6
その歪な相貌に、チューズデイも驚きを隠し切れなかった。辛うじて人の形態を保っているその顔は、一言喋るたびに特異な動きを見せ、固有の生物であるかのように振る舞った。腫れぼったい頬と、痩せこけた顎、そして腐り落ちたようにスカスカの歯。それらが連動して動く。
「驚くのも無理はありません。シンジケートは、いままであなたを翻弄してきた敵であり、正体不明の秘密組織……。目の前にいる個人がそう名乗ることは、おかしなことですよね。でも、それで正しいのです。わたしが、わたし自身がシンジケートという組織なのです。わたしが今まであなたを翻弄してきた敵。そして、情報提供者でもあります」
「……私は、またまんまと罠にハメられたということか」
「いいえ、あなたは来るべくしてここに来た。わたしが招待し、あなたが自発的にここへ来るよう差し向けた。たからこそ、あなたはわたしを尋ねてきた。……もっとも、あなたは記憶を消されているから分からないのも無理はないですが」
「記憶を消したのは、あなたたちシンジケートの仕業だと思うのだけど。二年前、CIAに潜伏していたあなたの仲間が、私に工作員の居所を吐かせるため、強引に薬漬けにした」
「いいえ。違います」
彼――いや、彼女と言うべきなのか。ロビンというのは、ロバートの愛称なのか? それとも女性名なのか。フライデイは、いびつな顔をさらに歪ませて、ケタケタと嗤った。
「説明いたしましょう。はじめから、すべて、順に。わたしがあなたをここへ招いた理由。あなたを罠に陥れ、そしていまこうして相対している意味。そして、わたしがこのような顔になった理由を……。そうすれば考えも変わりますよ、お姉さま」
*
あなたを招いた理由を話す前に、わたしの出自について語る必要があります。それが後々、あなたの起源にも関わることになりますから。しばらくお付き合いください。
……かつて二十世紀末に遺伝子の研究が盛んだったことは言うまでもありません。が、その最中で隠匿され続けてきた実験があることは、裏の世界の住人であるあなたでも知らないでしょう。
それは『デイ計画』と呼ばれました。名前の由来は、実験の参加者の一人、マンデイという女性から取られたといいます。マンデイの役割は、要するに代理母でした。……ええ、勘のいいあなたならもうお気づきですよね。そう、ここでいう遺伝子実験とは、人間を対象にしたモノだった。つまり、ヒトゲノムを操作する実験であったわけです。CIAはDARPAと協力し、遺伝子操作を施された試験管ベイビーの製造を図りました。目的は一つ、素性の知れない、親兄弟も家族も真の意味で存在しない、国家の所有物たる完璧な人間を作り出すこと……。それがデイ計画の主目的でした。いわば、ドローンやプレデターのような無機的な自立兵器を超越した、有機的自立兵器を生成しようという。そういう実験だったわけです。
実験は十年以上にわたって続きました。そして最終段階において、六体の人造人間が製造されることになりました。それら人造人間には、代理母の名前からとって、サンデイからサタデイというコードネームが与えられる予定でした。
予定、という言葉を使ったのは、もちろん彼らが消滅したからです。一部を除いてですが。
……ええ、もうおわかりになりましたよね?
