7
エヴリンがMの派遣した傭兵部隊と合流したのは、ロンドン市街地でパク・ユイルが発見されてから三十分後のことだった。Mが派遣したのは、ロンドンに居を構える民間警備会社。しかしその実体は民間軍事会社だったのだが、Mはすべてを把握したうえで派遣したものと考えられる。
パクの発見後、すぐに実働部隊が編成された。彼ら即応チームは、合流後すぐに偽装したメルセデス・スプリンター二台に分乗。ビジネスホテルの暫定基地から情報を受けながら、現地へと急行した。
エヴリンは、一号車の助手席にいた。運転しているのはジョーダンで、切り開かれた後部座席には武装した男たちが五名、今朝と同じ装備で待機している。めまぐるしく環状交差点を駆け抜けるスプリンター。その車内で、彼女は暗号通信に耳を傾けながら、周囲の状況をにらみつけていた。
現在もなお、監視カメラと偵察ドローンによる捜索は続けられている。しかし今、顔認証ソフトの主標的は、パク・ユイルに変更されていた。パクは、チューズデイの死と引き替えにしてもCIA工作員が情報を得ようとしていた存在だ。彼がチューズデイとなにかしらの関係があるとは分かっていた。
しかし、あいにくなことに一時間ほど前にパクの姿が確認されてからというものの、顔認証ソフトは一度も彼を発見できていなかった。ただ一つの手がかりは、そのとき彼がいたとされるホテルで開かれるパーティだ。
仮面を付けることをドレスコードとする、いびつなパーティ。そのなかに紛れ込めば、ドローンも顔を識別することはできない。よく考えたなと、エヴリンも敵ながら思った。
「相手は凄腕の殺し屋だ。……Mが差し向けたエージェントとはいえ、あんたは前に出ない方がいい」
ハンドルを左へ切り返しながらジョーダンが言った。真横を二階建てバスが通過した。
「わかっています。わたしは戦闘要員ではなく、調査員として派遣された人間ですから。……ですが、いちおう現場は経験しています。指揮は私が執ります。舐めないでください」
「そう言って、声が震えているぞ。……まあ、仕方ないか。パクは、先々月にあった北朝鮮の要人暗殺の首謀者とまで言われている。確たる証拠は見つかってないが、ほぼ確定と見て違いない。やつのナイフ捌きはすさまじく、かつて韓国の特殊部隊にいたころには、『切り裂き魔』の異名をとっていたと聞く。それだけの手練れだ。最新の装備を持っていたとしても、情報部のアンタがまともにやり合える相手じゃない」
「わかっています」
言って、エヴリンは窓ガラスの方へ顔を移し、視界からジョーダンを追いやった。
「すこしだけ仮眠をとります。ついたら、教えてください」
「わかった」
*
夢を見るということは、浅い眠りであることの表れとも言える。そのときエヴリンが見たのは、過去の記憶に満ちた夢だった。
ぼんやりと映る田園風景。それは彼女の故郷であるニューヨーク州の北部だった。同じニューヨーク州といえども、大都市であるビッグ・アップルとは大違いだ。エヴリンの祖父母は、そこに農地を持っていた。聞けば、何代も前からの土地であったという。彼女の血筋は北欧からの移民だが、つまりその移民の祖が開墾した場所なのだろう。
しかしエヴリンは、その田園風景にあまりいい思い出がなかった。ゆえにこの夢も、ある種の悪夢だった。
のどかで、どこまでも広がる緑の牧草地。遠くには麦の波が見える。風に揺れる草木。漂ってくる青い香り。しかし、それはやがてツンと鼻を刺激するモノに変わった。ガソリンのにおいだ。それから、焦げ付くような炎のにおい。化学繊維が焼けて、ダイオキシンがまき散らされる。変形したプラスチックと、熱に耐えきれず飛散するガラスたち……。
このイメージの正体を、エヴリンは知っていた。何度も見尽くした夢だから、そのバックグラウンドなども分かっていた。このにおいは、焼け付くような炎のかおりは、死のにおいだ。父が死んだ時のにおいだ。
