寝魔術」に気を付けよ、という警告が出たが、耳を貸す人はいなかったし、またそんなことは誰も期待していなかった。

 死人が出た。それは大変悲しく涙を誘う事故とされる一方、滅多には起こりえず、注意深さによって防げるものだと解された。死んだ魔術師の同僚も、自分の部屋から基調で有用な魔術的道具がとりさらわれることを、文字通り死ぬほど嫌がった。

 五人目あたりから、浮世離れしたこの連中も、さすがに何らかの対策をとる必要があるのではないかと考えたはじめたらしい。魔術師はもっと知的なやり方で死ぬべきだ、という価値観が共有されつつあった。こうして、「研究室」と呼ばれるものが誕生する。以来、魔術的道具はすべて研究室に収容しておくこと、私室の物質は全て自然的なもののみとすること、などが定められた。

 後者を破っている教授がいるかは定かである。全員だった。さすがに安定した物品がほとんどだけれども。彼ら彼女らが負傷の原因を言い渋るとき、たいていこうした規則違反が発生している。

 さて、当時の魔術師たちの生命軽視の傾向について語るのはこのあたりにしておくべきだろう。

 クロゥディアの先導で、アンリとヒルデガルドは彼女の研究室に入った。アンリにとっては初めて、ヒルデガルドも久しぶりである。クロゥディアは日中、研究室には居ないことが多い――まさしく今日のように。

 部屋に一歩足を踏み入れるやいなや、若き魔術師アンリは小さからぬ戸惑いを覚えた。

 一般に、部屋の様子というものは住人の内面を反映するものである。几帳面な人の部屋は片付いて怠惰な人の部屋は汚らしい、という同語反復じみた場合は別としても、美的な観点を重視するか、実用本位の部屋を作るか、とか、何と何を近くにあるいは遠くに配置しているかとか、部屋全体の色調や雰囲気、などなどだ。魔術師の研究室もまた然りである。自分以外の目には非合理に見えるほど混乱させておくのが、彼らが身につけているある種の流儀なのだ。

 アンリ・ドゥレームも、そうした話はたびたび聞いていた。だからこそ、クロゥディア・ルーフロイドの研究室の様子は奇妙に感じられたのだ。

 全体を統制する厳粛な雰囲気。飾り気は無いが、上品で高級そうな調度品の数々。

 分厚い書物や羊皮紙の切れ端でみっちりと埋まった本棚。

 床に白墨で描かれた、幾何学的あるいは非幾何学的図形。

 紋章(だとアンリは見当をつけた――一体何のために存在しているかはさっぱりわからなかったが)と魔術的小道具、屑籠以外には、床の上に何もない。掃除は隅々まで行き届き、塵の一つも見られなかった。

 机の上も、若干の書物と筆記具しか見られず、それらも乱れなく適切に配置されている。視力の良いアンリは一番手前にあった、真新しい書物の表題を見分けることができた。


 『魔術の(Rechercher)一般(sur)理論に(la theorie)関する(generale)試論(dela magie)』。


 まったく典型的だった。この部屋が物語っていることをひとつひとつ読み解くにつれ、この部屋の持ち主が極めて凡庸な、例外的なほどまっとうな魔術師であることが明らかになっていく。それはその「持ち主」がクロゥディア・ルーフロイドであるという事実と背反する事柄のように思われた。アンリはそれが偏見と知りつつも、彼女の部屋はもっと混沌とした、人間の理解を拒むようなものだと思っていたのである。

 答え合わせがしたいわけではなかったが、彼はちらりとヒルデガルドの方をみやった。驚いたことに、彼女もまたアンリの様子をうかがっていた。

 彼女は困惑はしていなかった。その瞳に揺れていたのは、憐憫とも痛ましさともつかぬ、湿り気を帯びつつも温度を持たない感情だった。視線が向けられていたにも関わらず、感情それ自体は自身に対するものではないのだと、アンリにはなぜか確信できた。

 そもそもヒルデガルドは、アンリが自分のことを見ていることにさえ気づいていないようだった。不意に目を小さく見開くと、わずかに肩を揺らして、迷う様に唇に指を這わせた。さらにややあって、ようやく決断したのか、