ルビー・チューズデイとは、二番目の実験体。そしてロビン・フライデイ――つまりわたし――とは、五人目の実験体なのですよ。
ミス・チューズデイ。あなたはXY染色体を持つ男性兵士を想定して作られたレイズィ・サンデイと違い、XX染色体を持つ女性形のサンプルとして製造されました。改変された戦闘遺伝子を持つ、サンプルの実験体として。そしてご覧の通り、実験は成功しました。生まれた赤ん坊は分娩室へ連れて行かれ、さっそく国の所有物として国家機密扱いとなりました。
続けてウェンズデイ、サーズデイが製造されました。しかし、その時点で成功したのはあなただけ。サンデイは産後すぐに息を引き取りました。そしてまたウェンズデイとサーズデイも失敗に終わりました。
彼らは、細胞分裂の途中で生命体の形状を維持できなくなったのです。つまり、遺伝子とは生命を作り出す設計図であるわけですから。そこに手を加えたということは、本来完璧な設計図に線を引いたり、消したりするわけです。その改変した設計図が完璧なものでなければ、もれなく生命体は崩壊する。崩壊せず済んだのは、あなた一人だけだったのです。まさに奇跡と言えましょう。
代理母は、計五人の子供を産み、そして三人が流産に終わりました。ええ、わたし――フライデイが五人目。つまり最後の一人です。国防総省は、莫大な予算に見合わぬデイ計画に見切りをつけようとしました。そして五人目の実験体が成功しなければ、計画は強制的に中止ということになったのです。すなわちわたしは、実験存続の可否を問う最後の試験体であったわけです。まあ、結果は見ての通り失敗でしたがね。わたしの顔を見れば、おわかりでしょう?
……この顔の理由、気になりますでしょう。実を言うと、実験が頓挫した理由と、あなたが唯一の成功体である理由は、そこにあるのです。
端的に言えば、失敗の原因は染色体にあった。デイ計画では、有機的な戦闘マシンを作ろうとした。そして同時により完璧な、強靱かつ聡明な人間を作ろうとした。世紀末のマッドサイエンティストが考えつきそうなことです。しかし、ヒトはそもそも完璧な存在ではない。何もかも不完全な存在です。そしてその不完全さのうちの一つが、染色体でした。XY染色体では、デイ計画の目的である完全な人間は作れなかった。聖書において女は、男のアバラから生まれたものと描かれ、それが男尊女卑の下敷きにもなったわけですが。実際は逆であったわけです。XX染色体を持つ女性形こそ完璧な生物に近く、それゆえあなたはこの世に生を受けた……。しかし、CIAが欲していたのは強靭な肉体を持つ男だった。
そこでDARPAは、最後の頼み綱としてわたしのような存在を生み出しました。不完全な人間を改変して生み出された存在。男でも女でもない、固有の存在です。わたしの下半身を見ますか? ペニスはヴァギナの変形であることは知っていますでしょう? わたしのヴァギナは、顔以上に歪なカタチをしているんですよ……?
……しかし、ヒトが神の子を作ろうなど無理な話だった。細胞分裂の途中、わたしの体は崩壊を始めたと言います。しかしわたしは最後の被験体。研究者たちは、何とかしてわたしの生命を維持させようとした。その結果が、この顔です。この体です。
ええ、実験はそうして中止に追いやられました。生まれたのは、ただのキメラだったのですから。でも、副産物は残った。唯一成功したチューズデイと、出来損ないのフライデイがね。
初めに言っておきましょう。お姉さま――そう、デイ計画の子供たちを仮に姉妹と呼ぶのであれば、あなたはわたしの姉にあたるわけです――あなたは、初めからアメリカの所有物でした。換言すれば、徹頭徹尾Mの所有物なのです。女王陛下ではなく、国家の。