エヴリンの父――アレックス・ヴィアライネンは、田舎町の教師だった。大学は数学科を卒業した後、そのまま教員免許を取得し、帰郷。地元の高校で教鞭を執るようになった。アレックスの授業は、単に公式を教えるだけのステレオタイプなものではなく、それを考案した人物――たとえばガウスであるとか、ピタゴラスであるとか――の伝記的、歴史的部分を多分に含んでいたというので、文系の生徒にも人気があったという。また偏屈でありながらも明るい性格から、妙に生徒から慕われていた。変なクセのある教師というのは、からかいに似た好意を生徒から受けるものだ。
エヴリンは、そんな父にあこがれを抱いていた。そしていつか、父の勤める高校に通うことを夢見ていた。いずれ父のように大学へ行き、自分も教師になるのだと、当時ティーンエイジャーの始まりだった彼女はぼんやりと思っていた。そういう未来が自分を待っているのだろうと、薄ぼんやりとだけ考えていた。しかし、そうはならなかった。
ハイスクールへの進学を控えた年、農場を経営する祖父が危篤になった。そして一ヶ月後に容態が急変し、他界した。事件は、そんな祖父が亡くなった夏の晩に起きた。
その日、農場まで往診にでている町医者から、ヴィアライネン家にまで電話があったのだ。祖父の容態が急変し、今日がもう山場であるという話だった。
エヴリンは学校から家に戻ると、すぐに母に言われ、出かける準備をした。だが、父はいっこうに帰ってこなかった。仕事が忙しく、今すぐにはどうしても戻れないといったのだ。
そのときの電話越しの夫婦喧嘩をエヴリンは今でもよく覚えている。思い返せば、それが最後の夫婦の会話だったのだ。
「仕事って……お父さんが倒れそうだってのに、あなたは!」
「仕方ないだろう! こっちは生徒の進学がかかってるんだ! すぐに終わらせて合流するから、先に行っていてくれ。できるだけ急ぐ」
「こんなときなのに、どうして?」
「いいから。先に行ってくれ。あとで追いつくから」
「もう知りませんから!」
言って、母は受話器をガチャンと下ろした。傷がついてしまうぐらいの勢いだった。
それから母はエヴリンの手を引っ張り、クルマに連れ込んで街を出た。市街地から祖父母の農場までは、クルマでおよそ一時間半の距離だった。
たどり着いたころには、もうとっくに日は沈みかけていた。そして祖父の命もまた。寝台に乗せられた祖父は痩せこけ、骨ばって、すぅすぅと辛うじて息をするだけだった。目は閉じ、もはや意識があるようにも見えない。医師が必死に呼吸器を使ったり、祖母が冷えたタオルを額に当てたりなどしていたが、すべて無駄だった。祖父は、努力もむなしく到着から三十分後に息を引き取ったのだ。
祖父の命が奪われてから三十分。まだ父は到着せず、それからまた一時間待ったが、やはり来なかった。そうしていい加減おかしいと気づいて、クルマで引き返そうかと母が言い出した。そのときだった。
突然、祖父母の家の電話が鳴ったのだ。腰の悪い祖母の代わりに母が出て話を聴くと、彼女の顔はみるみるうちに絶望の色に変わっていった。そして冷めた目で娘の姿をじっと見つめた。そのとき、母親は迷ったのだろう。いま聞いたことを、子供に伝えるか否かを。急いでクルマを飛ばしていた父が、トラックと激突して横転。そのままガソリンに火がついて、救急隊が来る前に焼け死んだと。そう伝えるべきか否か……。
父の焼け付くような死は、唐突に訪れ、唐突に過ぎ去っていった。以来、母はふさぎ込むようになった。祖母が亡くなったのも間もなくだった。そのころには、エヴリンはもう父と同じ教師を目指そうとは思わなくなっていた。ただ、父を殺した交通事故が憎くて、警官になろうとだけは思っていた。しかし、その夢もいつしか変貌し、自分の適正によってゆがめられて、いつのまにか諜報機関に属すようになっていた……。
――われながら、つまらない、おかしな人生だ。
エヴリンはそう思いながら、何度も見たその『死の夢』を見続けた。意識して夢を見れていたのだから、それは一種の明晰夢だろう。だが、その夢を操ることはできなかった。父の死は、もう過ぎ去った出来事なのだから。
燃えさかる農場。風に運ばれてくるガソリンのにおい。焼け付いたゴム、ブレーキ痕、弾けた窓ガラス。いぶされた人肉のにおい……。