 

「この部屋は、もともと――」

「監察官、余計なことを言うな。ドゥレーム、こちらに来い」


 ヒルデガルドの言葉はクロゥディアの氷水のような声によって遮られた。部屋の主はすでに、部屋の中央に置かれた小さな机の向かい側に立っている。

 アンリが先に、ヒルデガルドがその背を守るように歩を進めると、再びクロゥディアが命じる。


「座れ」

 

 アンリは従おうとして失敗した。椅子が無かったからである。

 つまり床に座れということだろうか、不作法ではないだろうかと悩みあぐねかけたとき、椅子があった。ごくありきたりな丸椅子は、現れたというよりは先ほどから既にあったかのように、その確かな物質性を誇示している。

 彼は混乱することすら諦め、大人しくその椅子に座った。ヒルデガルドに椅子は用意されなかったが、彼女は不平も言わず、アンリの背後から注意深くクロゥディアの観察を始める。

 改めて、クロゥディアとアンリは向かい合う。

 沈黙が流れた。腐敗した泥のように、粘り気のあって不愉快な沈黙である。

 クロゥディアは依然、じっとアンリのほうに視線を向けている。が、その歪なほど大きな丸く黒い瞳は、その実なにも映していないかのようだった。

 アンリが居心地の悪さに身じろぎすると、その目もぎょろりと動くので、彼はもう身体を動かすことさえできなくなった。居心地の悪さに吐き気さえ覚えつつ、なんとかあの視線から逃れるため、必死の思いで目を反らし、クロゥディアの右奥の執務机の上、先ほど題目を確かめた例の書物に意識を動かした。

 題目の下には、「ルネ・フォンテイニュ」と書かれていた。たぶん著者なのだろう――そう推測した矢先、その本は彼の視界から忽然と消え失せた。慌てて視線を教授の方に戻すと、あの本は彼女の手に抱え込まれていた。

 怒られるだろうか、と思ったが、ルーフロイド教授は冷たい無表情を崩さずに、ただあの陰険な眼差しを向けるばかりである。

 ただ雰囲気が悪化したのは確かだ。そして、このままでは地獄の底までたどり着くに違いない。アンリは果断さを美徳と信じ、口を開いた。


「あの、先ほど『初めてではない』とおっしゃっていましたが」


 反応が無かったため、アンリは自らの信仰を疑いかけた。だが、ややあってクロゥディアは面倒臭そうに小さく頷き、


「君は私の講義に出ているだろう」


 と答えた。

 アンリは驚き、そして内心浮かれた。まさか自分が、この大魔術師の記憶に残っているなどと、思いもよらなかったらしい。青ざめていた顔に血色が戻り、常よりも一層華やいだ。

 一方、ヒルデガルドは得心がいった。なるほど、経歴に書いていなかった容姿についても知っていたのは、単に実際に見たことがあったからだったのだ。つまりあれは、ある種の性質の悪い冗談だったということになる。巻物を触れただけで「読んだ」ことについては、彼女でなければ驚くべきことではあるが、逆に言えば彼女であれば十分あり得ることだ。

 二人の反応に満足したらしく、クロゥディアはどことなく機嫌の良さそうに続けた。


「君が発した驚くほど無意味な質問と、それによる進行の大なる遅延は、まったく鮮烈な印象を私に残した」

 

 アンリの顔色は虹水晶アイリスのように反転した。彼は自らの浮かれ調子を深く憎んだ。

 反論の余地はなかった。その、できれば忘れたい記憶は、彼の霊魂にしっかりと刻み込まれている。


「素晴らしい教師だよ、君は。おかげで私は、愚昧な学生を相手にものを語ることの難しさを改めて思い知ったのだ。君は私から若い驕りを取り払い、代わりに謙虚さを与えてくれたのだ。感謝の言葉を伝えなければな――」