デイ計画は中止されましたが、成功例であるあなたにはもちろん関心がいきました。果たして遺伝子操作によって強靱な人間は作れたのか。まだ当時は懐疑的ではありましたがね。しかしCIAは潤沢な資産を投じ、あなたの教育を始めた。と同時、あなたを隠匿することにしたのです。ヒトゲノムの操作による人造人間の創造など、もちろん国際世論が黙っていません。しかし、国としてはもちろん新しいオモチャを使いたい。それにあなたは、真に身寄りのない無の存在であるわけですから。いかようにも教育できたわけです。
そこでCIAは、幼いあなたに疑似家族を用意し、軍人の娘として育てました。結果はすぐに明らかになりました。あなたは十八歳で海兵隊に入ると、すぐにイラクに送り込まれ、戦場でその頭角を表しました。もっともSEALSに女性は入れませんから、あなたはすぐに退役したのですがね。……退役の理由? ええ、ヘッドハンティングですよ。CIAがあなたを呼び戻したのです。それがちょうど9・11の起きる直前でした。
さて、そこから対テロの戦争が始まりましたが。あなたがフリーの殺し屋として世界を駆け回りはじめたのはこのころです。このころから、あなたはルビー・チューズデイというパブリック・ドメインを使うようになります。それがあなたのコードネームであるチューズデイから来たことは言うまでもなく。そしてあなた自身を正体不明の女傭兵に仕立てあげたのは、アメリカの意図がありました。
ええ。遺伝子改変を受けた人造兵士。そんなSFじみた兵士が実在すると、この時期からまことしやかに囁かれ始めたわけです。もちろん合衆国は、あなたの存在を敵国に知られるわけにはいかない。正義の戦争を訴え、悪のテロリストを皆殺しにする正義の戦争を行う国が、ヒトをイジって、あまつさえ兵士に仕立て上げるなど。国連の常任理事国が聞いて呆れるというわけです。
そこで一つの都市伝説を作り上げた。
どの国家にも所属しない、誰も彼女を知らない、正体不明の女スパイ。そのパブリック・ドメインこそが、ルビー・チューズデイ。そう、この名前は、戦場においてイルミナティやフリーメイソンと同じ効力を持つようになった。というよりも、アメリカがそのようにし向けた。得体のしれない、実体のない、正体不明の敵。その噂のおかげで、アメリカという国はあなたという兵器をどこへでも送り込めるようになった。
では、海兵隊として活躍していたあなたはどこへ消えたのか?
ええ、どこかへいったんですよ。記憶とともにね。
CIAは定期的にあなたに催眠療法と薬事療法を施し、記憶を削除した。そうすることで、あなたをいいようにあつかった。フリーの傭兵で、かつアメリカの利益の為に動く、都合のいい傭兵として。Mであるとか、アーネスト・バーンズであるとか。そういったCIAの手駒を使ってね。彼らはみんなCIAの手先なんです。あなたはずっと、自分から動いているつもりでいた。でも、すべては仕組まれたことだったんです。いままさに、あなたがこうしてわたしに会いに来たようにね。
あなたはずっと監視されていたんです。ずっとCIAの言いなりになってたんです。自分でも知らないうちに。そしてもし国家に反抗するようなことがあれば……もう一度記憶を消し、再度チューズデイという工作員を演じさせるようにしたのです。
二年前の事件とはそういうことですよ。本来サタン=ハリー・ライダーに抹殺許可が出ていたにも関わらず、あなたはCIAの意図に逆らい、彼を逃がした。そのためCIAはあなたに故障が発生したと判断し、リセットにかけた。催眠にかけ、記憶を消し、もう一度チューズデイとしてリセットさせたのです。そしてそのお膳立てというのも、すべてMが行ったわけです。都合よく愛銃や口紅型拳銃があったのも、そういうことですよ。
わかりましたか、お姉さま。あなたは造られた虚像。どこにもあなたというものは存在しない。どこにも本当のルビー・チューズデイは存在しない。わたしは、そんなあなたを救いたいのです。
*
