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翌朝のMからの連絡は、吉報と言えた。
電話がかかってきたのは、朝七時ごろ。エヴリンはルームサービスの朝食を食べ終え、シャワーを浴びたところだった。
「調べがついた。映像は君のラップトップに暗号化して送ってある。……なかなかおもしろいモノが見つかったよ」
そういわれて、エヴリンはバスローブ姿のままマックブックを開いた。たしかにビデオが一件、メーラーが受信していた。開くと、先日ラングレーで見た荒れた映像が、比較的鮮明になって映し出された。画質は数年前の携帯電話レベルだったが、しかし音質は聞き取れるレベルにまで回復していた。
*
主観映像――メガネに組み込まれたカメラは、ハウンドの視点で動き回る。彼はカフェの中に一人の女性を認めた。ちょうど映像の中央にもその女が出てきた。ブロンド髪の、黒か濃紺のワンピースを来た女だった。女は琥珀色のサングラスをクイと上げてから、ハウンドに目線を寄越した。
「接近する。……カプチーノを一つ。どうも」
店員にそう言って、彼は女の前に座った。
不鮮明ながら、女の全身が間近に映された。男の視線の動きをそのまま体現したような映像だ。まずゆるく開いた胸元を見てから、すぐに顔へ移った。女は琥珀色のオーバル・サングラスを外すことなく、カフェラテを手に取った。サングラスのレンズは大きく、顔はよく見えなかった。
「仕事は引き受ける」
先に口を開いたのは、ハウンドだった。
「あら、気が変わったのね」
「契約の期日は明日までのはずだ。……おまえのお望み通り、その女――チューズデイを消してやる。そうすれば、パク・ユイルの情報を教えてくれるんだろう?」
「ええ、その通り。あなたが仕事をまっとうするというなら」
「なら契約しよう。しかし一つ条件がある。情報が先だ。仕事は、そのあとにやる」
「逃げるつもりでしょう。契約に変更はない。あなたはターゲットを消し、情報を得る。情報は直接あなたに送信するわ。いいでしょう?」
「……いますぐ情報が必要なんだ」
「あなたの上司は、そんな血眼になって彼を捜しているのね。たしかに、パク・ユイルは先日マレーシアであった要人暗殺の首謀者。ヤツは北朝鮮の利権に一枚噛んでいる。ま、捜すのも当然でしょうね。……正確には、彼の上にいる組織を捜しているんでしょうけど」
そう言うと、突然女は立ち上がった。
彼女は飲みかけのカフェラテをテーブルに残し、さらにイスかけていたハンドバッグを机に置いた。そして手ぶらでその場から去ろうとした。
「おい、結局どうするつもりだ」
視界が右へ急転する。一八〇度回頭。ピンぼけした視界に、青いドレスがにじむ。
女は何も口にしなかった。ただ白い手を振って、それからちょうどよく現れたクルマに飛び乗った。
ハウンドは舌打ちし、カプチーノを飲む。
爆発は、その直後のことだった。
*
「おもしろいだろう?」
エヴリンが映像を見終わったところで、見計らったようにMが言った。電話越しの彼の声は、相変わらず異様な雰囲気を帯びていた。
「……ハウンドは、チューズデイを殺そうとしていた。そしてそれと引き替えに、パク・ユイルの情報を得ようとした。しかし、殺された……。この女の身元はわかりますか?」
「わからない。現在照会中だ。だが、少なくともブラックリストにはない」
「あの女の目的はなんです? 爆弾は、おそらくあの女が仕掛けたと考えて間違いないでしょう。あのカバンは、きっと……」
「だろうな。謎のブロンドの女と、老婆。容疑者は二人だ。正直、僕もよくわからなくなってきた。ただこの事件に彼女が一枚噛んでいることだけは明白だ。何を持ってあの女がハウンドを殺したかは不明だ。だが、チューズデイがハウンド暗殺に関わったことだけはわかっている。……そういえば、君からも何か報告があると言っていたな」
「ええ、その件なんですが。セーヌ川に係留されていたジェットスキー、その持ち主を照会したんです。すると、そのうち一台の保険契約者の名義が『ジェイミー・ボンド』で登録されていました。おそらく、チューズデイと見て間違いありません。彼女は、もともとジェットスキーでその場を脱出するつもりでいたんです。そうなれば、不可思議な弾痕にも納得できます。
本来チューズデイは、爆破テロを起こすつもりは無かった。彼女はどこからか依頼を受け、ハウンドを狙撃。暗殺するつもりだった……そうは考えられませんか? そして老婆に変装し、そのまま川を下って脱出する予定だった。しかし、何者かが彼女の邪魔をした。商売敵か、あるいは彼女に敵意を持つ何者かが」
「……なるほど。チューズデイを狙う何者かが爆発物を持ち込み、ハウンドもろとも消し飛ばした。仕事は台無しにされ、そして彼女はテロの首謀者として指名手配されるまでになった……たしかに、辻褄は合うな」
「ええ。それで計画を台無しにされた彼女は、手近なクルマを奪い、脱出を試みた」
「そして消えた、というわけか」
「消えたのではありません。脱出方法にも、一つ考えがあります」
「というと?」
「泳いでいったんです。泳いでセーヌ川を渡り、そのまま国境を越えた」