 クロゥディアの声の調子が高くなるにつれ、アンリの背中はますます小さくなっていくように見えた。予想して然るべきことではあったが、やはりこの魔術師には、まともに面談を行う気などなく、むしろ学生を使って憂さ晴らしをすることしか考えていないようだった。義務感に駆られつつ、ヒルデガルドは大げさに咳ばらいをする。


「二人の貴重な時間を、そのように詰ってばかりで浪費するおつもりですか」

「おお、ちょっとした冗談も許されないのか。だいいち、もともと無駄な時間をどう浪費しようと大した違いはあるまい」


 そう嫌味を言いつつも、クロゥディアは諦めたようにため息をつき、脚を組み替えた。彼女はあれこれ言いながらも、最後には学院の制度や手続きに従順なところがある。今回も諦めて、とりあえずは形式上の面談は終わらせてやろうと決断したようで、

 

「良いだろう、始めようか。とはいえご存知の通り、私は弟子を取ったことが無い。このような面談をするのも初めてだ。こういう時は、そう、」


 三拍ほどなやむふりをした後、クロゥディアはアンリに問うた。


「動機を聞けばいいのかね。なぜ君、アンリ・ドゥレームは、ほかならぬ私を師としたいのだろうか」


 ありきたりな質問がこれほど心安らぐものとは。アンリはほっとして息を吐いた。教授陣の中でも人当たりの良いアルノー教授に相談し、彼にヒルデガルドを紹介されたときから、いやずっと前から、この問いに対する答えは固まっていた。


「先生は僕の知る限り、もっとも偉大な魔術師です」


 「先生」の眉がひくりと動いた。


「ここに入学したのも、頑張って勉強しているのも、そもそも魔術師になりたいと考えたのも、全部先生に憧れているからです」

「ふん」


 アンリの言葉の不可解な点に、クロゥディアは気付くことは無かった。そうした注意力を失ってしまうほど、彼女はアンリの語った「理由」に機嫌を損ねたのである。

 博士は長く息を吸った後、一気にこう応じた。


「では質問だ。『偉大』であるとはいかなることか。そして、その言葉はなぜ私に妥当するのか。ああ、そうやって私を褒めたたえて下さる連中もいる。有難いことだ――そうして私の財布は潤う。私は安んじて腹を膨らませる。素晴らしい。だが、奴らは実際のところ、私が何を為したか、為しうるかをてんで理解できていないのだ。たとえば『伝承上のいわゆる「治癒魔術」の欠陥と、真なる「治癒魔術」について』――これは実利ではなく、むしろその正反対のものを志向した論文だ。魔術から利益を得ようとする連中の餌になど決してならぬ、面白みもない、純粋に真理とその守護神に捧げられた論文なのだ。それに、あの犬並みの知性をもった連中が付した言葉を読んだことはあるかね。『彼女は古い因習から魔術を取り除き、実践的な魔術へと続く道筋を開いた』。大笑いだ、ええ? あれは、あの論文は、そのような内容で語りつくせるものではない。私は、『実践的な魔術へと続く道筋』など開いていない。おおかた題目だけを見て、内容を推測したのだろう。あれは実のところ、「真なる治癒魔術」の「不可能性」を論じているということに、彼らは気付いていないのだ! しかしどうしてそんな愚かな真似をするのか? 私の歓心を買って、彼らが欲するものは、全く世俗的でくだらない、「魔術的恩恵」に他ならない。先見の明にあふるる投資活動、ご苦労様というほかない――もっとも私は、そのようなものに応えてやるつもりはないがね。ごくわずかな、もっともすぐれた魔術師たちだけが私の成果を理解できた。彼ら彼女らの評価は、批判的であれ好意的であれ、この上なく有難くかつ有益なものだ。彼らは私ではなく、私の見出した真理を愛する。私もまた、彼らとその言葉よりはむしろ、その誠意を、真理への意志を愛しそれに仕える。彼らが天にその座を持つのなら、地の底はその権威にへばりつき、追従の言葉を並べ、おこぼれにあずかろうとする畜生どもに与えられてしかるべきだろう」