麦畑の向こうに炎が見えた。闇の中でもはっきりと見える黒煙。それが父の肉を燃やした炎であると、エヴリンには分かっていた。この記憶を、この夢を、今までに何度も見てきたのだから。
しかし、このとき見た夢はいつもと少しだけ違っていた。畑の向こうに見える炎が、やけに近いのだ。いや、近づいてきている。炎の塊が渦を巻き、うねるようにして近づいている。風に巻き上げられ、エヴリンのほうへ。
そして炎は、突如としてその容貌を変えた。空気を吸い込み、バチバチと音を鳴らし燃えさかる火焔は、いつしかヒトの姿に変わっていた。真っ赤な髪を持つ、冷めたアイスブルーの瞳の女に。
エヴリンはたまらず目をひん剥いた。全身が金縛りにあったように動かなくなり、ただ炎が体を愛撫する感覚だけが残った。燃えさかる炎。全身を焼き付こうとする、赤い髪の女――
*
「大丈夫か」
運転席のジョーダンがブレーキペダルを踏んだとき、ちょうどエヴリンは目を覚ました。
体をもぞりと動かしてみると、下着が汗を吸って気持ち悪い。シャツの上からさらにプレートキャリアも背負っていたので、なおさら汗をかいていた。見れば、スカイブルーのワイシャツに汗染みができていた。とてもパーティーに行く女の格好ではない。
「……ええ、大丈夫です」
「それならいいんだが。もうすぐ着くぞ」
ちょうどそれから信号が変わり、前方集団が進み出した。それに合わせ、メルセデス・スプリンターも走り出す。すでにフロントガラスには、パーティ会場であるホテルが映っていた。
それからの支度は、五分以内にすべてが整った。まず偽装バンをホテル前に停車。ベルボーイが何事かとやってきたが、国際刑事機構捜査官を名乗って黙らせた。そして、まずエヴリンとジョーダンの二人だけが会場に潜り込むことになった。
天井の高いエントランスホールを抜け。そのまま一階の大広間へ。会場前の玄関には、屈強な警備員が二人ほど立ち尽くしていた。
「失礼、ミズ。ここから先は招待客しか入れません」
サングラスに、ストライプの入ったダークスーツ。首筋に血管の浮き出た身長二メートルの巨人は、片手でエヴリンの行く手を阻んだ。
「インターポールのアリサ・エヴリンです。同じくこちらはロバート・ジョーダン。捜査のために入らせていただきます」
「インターポールだって? 令状は?」
「すでにオンライン上で提出済みです。そちらを確認してください」
言って、エヴリンは男の手を払いのけた。
扉を開け、会場内へ。そこは仮面の者たちが集ういびつな空間だった。シャンデリアが光を落とす絢爛豪華な室内には、シャンパン片手に談笑する奇面たち。彼らはエヴリンとジョーダンの登場も気にとめず、偽りの笑みをこぼし続けていた。
「パクの位置はつかめていますか?」
エヴリンはすぐに右耳のインカムに向けて問うた。すぐに本部からの返答があった。
「いま会場内の監視カメラから顔認証にかけていますが……なにぶん、状況が状況ですので」
「背格好からおおよその推測が出せるはずです。顔認証はなくても、パクに関しては歩様データもあったはず。すぐに検索にかけてください」
「わかりました」
通信終了。
エヴリンは、すぐに隣のジョーダンと顔を見合わせた。
「どうする。すぐに部隊を連れてよこすか?」
「まだエントランスで待機させてください。パクの位置が確認でき次第、突入を命じましょう」
「しかし、ヤツは本当にここにいるのか?」
言って、ジョーダンはやおら背伸びをしつつ、あたりを見回した。
そこにはスーツ姿の奇面と、ドレス姿の奇面たち。ウェイターまでも道化師のようなマスクをし、おぼつかない足取りで料理を振る舞っていた。明らかに異様な空間だ。
「パクをとらえれば、チューズデイに関して情報もつかめるはずです。……ここに逃すわけには行きません」
「わかっているさ」
しかし、エヴリンも口ではそう言うものの、疑念は隠しきれていなかった。
――本当にここにパクがいるのか? ロンドン市内にデイジー・アンダーソンとルビー・チューズデイはいるのか?
