Fin de siecle
「世紀の終わり」
さて、ここに一人の魔術師がいる。
といっても、自信たっぷりにこう書くためにはいくつかの前提が必要だ。
まず、「ここ」というのはとある建物の中庭、その端に置かれた長椅子なのであるが、「そこ」に見えるのは実のところ人間ではなく不気味な黒い塊である。それを「人間」と呼べるほど、我々の言葉の指示作用は拡張され切っていない。
周知のとおり、我ら人類以外にも魔術を用いることができる種族は数多く確認されているが、しかしそれらに対して「魔術使い」という表現を用いることは、いまだこの言葉が普通に用いられていたこの世紀においても容認され得なかった。いわんや生物ですらない、正体不明の物体をや。
どろりとした質感と不定形な様態は、飾り物だとしたら設置した人間の感性に重大な懐疑が向けられるべき代物であって、昼食や小休止のために来た人たちがどれだけの距離をこの物体から置こうとしていたかを考えてみると、むしろ人払いのための呪的装置と解するのがはるかに自然である。
しかし、私はこの黒い塊の正体を知っている。今それに近づきつつある女性もそうであった。
品のある栗色の髪は全き左右対称形に結ばれ、その釣り目がちな顔だちとまっすぐに引き結ばれた唇は、高い背とまっすぐな姿勢と相まって、この上なく厳格な雰囲気を彼女に与えている。中庭の柔らかな芝生を踏むその音でさえ、何か重々しいものを感じさせたるほどだ。
東方のとある貴族の第六女にして、『|自然哲学及ビ魔術ノ為ノ結社』の監察官、ヒルデガルド・フォン・シュターテである。
彼女はその白皙の肌よりなお白く、染みも皺も見られない長衣を揺らしながら、例の物質に進んでいく。生来の気質とある確信ゆえに、彼女はこの異常にいささかも怯んだりしなかった。ただ顔にわずかな赤みを浮かべ、挑戦的に眉を吊り上げると、長い樫の杖――今や廃れつつあるが、しかし一部の人々には根強く愛好されるこの道具――を振り上げ、短く小さく何事かを呟いたのち、静かに眼前の暗黒物質に振り落としたのである。
軽い音を立て、杖は折れた。女性が行使した魔術は基礎的な物質強化と対抗魔術のそれであり、単純ながらそれゆえに強力な効果を発揮した。杖はいまや、既知の金属では実現不可能な耐久性を持っていたはずである。その杖が――ただ彼女の手を離れるのではなく――折れたことは、まったく奇妙な事態であった。しかし女性は予想済みといわんばかりの無表情で、芝生に飛んでいった切れ端を拾い上げに向かう。
そうしているうちに黒い塊は消え失せていた。そしていまや私は、先ほどよりもずっと自信たっぷりに、こう書くことができるのだ。
ここに一人の魔術師がいる。
やがて世紀を形容する、その名はクロゥディア・ルーフロイド。
「ひとの午睡を邪魔するものに災いのあらんことを」
いずこともなくそう呟いて、彼女はゆっくりと身を起こした。言葉の通りその目元はとろんとしていて、常ならば相対するものを委縮させてやまない怜悧さはその片鱗さえうかがえず、ただ眠りを妨げられた人間に共通するあの不機嫌さだけが宿っている。
とはいうものの、いましがた「人の午睡を邪魔」したヒルデガルドの態度を崩すには、覚醒時のクロゥディアの視線をもってしても十分ではない。
「あなたなら神々に祈らずとも、自分の力でそれを引き起こせるのでは」
「呪詛は嫌いなのでね。ああいう悪徳は連中に任せるにしくはない」
そう嘯いて魔術師は小さくあくびをし、軽く頭と髪とを揺すった。
魔術の見識が無い者であれば、先ほどまで長椅子を占拠していた例の物体が、今や彼女の髪に変化した、あるいはその反対の現象が起きていたのだと、錯覚したかもしれない。それは単なる思い込みではあるが、しかしその臆見にも一分の正当性は認められるほどに、彼女の黒髪は不気味な色調を湛えていた今にも動き出しそうな生々しいうねりは、明らかに人工的なものであって、人間の怠惰がいかに努力しようと、気まぐれな自然をこのように操ることはできまい。
それしてそれは、彼女の――すらりとした、では過剰に優雅だ――ひょろりとした、でもやはりどこか諧謔を加えてしまうかもしれない――ここはひとつ端的に――細長い身体を包む長衣も同様である。ヒルデガルドのそれと同様になんらの装飾も付属していないが、与える印象は正反対である。黒く、そして薄汚れている。裾には泥や草、その他正体を知りたく無い類の液体が付着していた。
