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普遍魔法  作者: NS
3/5

L'eau froide

「冷たい水」

 中庭を出るまで先導していたはずのヒルデガルドは、いつの間にかクロゥディアに先を譲っていた。それに気づいたのは、第一講義棟を抜けたその時である。空を横切る灰色の雲のもと、監察官はやや足を速めてクロゥディアの後を追う。横に並ぶのは、なぜか憚られた。

 そしてそれは、彼女たちの経歴のそれを模倣するかのようでもあった。ヒルデガルドがこの学院でそれなりの成績をおさめて学士号を得、故地に戻ったころ、クロゥディアはまだ入学したての、なにも成し遂げていない幼い少女だったはずだ。一年前、ヒルデガルドがさる事情で戻ってきたとき、かつての少女はすでに教授となっていた。その無数の称賛を背に、膨大な業績を手にして。

 監察官と教授、地位と権限ではほとんど等しい。むしろ前者の方が優越しているとさえいえるかもしれない。だがそれは、この時代のこの世界を支配する「名誉」の位相においてはなんらの意味も持たない。ヒルデガルドは追い抜かれたのだ――嫉妬の感情を抱き得ぬほど圧倒的に。

 そう、わずかでも過去に思いを馳せたのはヒルデガルドだけだったに違いない。クロゥディアは監察官に個人的な関心はまるで抱いていないはずだし、そもそもヒルデガルドはここにいたころ、さほど有能で有名な魔術師でもなかったから。

 学院には三つの講義棟がある。数字の若い順から、呪文術、紋章術、錬金術の講義と演習が行われる倣いとなっていた。そしてこの順位は、そのまま学院における三部門の序列付けに対応する。運営上の話をすれば、後者二つが五名の教授を抱えているのに対し、呪文学のそれは八名だ。この比率は、多少の変化こそあれ、ここ百年は崩されていない。

 計十八名。それがこの学院で指導を行うことができる人間のすべてだ。彼ら彼女らは分担して――負担を避ける連中がいるのは当然として――およそ三百人の学生を教え導く。補充されるのは、退職や逃亡、不慮の死によって欠員が出るか、あるいは卓抜した成果を挙げるかのいずれかである。もちろん、後者は稀だった。

 クロゥディア・ルーフロイデは、少なくとも制度上は、前者だったと言える。彼女の就任の直前、呪文術分野に死による欠員が出たからだ。しかし、後者でないとも言い切れない。彼女以外の候補、より経験を積んだ人材は無数にいた。それでも彼女が選ばれたのは、経験や実績の蓄積を凌駕する、明白な根拠が存在していたからにほかならぬ。

 彼女は天才だった。

 その名前を知らない魔術師は――この時代においては――実のところ、かなり多いだろう。二十四歳の魔術師が挙げた成果は、例えば当代の学長が遺したそれとは、少なくとも数の上では比べ物にならない。

 だが、この学院でその名を知らぬものはいない。それは彼女が驚くべき若さで「呪文術」の教授に上り詰めたからでもあるが、それだけの理由ではなかった。

 多くの教員が口をそろえて言うには――「この世紀は、いつか彼女の名で呼ばれるようになる」。

 「霊魂ノ力能ニ依リテ自然ノ秩序ヲ乱ス業」、その才能を生まれつき持ちあわせ、そしてそれを絶え間ない努力と深い学識で高めた彼女は、今や最高峰の魔術使いであると認識されていた。種族の次元で我々とは違うのだ、と甚だ無礼な発言をして憚らぬものさえいるほどだ。そうした悪辣極まりない言葉は別としても、彼女は称賛と同時に揶揄の対象でもある。


「おそらく彼女はいつかこの学院の支配者になるだろう」そう誰かが言えば、

「いや、ルテティアに引き抜かれるに違いない。あっちを支配してくれるとこっちも助かるのだがね」と冗談半分、しかし本気も半分に応える者がいるだろうし、

 あるいは「『帝都』」と誰かが短く言うかもしれないのだ。そうすれば先ほどまでの冗談含みの雰囲気は消え失せ、続く声は一層低く重くなっていくに違いない。

 彼女は若く、その未来はまことに不確かだ。確かなのはそれがこの、さほど大きくない学び舎に収まりきるものではないことだけである。

 「新しい魔術」という言葉は、既に語義矛盾になりつつある。長い歴史を経てこの学問は、過去の文献に注釈と修正を加えるだけのものになりつつある。それでも、成果はすこしずつ、ゆっくりと出ているのは確かなのだ。

 だが、人々はこころのどこかで、もっと大きな変化を――今の言葉で言えば「革命」を欲していた。「新しい魔術」の誕生。概念の全的破壊と再構築。それを為しうるとすればクラウディア・マルティリアなのではないか。そう考える魔術師は――その誇大妄想性を踏まえれば――実のところ、全く少なくはないだろう。

 この「天才」殿の後に続いて、ヒルデガルドはアントワーヌ館――現代の学生は端的に「教員棟」と呼んでいた――に入った。教授陣はここに研究室を構えている。クロゥディアの部屋は北東の一番端だ。出入り口から一番遠く不便なように思えるが、どうも本人の希望によるらしい。

 木製の床を音一つ立てずに踏みながら、クロゥディアはするすると先に進んでいく。ヒルデガルドはあることを思い出して、クロゥディアを呼び止めた。胡乱気に振り向いた彼女に、監察官は一本の巻物を差し出した。


「今から面談していただく、あなたの弟子候補についてです」

「ほう。君の代になってから、いろいろと調査が行き届くようになったね。私の情報も丸裸にされているのかな」


 クロゥディアは厭らしく笑った。ヒルデガルドは言葉を返さなかった――事実だったからだ。クロゥディアについても、家族やその歴史、学院入学後から「マギステル」資格取得に至るまでの経歴など、可能な限り知悉しておくよう心がけている。彼女が南方の医者の家系の三女で、裕福で知的にも恵まれた環境からこの如何わしい魔術の世界に入ってきたことも。