 それなりに知恵のあるアンリでも、突然クロゥディアの演説を聞く羽目になるとは予想していなかった。しかし彼は、智慧よりもむしろ極めて素直な性根の持ち主だったので、ふんふんと相槌をうったり盛んに頷いたりしながら、クロゥディアの言葉に熱心に耳を傾けた。ヒルデガルドが若干呆れたころあい、急にクロゥディアは声を低くし、アンリに目を合わせた。


「さて、君はどうだろうか?わたしがこれまでなしてきたことの、何が『偉大』と呼ばれるべきなのか? 私は君が、この問いに明瞭な回答を与えてくれることを強く期待するよ――もっとも、君が答え得ないことを、それ以上に強く確信しているのだが」

「――う」

 

 少年は大いに戸惑った。彼にとってクロゥディア・ルーフロイドが尊敬するに値する偉大な魔術師であることは自明な事柄だったのであり、それ以上の説明を要求されるとは思ってもいなかったのである。

 一方、口ごもりの時間が長くなればなるほど、クロゥディアの機嫌はますます悪くなってゆくのは明らかだった。

 アンリは意を決して口を開いた。


「先生は偉大な魔術師です」

「だから、その理由を問うている」

 

 ぶすりとしたクロゥディアに、アンリは明瞭な声と発音でこう答えた。


「僕は、クロゥディア・ルーフロイドが、自己犠牲の精神と正義への愛に満ちた、騎士的魔術師だということを知っています。だからです」

 

 ヒルデガルドはこの一年で最大の驚愕に襲われた。

 彼女は「自己犠牲」とか「正義」とか「愛」などの名詞が、「クロゥディア・ルーフロイド」という固有名詞と肯定的なかたちで結びつきうるなどとは夢想だにしていなかった。果たしてそれが成し遂げられた時の衝撃は、もはや筆舌に尽くしがたい。

 記録は次の瞬間に破られた。


「あっ、うん。えっ?」


 ヒルデガルドは、怜悧あるいは怠惰、さもなくば邪悪なこの魔術師が、このように素朴かつ間抜けに自分の驚きを表現しているありさまなど、これまで絶対に、一度も、いかなる状況下においても見たことが無い。この時代に写真技術があり、かつヒルデガルドにわずかでも悪戯心が宿っていれば、確実にこのさまを撮影していたに違いない。

 かつ、彼女はクロゥディアを驚かせまいとも決意した。というのも、例のおどろおどろしい黒髪が、持ち主の精神様態を反映することが実証されつつあったからである。いまやそれは、海底に住まう吐き気を催すような外観の生物と極めて類似する不規則な動作をとっていた。

 アンリは幸運にも、それを目撃しないで済んだ。


「騎士の子として産まれたのですから、先生のような魔術師のもとで学び、先生のような魔術師になりたいとと考えるのは、当然のことです」

 

 ごく真剣にそう言い切ったアンリの視線はまっすぐ、石の壁すら貫かんばかりの力強さで、彼曰く「騎士的魔術師」であるルーフロイド教授の目に向けられていた。ヒルデガルドは彼の正気を疑うべきかで悩んだが、さしあたりは事の成り行きに任せようと判断する。

 クロゥディアは自分に向けられているものを振り払うように顔を背け、その向こうに無限の宇宙が広がっている綺麗な天井に顔面を並行させながら、ぶつぶつと呟き始めた。


「あーー、……うん、そう。そうか、自己犠牲の精神と正義への愛、なるほど……それは……まったく興味深い、実に……」


 そうして意味の無いたわごとを一分ほど続けた後、彼女はヒルデガルドに、いまだかつてなく真剣なまなざしを向けてこう言った。

 

「ヒルデガルド、彼は重篤な呪詛の影響を受けている可能性が高い。彼をプーデンドルフのもとに連れて行ったあと、第二級警戒態勢を敷き、ルテティアにも連絡を出すことを提案する」

「騎士的魔術師」、書いてみるとジョークっぽいですね。普通に訳すと「高貴な魔女」になるかもしれない。

人名について、キリスト教が成立していない世界で聖書に由来する名前を使うのはちょっとなあ、と思ってましたが、エリザベス系ってそうなんですね。悔しいですね。

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