係留されていたジェットスキーは、管理会社に頼んでフランス警察が押収した。証拠品として押収された品は、しかしフランス警察からすれば全くの意味不明なものだった。なぜなら、「ジェイミー・ボンド」なる人物が何者か、彼らは知らなかったからだ。その正体が金を積まれればどんな汚れ仕事でも請け負う傭兵だとは、知る由もない。気づいているのは、エヴリンだけだった。
そして、結論から言えばエヴリンの推理はすべて正しかった。犯人は――ルビー・チューズデイが、どうやら本気でセーヌ川を潜ったらしいのだ。
明くる日、エヴリンはパリ警視庁本部にある鑑識課に向かった。彼女が鑑識課のオフィスを尋ねたとき、ちょうどジェットスキーが運び込まれたところだった。だが、鑑識官の多くはジェットスキーに関心を持たなかった。唯一の例外は、エリック・ダヤン一人だけだった。
ジェットスキーは、鑑識課が持つガレージのような調査室の、その最深部に放置された。ホコリをかぶったそこは、廃墟のようにしんとしていた。
「これ、捜査官が見つけだしたんですよね」
ダヤンは白衣に着替え、手袋とゴーグルをつけ始める。彼はどこかうれしそうだった。
「ええ。入手経路は極秘情報です。で、手っ取り早くそれを調べてほしいんですが……」
「はいはい。インターポールの捜査には協力はしますが、邪魔はしちゃいけないってことですね」
文句をブツブツ言いながら、ダヤンはジェットスキーを調べ始めた。
黒のジェットスキーは、他に係留されていたものと違い、どこかタクティカルな印象があった。黒と青灰色のカラーリングは、水面にとけ込むような色合い。マットな質感で、座席後部には鍵付きのトランクもあった。
ダヤンは、真っ先にその荷物入れの調査にかかった。万能鍵を使ってもなかなか開かず、結局レーザーで焼き切って、ようやく開錠した。そしてその中に入っていたのは、エヴリンの推理を裏付けるものであり、また捜査を一歩進展させるものだった。
「なに、これ……?」
ダヤンの肩越しにエヴリンはのぞき込む。
それは、小型のタンクのようなものだった。
「リブリーザーだ……」ダヤンが言葉を漏らす。「それも、軍事潜水用の閉鎖式リブリーザーです。このタンクには、ソーダ石灰だとか、アルカリとか、そういう薬品を入れるんです。見たところこれは予備の薬剤ですね。……でも、こんな型番のは見たこと無い。ウチの外人部隊だってこんなすごいのは……」
「リブリーザーって、ダイビング機材の?」
「そうです。呼吸した二酸化炭素を濾過して、長時間潜水できるっていうアレ。しかもこれは、かなりの高性能機ですよ。もっとも本体は見あたりませが……。もし本体があれば、フルに使っても二時間近くは潜水ができますね。これは趣味のダイバーとかじゃなくて、特殊部隊とか工作員とかが使うシロモノですよ。こんなものがどうして……」
点と点は、つながった。
本体はきっとチューズデイが取っていったのだ。彼女はミニでセーヌ川に飛び込んだあと、潜水して橋の下までたどり着いた。水の中でなら、弾丸の威力は大幅に減衰する。正しい選択だ。そして彼女はリブリーザーを確保すると、大急ぎでパリを潜って脱出したのだ。そして、当初の目的通り、国境を出たに違いない。リブリーザーとともに、泳いで。
「……ありがとう、ムッシュ・ダヤン。ここから先はインターポールの仕事です。証拠品については、こちらで預からせてもらいます」
「え? なんですって?」
「あとはこちらで引き受けるということです。容疑者はおそらく、もうフランス国内にはいません」
エヴリンはそう言い放つと、すぐさまジョーダンにダイアル。鑑識課を出て、ホテルに急いだ。
ジョーダン経由でMに連絡し、それから返事が返ってきたのは、ホテルに戻ってきたときだった。エヴリンの携帯に直接、Mから非通知の着信があった。
そのときエヴリンは、ソファーに腰掛けてテレビを見ていた。点けていたのはニュース番組で、ちょうどテロの報道をしているところだった。
「ご苦労だ、ミス・エヴリン。君のおかげでだいたいの足取りが掴めてきたよ。ルビー・チューズデイは、たしかに泳いで脱出したんだ」
「彼女の潜伏先に心当たりはありますか?」
「一つある。イギリスだ。昨年、チューズデイはMI6の依頼を受けて、テロリストの暗殺に荷担していた。ミス・エヴリン、君も調査員として参加していた事件だよ。その際、彼女の現地での協力者だった女がいる。その女はMI6の職員だったが……現在は、行方不明になっている。デイジー・アンダーソンという女だ」
「怪しいですね。その女の詳しい情報は?」
「これから君の端末に送る。ミス・エヴリン、君にはこれからロンドンに向かってもらう。ジョーダン君も一緒にね。そこで再びチューズデイの捜索、および彼女を狙っていた謎の人物、そしてハウンドが狙っていた暗殺者、パク・ユイル。この三人を追ってもらう。いいな?」
「わかりました」
携帯を切り、エヴリンはため息をついた。
すぐに荷物をまとめなければ。相手は待ってくれない。エヴリンはマックブックを開くと、ロンドン・ヒースロー行きのチケットを取ることにした。