不安と疑念が入り交じる中、先ほど見た悪夢が脳裏に蘇った。紅玉のように赤いを髪をした、燃えさかるような女。それがエヴリンの頬を撫で、炎の中で殺そうとした。父の死がそうであったように……。
――死について考えるな。今は、任務のことだけを考えろ。
そう言い聞かせたとき、インカムに声が響いた。
「確認しました。奥のVIPルームに、パクと思しき男が入っていく様子があります。パクは、赤い髪をした女と、黒い髪の女と一緒です」
――赤い髪の女。
総毛立った。まるで正夢を見たようで。
「了解。……部隊を突入させます」
二人は互いの目を見合わせ、それから即座に仕事に取りかかった。
会場内に武装した男たちが流れ込み、同時に偵察用ドローンも進入。突然の出来事に、会場内もあわただしくなり始めた。
「落ち着いてください。警察です。その場を動かないで、静かに」
騒然とするなかで、エヴリンはバッジを――もちろん偽物だ――掲げた。その効力は想像以上で、仮面たちは突然動きを止めた。
仮面の群を、ヘルメットとマスクを備えた武装集団が駆け抜ける。その先頭はジョーダンがつとめ、しんがりはエヴリンだった。彼らはVIPルームに続く扉の前に着くと、その場に待機。エヴリンの号令を待った。
「いくぞ」とジョーダン。彼の言葉は、エヴリンへの了解を取るものだった。
エヴリンは、その言葉にうなずき返した。
「突入」
彼女がそう口にした、次の瞬間だ。
ドアに張り付いていた即応チームの部隊長が扉を開き、そのわずかな隙間に隊員がフラッシュバンを投げ込んだ。
それからドアをわずかに閉じ、全員で目線をそらした。パンッ……! という乾いた音。そして扉の隙間から漏れる閃光。それが真の意味での突入の合図だった。
*
フラッシュバンが炸裂し、光がすべてを焼き尽くしたとき、ルビー・チューズデイはとっさに仮面をかぶって両手で耳を塞いだ。それが功を奏したのか、脳に来る激痛は最小限に押さえられた。視界に残されたの光は、仮面の瞳の輪郭にかたどられた残光のみだった。土星の環のような光が二つ、くっついたり離れたりを繰り返す。しかし、本来ならば視界は光に焼き尽くされ、聴覚は耳鳴りのような高音に奪われたはずなのだ。これならまだマシだ。
一瞬の耳鳴りに脳を揺さぶられながら、チューズデイは耳から手を離し、それから仮面を引き剥がした。
部屋を見回すと、そこには地面をのたうち回るゾーイ。そして仮面のまま頭をもたげる黒人の男があった。フライデイと、アジア人の姿はない。
――フライデイはどこだ……?