それにしても、それがごく平凡な女性の顔の上と下とに存在しているというのは、どことなく滑稽ですらあった。例えば下瞼に濃い隈を湛えている、いかにも魔術師然とした奇相の持ち主だったり、あるいは正反対に、歴史的物語よりは騎士物語の登場人物に相応しい絶世の美女であったりしたなら、もうすこしはさまになっていたかもしれない。といっても、当人も彼女の眠りを妨げた女性も、人間の容姿に関心を抱く性質ではなかった。
「ところで、今のは?」
ヒルデガルドはまさに読者諸兄が関心を持っているだろう事柄について尋ねた。つまり、危険極まりないと同時に目に悪い例の物体についてである。
ルーフロイド教授はふん、と鼻を鳴らした。
「君みたいな厄介者を追い払うために、昨晩開発した。なかなか不便だよ、とりわけ今日のように風のある日には」
クラウディアが全く悪びれずに応じると、監察官は自身の折れた杖を下手人の前に晒す。さしもの魔女も多少は反省の念を覚えたようで、表情をわずかに曇らせる。
「もしかすると君はその程度の破損も直せないのかい。代わりにやってあげようか」
「結構です」
極めて無礼な言いようだったが、もはや慣れ切ったヒルデガルドは気を悪くした様子も見せない。
彼女はみずらかの杖の状態よりも、危険な魔術がもたらしうる帰結に関心を持っていた。
「仮に人があれに触れたら」
「腕の一本なら安いものだ」
予想通りの返答に、ヒルデガルドはため息を吐かずにはいられなかった。
「学生が誤って触れるとは考えなかったのですか」
「不審な物質に軽挙にも素手で触れようなどという馬鹿は、さっさとここから消え失せるべきだと私は思うね」
額から突き出んばかりに眉を上げるヒルデガルドに、クロゥディアはすぐさまこう付け加えた。
「ああ、『ここ』とはこの学院ではなくて、……そう、『コノ天ノ下』と同じくらいの意味だよ」
まるで弁解にはなっていない。クロゥディアは「神々ハ才ヲ与エシ者カラ良識ヲ奪フ」という格言の歩く具現だ、とヒルデガルドは確信している。
だが、それは監察官が教員に良識を要求することを妨げるものではない。いや、良識が無くともよい。とにかく、義務は果たしてもらわねばならない。
「学生を死なせる以外に、もっとすべきことがあるのでは」
「ふうむ。例えば……研究か。いま少しばかり行き詰っていてね。しかし、いやだからこそ、ちょっとした休息が必要不可欠なのさ。動物精気の働きに関する、ブリューの最新の研究は読んだかな。彼の論にはいくつかの欠点があるが、しかしその見識にはしばしば目を開か……」
「クロゥディア」
良識ある監察官は、良識無き魔術師の名をきっぱりと呼んだ。
「あなたは教師です。そして教師の仕事は、生徒たちを教え導くことです」
「講義は済ませた。評判は知らんがね」
「弟子は」
「いない」
「知っています。なぜとらないのですか」
「私より馬鹿な連中を弟子にする理由が見当たらない――冗談だよ。連中があの頃の私より馬鹿なのは事実だが、それについて彼ら彼女らを責める気はない。結局、指導力が低下しているのだよ、全体的に。『先生』とは比べ物にならない」
「エリザベトは」
クラウディアの声がある種の熱を帯び始めたのを感じ取ったヒルデガルドは、反論を避け代わりに一人の学生の名を挙げた。彼女より才のある学生はいるが、彼女ほど優秀なものは居ない――少なくとも、この生真面目な監察官の立場からすれば。
その名を聞くとクロゥディアは考えるそぶりを見せたが、やがて皮肉な笑みを頬に浮かべて、
「あの子はそれなりに優秀だが、それが師匠の熱心な指導によるものだと考えているのなら、そろそろ君の理性の所在を確認しにいくべき頃合いだね」
ヒルデガルドはまたも反論しなかった――今度はしたくともできなかった。件の師匠は優れた魔術師であり、また教師ではあるが、同時にかなりの放任主義者で知られている。一方の弟子は自学自習の有機機械だ。指導の成果というよりは、単純に相性が良いだけかもしれない。