 また、基本的には監察官のことを嫌っていることも。

 当然のように、彼女は羊皮紙の表面だけをさらりと撫でると、満足気に頷き、身を翻した。


「それで読んだつもりですか」

「読む必要があるのか正直私には疑問だが――しかし、君のたっての願いだからね」


 そう応じながら巻物を開こうともしないクロゥディアに、さしものヒルデガルドも困惑した。その足が止まっていることに気付いたのだろう、やがてクロゥディアも立ち止まり、嘲笑するようなため息をついて、


「アンリ・ドゥレーム。十六歳。入学してから二年で、明示的な実績は無し。評判によると、魔術的にはさほどでもないが、決闘術においてはなかなか見どころがある、と」


 それはまさに、ヒルデガルドの記述の適切な要約であった。つまり、本当に読んでいたということだ。あのささやかな接触で、羊皮紙のほのかな手触りから、彼女お得意の呪文もなしで。――そこまでは、かろうじてヒルデガルドの想定の範囲内であった。

 そして、それだけではなかった。

 クロゥディアは首を回し、その黒い瞳を不気味に濁らせながら、こう続けた。


「赤毛で細身の男の子だろう。目は君のより少し深い青。やや北方訛りがあるが、容認できる発音だ。身長はさすがにわからない。……ああ、君と目線が同じくらいか。ふぅん」


 今度こそ、ヒルデガルドは怯えに身を震わせた。魔女が語った少年の特徴は正確だ。そして重要なことに、そのような情報を記載した覚えはなかった。

 まず疑うべきは呪術――霊魂の霊魂による直接的介入――による、「記憶窃視」だ。しかしそれは二重に否定されるべきである。まず、この時代には呪術の私的利用はそれ自体禁止されており、学院内では「法呪術」で制御されているから。第二に、接触も呪文もなく「記憶窃視」ができるなど、今までに一例も報告されていないから。

 それゆえ、ヒルデガルドは問わずにはいられなかった。


「なぜ、いやどうやってそれを」

「それを聞くか、この私に――『世紀の魔術師』たるこの私に?」


 「世紀の魔術師」と言ったとき、クロゥディアは嘲りと驕りと嫌悪とをまぜこぜにした、ただ人に不快感しか与えない笑みを浮かべていた。それにはヒルデガルドからさらなる追求を諦めさせるには十分な力が宿っていた。

 二人はやはり並ばず、列を作ってアントワーヌ館の奥に歩みを進める。

 慣れ親しんでいるはずの廊下が、妙に長くヒルデガルドには感じられた。クロゥディアに弟子を持つよう求めること、それに後悔は無いし、今後もそれを要求するつもりではある。しかし、もっと入念な準備をしておくべきだったかもしれないと、そのような念が不意に彼女を襲った。

 あの平凡で気の優しい、純粋な若者に、この魔術師がどのような対応をとるか、それに不安を覚え始めていたのだ。

 当然ながら、その少年を認めたのはクロゥディアが先であった。彼は師匠候補の部屋の扉、廊下の壁際に、その内面を反映したような凡庸なたたずまいで凭れかかっていた。

 豊かで濃密な赤い髪と――此度はこの語彙の使用が許されよう――すらりとして均整の取れた体つきは、まさにクロゥディアが口に出した通りだ。

 足音で気づいたのだろう、彼ははっきりと慌てた様子で、クロゥディアとヒルデガルドの方へと振り向き姿勢を正した。やや薄い肌は今、緊張ゆえかすこし青ざめ、唇も眉も不格好に曲がっている。それさえなければ十分に美少年と呼べる顔立ちであったが、いずれにせよ、彼が相対するべき人物は、生物の外観に学術的関心以外のものを払うたちではない。


「はじ」


 十分に距離が詰まったころ、少年はそう言いかけて、しかし途中で言葉を詰まらせた。

 クロゥディアが彼の真正面に立ちはだかり、その陰険なまなこをじいっと彼に向けたである。アンリ・ドゥレームは勇敢にも、その邪悪な視線にきらきらした青い目で真っ向から立ち向かい、震えを抑えた声によって最後まで言い切った。


「初めまして、ルーフロイデ教授。アンリ・ドゥレームです。よろしくお願いします」

「初めてではない」

「えっ」


 アンリは驚き、そしてまた怯えの色を見せ始めた。クロゥディアはその様子を無視して目を逸らし、自分の部屋の壁に向かってほとんど呟くように続けた。


「面談は中でする。長くならないから安心したまえ」


 これが二人の出会いだ。少なくとも、両者が両者を、自らにとってのなにがしかと認識することを「出会い」と言うのであれば。それ以前においても、二人はさまざまな事柄――例えば教授と学生という関係――によって結ばれていたが、それを超え始めたのはこの瞬間が初めてだった。


 世界の歴史において、この出会いに意味は無い。彼がいなくとも、きっと彼女はその名を世界に刻んだに違いない。そして彼は、彼女がいようといまいとも、忘却の抗いがたい力の餌食になり果てざるを得なかっただろう。

 だが、この物語にとっては重大な出会いなのだ。

 個人としてのクロゥディア、その生の歴史/物語にとっては。

アンリは貴族家系出身者です。名前に元ネタはありません。たぶんあんな地名はない。

それ以外の設定とかなにも考えていませんが、一応前作 (ヒストリアなんちゃらってやつ)と関係はあります。暇なら読んでください(宣伝)

あとフランス語については、最近全然勉強してないので、おかしかったら憐れんでください。

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