「おわかりいただけたでしょうか? あなたはいままで、CIAやM、アーネスト・バーンズといった者たちに偽の情報を流し込まれ、アメリカの利権のために動く体のいい労働力と扱われていたわけです。それも、表向き誰の所有物でもないという建前の上で。はじめ、わたしはあなたを殺そうとしました。ネイサン・レノックスを使ったりして。デイ計画の生き残りなど、二人も必要ありませんから。……ですが、調べれば調べるほど、あなたに同情するようになった。あなたは自分自身は自由であるというふうに思いながら、実際様々なモノに拘束され続けていた……。不憫ですよ。わたしほどではないですが」
彼――あるいは彼女――は、粘ついた肉を動かし、ニタリと嗤った。そのねばっこい笑みは、ギトギトと頭にこびりついて離れなかった。
「だからわたしは、あなたがわたしと話せる機会を作りました。そのために、あなたがCIAの監視から離れる状況をまず作った。つまり、あなたが自発的に逃亡を行う環境です。お姉さま、あなたはフランス当局から任務を受けたとお思いでしょう? いいえ、実際はMがその裏に暗躍していました。元々、パリ市内でのCIA工作員のバックアップがあなたの任務でした。でも、わたしはそのさらに上を行っていました。まずフランス当局があなたに送信した情報をねつ造しました。さらに何も知らないCIA工作員を、わたしの友人と接触させた。そしてあなたを殺すように仕向けた。そして一方、あなたはそのCIA工作員をテロリストと思いこみ、暗殺を実行した。こうしてあなたがCIAと向かい合う構図を作り出しました。
先手を打ったのはあなたでした。だから爆破テロに見せかけることで、あなたをテロリストに仕立て上げた。あなたは爆破テロ犯と、CIA殺しによって追われることになりました。そして計画通りあなたは逃走を図った。見事でしたね、パリでのカーチェイス。あの危機的状況を打開できるのは、あなただけでしょう。
そうして完全に孤立したあなたに、わたしはこうして接触したわけです」
「……何のために」
「言ったでしょう? 救うためですよ。わたしは、おなじデイ計画の遺物としてあなたを仲間に迎え入れたいのです。我々、シンジケートに」
彼はそう言い、タバコを吸った。紫煙が虚空に広がり、サーキュレーターがそれを攪拌。机上の灰皿には、蛇花火のような灰が落とされた。
しかし、それにチューズデイが納得するはずもなかった。
「言っていることが支離滅裂だわ。わたしが遺伝子操作された人造人間? あなたと姉妹? アメリカに操られた木偶人形? そんな証拠はどこにあるの?」
「それを聞かれても困りますね。ほとんどのデータは、ブラックリスト入りですから。閲覧できません。あなたの個人情報というものが、そもそも存在しないことと同様に。しかもあなたは、記憶を消されている。自分が何者かわからないよう、そう仕向けられている……。
しかし、そのこと自体が――あなたが、自分を証明できるものが何一つない、ということ自体が、あなたがチューズデイであることの証明です。そしてまた、わたしの存在がその証明でもあります。この醜い顔が」
「仮にすべてが真実であるとして。……あなたは、わたしをシンジケートに引き入れて何がしたいの? シンジケートの目的は?」
「戦争ですよ。大戦争。世界をもう一度、血で血を洗う戦争の時代に引き戻すのです。わたしたちが棄てられた理由はわかりますか? そのような人道的に許されない、莫大な研究予算を要するような実験は、存続できないからです。ですが、かつてCIAは同じようなことを腐るほどやっていた。MKウルトラ? フィラデルフィア? 都市伝説にまでなるほど、山ほどです。人道的に許されないとしても、いくらでもやっていました。それはなぜか? ソ連という強大な敵がいて、それを倒すためには何をやってでも力を持たなければならなかったからですよ!」
そのとき、彼はタバコの火を灰皿に押しつけ、やおら腰を上げた。声は緩やかに怒りの色を帯びていき、口調は早まっていた。
「つまりあなたは、自分が必要とされる時代に巻き戻すだけために、これだけの事件を裏で手引きしていたと?」