もう彼の姿はない。先ほどまで座っていたソファーはもぬけの殻だ。さらに言えば、付き人のアジア人もどこかに消えている。
チューズデイは心で舌打ちし、その後を追うように見回した。視界に飛び込んできたのは、ドアを蹴破って押し入ってくる武装した男たち。CIAだ。そしてそれに対するようにして、反対方向のドアへ抜けていく男の姿が見えた。付き人のアジア人だった。
――逃がすものか。
ようやく見つけたシンジケートへの糸口だ。逃がす訳にはいかない。
――だが、それは自分の意志なのか? 自分の仕事なのか?
疑念がよぎったが、そんなことを考えている暇はなかった。自分を殺すつもりのCIAは、いままさに襲いかからんとしているのだ。
チューズデイはアイディール・コンシールを二発、威嚇射撃に撃ち尽くすと、ルガー片手にフライデイのあとを追った。
強引にドアを蹴破り、フライデイの後ろ姿を目で追う。ドアの先はフロントへ続く裏道になっていた。ちょうど左へ曲がっていくフライデイの姿が目に飛び込んだ。一発、二十二口径を撃ち込むが、もちろん当たらない。
そのまま彼を追ってフロント・ロビーへ出た。高い天井のロビーでは、チェックインカウンターに人がごった返している。その列をかき分け、強引に進む二人組が見えた。ベルボーイが勢いに押し負けて、荷物をひっくり返す。あたりに女物の下着が散乱。悲鳴と絶叫とが反響する。
そのとき、一瞬だけフライデイがこちらを見た。チューズデイの姿を、一瞬だけ振り返った。その顔には焦りの色も見えたが、しかし嗤っていた。不敵に、粘ついた皮膚をひくつかせて。
フライデイはそれからロビーを出て、玄関ホールを駆け下り、目の前のカーパークへ向かった。チューズデイは何とか人混みをかき分けて追いついた。しかし、少しだけ遅かった。
チューズデイが駐車場に着いたとき、そこにいたのはBMWに乗り込むフライデイ。そして運転席から銃口を出して発砲する男の姿だった。吐き出された銃弾は、しかしチューズデイを狙ったものではなく、周囲のクルマのタイヤを狙ったものだった。メルセデスにベントレー、アストンマーティンと、停車していたクルマが漏れなくパンク。そしてBMWは発進した。彼らは、追ってであるチューズデイの足を潰したのだ。
BMWが玄関前の路肩から飛び出したとき、後部座席には笑みをこぼすフライデイの姿があった。チューズデイはその笑みに向けてルガーを撃ったが、間に合わなかった。彼女が着いたのは、すべてが終わったあとだったのだ。
足は潰された。追いかける手だてはない。そしてCIAの武装集団が追ってきている。フライデイは、すべて計算ずくだったのだ。またもまんまとハメられたのだ。
後方から聞こえてくる軍靴の音に命の終わりを感じながら、しかしそれでもチューズデイは生き延びる方法を探した。逃げる足は? 追いかける手だては?