では、クロゥディアはどうか。ヒルデガルドの知る限り、彼女はこれまで一度たりとも弟子を持ったことはない。彼女の経歴の短さを踏まえれば当然ではある。しかし教員の数は有限であり、可能な限り弟子を割り当てなければならない。少なくとも、その意欲の片鱗くらいは見せてもらわなければ、ポーズにすらならない。
「それでも、最低一人は弟子を持ってもらう必要があります。あなたほどの魔術師であれば」
「ふん、希望者がいれば考えてやらなくもないが、何分連中私を怪物か何かと勘違いしているようで、話しかけてもらったことさえ実は稀で……」
「いますよ」
「なにが」
「希望者が」
ヒルデガルドのほのかな期待に反して、クロゥディアは驚く様子を見せなかった。ただ、小さく首を傾げて目をつむり、何事かに頭を悩ますかのように唸り始めた。
監察官はそれを悪意的に解釈する。
「断りの名目を考えるまえに、すべきことがあるでしょう」
「指導計画だろう。今そうしているところだ」
顔面の筋肉に働きかけて驚きを隠蔽したヒルデガルドが、言葉ではなく沈黙で話を促すと、クロゥディアは瞼を開け、指を二本突き付けた。
「まず、フラウィア・ウェスティアの『魔術史』と、ゲッリウスの『全集』を読んでもらう」
ややあって、三本目の指も立てて、
「それとベーメの『大魔術』」
「ふむ、まあ、古典と現代の魔術の基本文献ですね」
「そして、それぞれに注釈を書いてもらう。分量は問わない。最初だからな」
「ほう、まずは理論から入るというわけですか。あなたでなければ感心しますが、それで」
「それを読んで、私がこのあたりの森に火を付けなければそいつの勝ち。晴れて正式な弟子になる」
「指導に勝ち負けの概念が介入する余地はありません」
監督官は断固たる態度で否定した。魔女は舌打ちをしたが、それ以上言葉を付け加えなかったあたり、おそらくは冗談に近かったのであろう。実際には断りの名目に思いを馳せていたに違いない。
これ以上の議論は無意味に終わるだろう、とヒルデガルドは判断する。
「ともかく、面談をしていただきます」
「していただきたい、ではなく」
「していただきます。既に彼はあなたの研究室の前で待機しています。ずっと」
繰り返すと、クロゥディアは先ほどよりも強かに舌で口蓋を叩き、それでも立ち上がった。彼女の背は、ヒルデガルドの長身よりもなお高い。
腕を長衣から出すことすらせず、ただ顎をしゃくって先を促したクロゥディアの横柄な態度でさえ、ヒルデガルドの怒りを誘うことは無かった。むしろ彼女は、自らの成果に深い満足感すら覚えている。彼女は先ほどよりもずっと軽い足音を立てて、芝生を踏んだ。
いずこからともなく鳥の鳴き声が聞こえてきた。
ヒルデガルドは、自らも知らぬ間に空を見上げていた。
分厚い雲が我が物顔で、天空をほしいままにしている。そのうち雨が降るかもしれない。
湿り気を帯びた秋の風が頬を撫でる。厳粛な冬が近づきつつある。
この季節になると、ヒルデガルドはなぜか寂しさを覚えずにはいられない。雪が降ってくれた方がまだ気分が晴れるというものだ。
いや、季節だけではなく、夕暮れもまた然り。弱気になった陽光など、見えぬほうがましである。
それは決定的でないがゆえに、致命的ではないがゆえに、だからこそいっそう切ない予感を人々に感じさせる。
終わりが訪れるという予感。それは新しきものへの期待に先立って、彼女を不安に陥れた。
その先に存するのがただ暗闇のみであるという不安。
死への不安――個人の死ではなしに、もっとはるかに大きなものの死。
それはおそらく、この時代が共有している精神だとヒルデガルドは考えている。楽観的か悲観的か、またどの程度の強度なのか――そういう違いはあるにせよ、皆、世紀とともになにかが終わりを告げるのだろうと、心のどこかで感じているのだ。
果たしてクロゥディアは、かかる感傷と縁があるのだろうか。
魔術師としては凡庸な監察官には、顰め面を張り付かせて俯きっぱなしの、この大魔術師の内面など推し量りようもなかった。
できるだけ気楽に、ユーモアをもって続けていきたいですね。
名前の綴りはそれぞれClaudia LeaufroideとHildegard von Stade。後者はヒルデガルド・フォン・ビンゲンが元ネタですが、前者には特にありません。意味はあります。