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血潮は在るが儘に  作者: 機乃 遙
血潮は在るが儘に《Let it Bleed》
3/13

 荷支度と言っても、大したものでは無かった。エヴリンが用意したのは着替えの入ったスーツケースと、放射能のハザードシンボルでリンゴを隠したマックブックのみ。それ以外の装備は、すべてMから与えられていた。

 アリサ・エヴリン国際刑事機構(インターポール)特別捜査官(エージェント)。それが今の彼女だ。生年月日と出身校その他はたいして変わらず、ただ国防ではなく司法の道に進んだということになっている。彼女にも馴染みやすい設定だった。

 エヴリンは、ハンドバッグにスーツケース一つという軽装でダレス国際空港へ向かった。装備その他は、現地でMが手配することになっていた。

 コンコースBから、エールフランス航空パリ・シャルル・ドゴール空港行き四〇一便へ。予約されていたのは、エアバスA320のビジネスクラス。およそ七時間半のフライトの予定だが、少なくともエコノミークラス症候群に悩まされる心配もない。またエヴリンの座席は窓側の一番奥。隣はアジア系のビジネスマンで、別段注意すべきこともなかった。

 そうして離陸体制に入ったとき、キャビンクルーがシートベルトの着用を促し始めた。エヴリンは言われたとおりベルトを締めると、すぐに目をつむった。離陸時、エコノミーの方から「うわぁ!」という声が聞こえてきたが、ビジネスクラスの客たちは慣れたものだった。エヴリンももうそのときには眠りに落ちかけていた。一昨日から徹夜で、ぜんぜん寝ていなかった。


 シャルル・ド・ゴール空港に降り立ったとき、パリはまだ朝だった。昨日のテロの気配はまだ濃厚で、空港内のモニターでもキャスターが声高に叫んでいた。死傷者、首謀者、そして被害者を弔う悲痛な声。それに応えるように、増員された武装警備員たちが目を光らせていた。

 入国審査も長い列ができていたが、しかしエヴリンがひとたび身分証を見せれば、それもすべてパスすることができた。Mの手配は、まず完璧といったところだ。

 それから彼女は空港前のロータリーでタクシーを拾い、ホテルへと急いだ。そこもすでにMが手配済みの場所。現地での彼女の行動は、ある意味ですべてMに支配されていると言っても過言では無かった。

 M。実体を見せない、謎の人物。

 エヴリンはまだ彼に疑念を抱いたままだったが、しかしそれで仕事に支障を来すほど無能ではなかった。

 空港から来るまで約一時間。朝の通勤ラッシュに巻き込まれながら、エヴリンは予約しておいたセーヌ川沿いのホテルに到着した。パリにしてはあまり洒落た雰囲気のホテルではなかったが、しかし通りに面しているため見晴らしはよく。また、事件現場や各省庁にも近いため、文句は言えなかった。

 部屋は三階の通り際、シングルルーム。ベッドルームとリビングが一体になった部屋を抜けると、通りにせり出したテラスもある。窓を開けると眼下にはヴォルテール通りが広がり、その先にはセーヌ川を挟んでカルーゼル広場があった。

 エヴリンは一通り室内をチェックすると、盗聴器やその他の器具が無いことを確認。一時間ほどかけて、ようやくトランクに手を着けた。

 着替えのスーツと下着はワードローブへ。そしてMが別便でよこしたジュラルミンケースは、ベッドの上にやった。ケースの中には連絡用の携帯端末と、護身用のシグ・ザウエルが隠されていた。

 時刻はまだ昼前だった。仕事にかかる時間はある。機内で眠り姫を演じていたおかげか、時差ボケも感じなかった。


 まず初めに彼女が向かったのは、死体安置所モルグだった。

 死体と接するときのひんやりとした感覚は、どの国であっても変わりはない。地下にもうけられたパリ市警のモルグは、ステンレスの棺に四壁を覆われた、死の空間だった。

 タイル張りの床を革靴で鳴らしながら、エヴリンは026と記された棺に向かい合った。

「それがそうです。マイケル・ベインズ。遺体はひどい有様ですよ」

 マイケル・ベインズとは、ハウンドが用いていた偽名である。アメリカ人渡航者で、金融関係者。仕事でパリに一ヶ月ほど滞在していた……という設定であった。

 エヴリンにそう声をかけたのは、ここまで案内をしてくれた刑事だった。チャコールのスーツを着崩した彼、フィリップ・ルベルは、胸ポケットにさしたジタンを気にしていた。むろん、ここは禁煙である。