「だけに、ですか。いいですか、戦争状態のは人間にとって正しい状況であるのです。いままで世界は、国連を主導に見せかけのグローバリズムと平和主義路線を取ってきた。しかし見てください。いまや世界はナショナリズムと反グローバリズムに走り、自らの利権のために競争状態を欲するようになった。これが自然であるのです。わたしは歪みを正すだけです。完璧を求めた結果、ゆがんでしまったわたしのようにならないために。……それに、わたしの思想に賛同するたくさんの企業や組織もあるのですよ。武器、兵器産業だけではない。あらゆる機械産業、電子、また物流などあらゆる分野が戦争を欲している。争いとは人間の根源的欲求であり、そこにはあらゆるニーズが発生しますから。戦争とは、ビジネスなんですよ。わたしはそうしたヒトの欲望をつなぎ止めている、それだけです。……結果として、わたしは世界を巻き戻そうとしているかもしれません。でも、それは所詮、副産物なのですよ。アメリカはもう世界の警察ではいられなくなった。偽りの平和の時代は、死にかけている……。日本には、セップクというものがありますね。つまり、自殺。しかしあれには、補助をする人間がいるんですよ。それをカイシャクと呼びます。わたしは、そのカイシャクなのです。
……どうですか、お姉さま。あなたは金額で動く非常な女殺し屋です。あなたには相応の報酬金を用意いたしますし、本物の自由を与えるつもりです。CIAによる束縛も何もない。あなたは金額次第で、どの組織にも味方する真の戦争請負人になるのです。歩く核抑止理論とでも言うべき存在に」
「……そう」
「ずいぶん冷めた反応ですね。手始めに、お近づきの印にこういったモノもご用意したのですが」
パチン、とフライデイが指を鳴らした。
すると奥のバーカウンターからボーイがやってきて、机の上にジュラルミンケースを広げだした。中身は、札束だった。
「ざっと十万ドル。お納めください。別に買収というわけでもありませんので。戦争ビジネスを牛耳れば、こんなものはした金にすぎませんから」
フライデイは微笑み、二本目のタバコに火を付けた。オイルライターを取り出し、黒い紙巻きの先端に火をともす。
しかし、一方で彼女の姉――チューズデイは、しかめ面のままだった。
「残念だけど、受け取れないわ」
「……どうしてです」
「どうしてでしょうね。理由は言えないけれど、私はあなたを信じられない……」
「信じなくても構いません。だって、そうでしょう、お姉さま? あなたは金額で動く殺し屋。どんな仕事だって、カネさえ受け取れば遂行する。そこに忠誠心や愛国心、仁義や友情などというものはない。非常なまでの殺し屋、それがあなた。そこに信頼関係は必要ない。わたしは、あなたという存在が必要だという意志を、金額として数値化しているだけです。わたしの話を信じるかどうかなんて、関係ないのです。信じなければ、そのまま嘘だと決め込んでいればいいのです。あなたが信じるべきものは、目の前にあるカネだけなのですから」
視界が揺らいだ。
目の前には、歪な顔をした妹――あるいは弟が。そして机上には百万ドル。
――このとき、ルビー・チューズデイならどう答える?
チューズデイは自問したが、いらへはなかった。
彼女自身、今の今まで疑っていたのだ。記憶を消された女殺し屋。その正体は、どの国家にも帰属しないフリーランスの諜報員。世界を渡り歩き、各地で任務を遂行する。金額だけを信じる冷徹な女。そんな都市伝説じみた存在が自分であるのかと、頭のどこかでは疑い続けていた。
自分の記憶とは何なのか。思い出されるものは、自分が殺し屋であるという確かな実感。そしてそれを遂行するだけの腕。しかし、それに付随して出てくる記憶はどうか? そこに着いて回るのは、MやバーンズというCIAの関係者。そこにチューズデイという女の意志はない。
決断が揺らぎ始めた。
目の前の人間の言っていることは、はたして正しいのか?
自分はそのカネを得て、世界を渡り歩くべきなのか。
いままで追い続けたシンジケートという存在に、手を貸すべきなのか。
そもそも、チューズデイとは誰の所有物なのだ?