そのとき、彼女の目に飛び込んできたのは一台のバイクだったカワサキ・ニンジャH2。金属光沢を放つボディが、駐車場の脇でエンジンがかかったまま停車していた。それがあのアジア人がタイヤを潰し忘れた、唯一の自動二輪だった。バイクは目に入らなかったのだろう。
ベルボーイはニンジャを駐車場に回そうとしていたが、彼は先ほどの騒ぎで呆然としていた。無理もない、目の前で銃撃戦があったのだから。ステアリングを持つ彼の手は硬直し、瞳孔は死人のように開いていた。
チューズデイは考える暇もなく、彼に銃を突きつけた。
「そのバイクをちょうだい。いますぐに」
ニンジャH2にまたがると、すぐにフライデイの後を追い、ロンドンの街を駆けた。しかしこのバイクには、追跡装置もなければナンバー変更装置も、電磁装甲もない。いたってふつうのバイクだ。しかし、速さだけとって見れば、この上なく上等なシロモノだった。まったくバイクのタイヤが撃たれなかったことを神に感謝するしかないと、チューズデイはそう思った。
ホテルを抜けた先は大通りだったが、夕方ということもあってだいぶ混雑していた。そんな中、クラクションで対向車や歩行者を押しのけながら逆走するBMWは、イヤでも目立った。黒のBMW7が街に現れた怪獣のように、住宅や看板、道路を壊しながら疾走する。
バイクとクルマでは、加速性能はバイクの方が断然に上だ。小回りもずっと効く。その点、チューズデイは有利だった。渋滞になりかけの四車線道路をかき分けて、フライデイを追う。左手でステアリングを押さえつけながら、右手で銃を抜き、彼女はチャンスを待った。
*
突入は成功したが、収穫は怪しいところだった。閃光音響手榴弾は確かに効果があった。しかし、最大の目標は捕らえられなかった。
即応チームが突入したとき、フラッシュバンで倒れていたのは二名。一人は仮面を付けた黒人で、もう一人は黒髪の女だった。女はサングラスをかけていたために視界こそやられていなかったが、戦闘には慣れていなかったのだろう。痛烈な音響に耳をやられ、倒れ込んでいた。
女が誰かはすぐにわかった。デイジー・アンダーソンだ。即応チームはすぐに二人を拘束したが、パクは見つからなかった。そして赤い髪の女も。
エヴリンが来たときには、もう二人に結束バンドが締められ拘束。現場は鎮圧されていた。だが、問題はそこから逃げ去った者たちだった。
「この二人以外は?」
シグザウエルを構えたまま、エヴリンはVIPルームへ入った。
「逃亡中です。ブラボーチームが追跡中」
「わたしも向かいます。あなた達はこの二人を拘束しだい、バックアップをお願いします」
エヴリンはジョーダンと顔を見合わせると、すぐにその場を後にした。
パクはここにいたはずだ。そしてアンダーソンがいたということは、ルビー・チューズデイもいたはずなのだ。
赤い髪の女。夢に見たその姿が、三度エヴリンの脳裏に現れていた。
部隊を引き連れ、ジョーダンとエヴリンは大急ぎでフロントに向かった。すでにチェックインカウンターの周辺ではちょっとした騒ぎになっており、エントランスの近くからは銃声と悲鳴が聞こえていた。
「あっちです!」
指さしたエヴリンに従い、武装した六名が正面玄関へ。リムジンにタクシー、メルセデスやBMWが並ぶ駐車場には、すでにいくつかの弾痕が穿たれていた。車両はすべてタイヤが撃ち抜かれており、どれも走行不能。文句を言いに来た客の対応に、ベルボーイたちが慌てふためいていた。
エヴリンは罵詈雑言をまき散らす客を押し退け、バッジと銃を手にベルボーイのほうへ向かった。一方で、ジョーダンと即応チームは偽装バンを取りに駐車場へ向かった。
「インターポールのアリサ・エヴリンです。先刻、ここへ武装した集団が来たはずです。どっちへ行ったかわかりますか?」
「駅のほうへ行きました」ベルボーイが答えた。
「車種は?」
「BMWの7シリーズ。それから、バイクです。カワサキの」
「わかりました。ご協力に感謝します」
エヴリンがそう言ったとき、ちょうど駐車場から偽装バンが出てきた。ジョーダンがホテルの前に強引に横付けする。
それからエヴリンは助手席に飛び乗り、ボーイの言ったピカデリー・サーカス・ステイション方面を見やった。残念ながらそこにBMWもカワサキも見あたらなかったが、その残滓は見えた。逃げまどう歩行者と、こすられた一般車両。ひしゃげた標識。この先に、チューズデイはいるのだ。
「出してください。目標を見つけしだい、随時発砲を許可します」
そして、ジョーダンの運転でメルセデス・スプリンターが駆けだした。