疑念が支配し始めるなかで、脳にズキズキと痛みが生じ始めた。二年前、記憶を消されたときと同じ痛み。かつての記憶が、思い出してくれと古傷のようにうずいている。脳の奥から、六つ足の昆虫が這い回るように。節足の先端にあるトゲが、脳細胞の一つ一つを突いてまわるように。
「……受け取れない」
「それは、考える時間が欲しいという意味ですか?」
「……そうとも言えるかもしれない」
「そうですか。それは残念です。実は、もうCIAの追っ手がすぐそこまで来ているんですよ。あなたを取り戻そうと躍起になっているんですね。シンジケートに所有物が取られて、怒っているんですよ。……だから、もう時間はありません。わたしは、もう次なる計画へと事を進めています。あなたがこの話に乗らないというのなら、わたしはあなたをここで殺し、すべてを終わらせます。決断するなら、今のうちです。もう猶予はありません」
そのとき、彼の声にあわせて二人の男が銃を抜いた。仮面に顔を隠したアジア系の男と、屈強な体躯をした黒人が一人。上着の下から四十五口径を取り出した。
チューズデイも勘は鈍っておらず、まったく同じタイミングで銃を抜いた。右手でスタームルガーMkⅢを抜き、そして左手はポケットに忍ばせていたスマートフォンを取り出した。しかしそれはスマートフォンではなかった。手の中で滑るように動くと、それは瞬く間に拳銃へ変形。アイディール・コンシール、三十八口径を二発備え持つ、スマートフォン型の小型拳銃である。
ルガーをアジア人へ、アイディール・コンシールを黒人に向ける。そしてその二人は、ガバメントをチューズデイに向けていた。メキシカンスタンドオフ、一触即発の状態である。四十五口径が二つ、チューズデイの額をねらい。そして両手に持つ三十八口径と二十二口径が相手の眉間をねらっていた。
「まだ猶予はあるように見えるけれど?」
チューズデイは死の瀬戸際でせせら笑った。
フライデイは、またそれに応じるような笑みを浮かべた。そして二本目のタバコを吸い終え、灰皿で吸い殻を押しつぶした。
「いいえ、もうありませんよ。ねえ、ゾーイ?」
刹那、チューズデイの背に冷たいものが触れた。ゾワリ、と背中を逆撫でするような感覚。それは愛撫のようでいて、女王の鞭打ちのようでもあった。熱い蝋を流しかけるようで、氷水をぶちまけられるような、二律背反。
チューズデイが首だけ後ろに向けた時、目に映ったのはデイジー・ゾーイ・アンダーソンが銃を向ける姿だった。おそらく護身用であろうベレッタ・ナノ。その九ミリの銃口が、チューズデイの頭蓋を狙っていたのだ。
「ゾーイ、あなた……」
「ごめんね、チューズデイ。でも、アタシは金額で動く女なのよ。悪いけれど、アタシはこっち側の人間なのよ。アンタが罠に引っかかった、そのときからね」
そう言うと、彼女はおもむろにマスクを剥ぎ、その代わりにハンドバッグからサングラスを取り出した。琥珀色のオーバルサングラスには、チューズデイも見覚えがあった。それは、パリでハウンドを殺した女のモノと同じだったのだ。
「……まさか、わたしにハウンドを殺させ、爆弾魔にしたてあげたのは……」
「そうよ、このアタシ。……言ったでしょ? アタシは金額で動く女だって。アタシは、はじめからアンタとフライデイを引き合わせるために動いてた。MI6とはもうオサラバしたんだ。フライデイのほうが研究資金も潤沢だからね」
ゾーイは不敵に笑み、そしてベレッタの引き金に指をかけた。トリガーセイフティが解除され、九ミリの雷管に後一歩と迫る。
絶体絶命。三人に銃を向けられ、二人に銃を向ける。このメキシカン・スタンドオフの中で、唯一フライデイだけが余裕の笑みをこぼしていた。そのドロドロに溶けた皮膚を粘らせて。
緊迫した状況が静寂を演出した。聞こえてくるのは、ドア越しに響くジャズバンドのマッコイ・タイナーのみ。鮮やかなピアノの旋律が、緊張の糸を叩き続ける。ぽろん、ぽろん……と。
そしてある一つの打撃音が、打楽器のように鳴り響いた瞬間。その静寂は消え去った。それはVIPルームのドアを強引に開ける音。そして金属が床を転がり回る、鉄琴のような軽快なサウンド。
突如として室内に飛び込んできたモノ。それは、鈍色をした円筒状の物体。……閃光音響手榴弾
――まずい。
とっさに気づいたチューズデイは、一か八か、デリンジャーを下ろして仮面を手に取った。不敵に微笑む、ガイ・フォークスの面を。