「見ますか、特別捜査官殿」

「ええ、お願いします」

「では」

 ルベルは短く応えると、その026からベインズを引きずり出した。

 曇り一つないステンレスに、焼け焦げた男が一人。北京ダックのようにパリパリに焼けた皮膚は、彼の黒い肌と相まって、ほどよい香ばしさを感じさせた。しかし、焼死体であることに変わりはない。冷蔵されてはいるものの、人肉の鼻につくにおいはそのままだ。

「ひどいもんでしょう。彼は爆心地にもっとも近かった一人だ。遺体は原型をとどめていない……即死だったでしょうね。凶器となった爆弾や起爆装置も、みんな燃え尽きちまいました。周到なテロリストですよ」

「遺留品は?」

「それはこっちに」

 と、ルベルはもう一段下のひきだしを開けはなった。死体置き場より一回り小さめのそこには、彼の持ち物がこぢんまりと並べられていた。焼けただれたスマートフォンにブリーフケース。紙屑と化したユーロ札。マネークリップは熱で変形し、ただの針金になっていた。そして最後にフレームのねじ曲がったサングラスがぽつんと取り残されている。

「見ても?」

「どうぞ」

 エヴリンは軽く会釈してから、まず手袋をはめた。

 真っ先に手に取ったのは、スマートフォンだった。もっともデータはすでにフランス当局が解析済みのはず。それに外注とは言え、CIAに関わる傭兵がみすみすデータを残しているとも思えない。案の定、SIMカードはフリーのもの。本体も使い捨てだった。いつゴミ箱に捨ててもいいようなシロモノだ。

 では、あの映像はどこから撮影し、どうやって送信したというのか?

 エヴリンが真剣に死体と向き合っていると、そのうちルベルは呆れたようにモルグを出て行った。「鍵だけは頼むよ、特別捜査官殿」とだけ残して。胸ポケットを気にする彼は、一服しにいったのだった。


 それから墓場荒らしがはじまった。

 死体を検分することは、エヴリンの本職ではない。だが、プロファイリングは彼女の特技だ。

 持ち物、衣服、焼けただれた膚。確認していくと分かったのは、これがただの焼死体ではないということだ。

 皮膚は焼け焦げて、顔は確認できないぐらいに変形していた。まだ検死解剖も行われていない、焼死してたての凍結死体。産地直送の死体である。瞳は白く粟立ち、膚は蓮の花のように模様を描いていた。

 エヴリンは、そんな死体のこめかみに一つの穿孔(せんこう)を見つけた。変形しすぎているためよくわからないが、おそらくそれは弾痕だった。

 弾痕は、マイケル・ベインズ――もとい、ハウンドが意図的に殺されたことを表していた。彼こそが、このテロ事件の真の標的であったのだろ。であれば、爆破は暗殺の証拠をもみ消すための偽装工作か?

「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない……」

 エヴリンは思わず言葉を漏らした。

 事実、現在この事件は世界各国のニュースに取り上げられ、死傷者の数ばかりがテロップに踊っている。テロリストによる自爆テロだと考えられ、フランス当局は総力を挙げて犯人の捜索にかかっている。

 ……しかし、そうだとするとあまりにも大胆な偽装工作だ。ハウンドを殺したのは、ただの爆破テロではない。テロに乗じて殺したか、あるいはテロに見せかけて殺したか……。おそらく後者だろう。

 エヴリンは、彼の装身具も注意して確認した。あの映像と音声はどうやって送信されたのか。どこにオリジナル・データが残っているのか。その鍵は、彼の身につけていたモノにこそある。

 エヴリンが気になったのは、遺留品の一つ。金色のフレームをしたアヴィエーター・サングラスだった。一昔前の飛行機乗りがかけてそうなそれには、フレームの一部に異様な膨らみがあった。

 エヴリンは軽く触れて、すぐに異変に気がついた。カチリ、というクリック音。それからフレームの合間によりチップが一枚吐き出された。

「……これか」

 静かに独りごち、それから後ろを振り返った。ルベルはまだジタンを嗜んでいるようだった。


     *


 タクシーを呼びつけてホテルに戻ると、もう夕食の時間になっていた。エヴリンは機内食で朝食をとって以降、コーヒーしか飲んでいなかった。だが、焼死体を見た直後である。ルームサービスのメニューには目を通したが、カモのローストの写真を見ただけで食欲は失せていった。

 それよりも仕事である。

 小型のチップは、用意しておいたカードリーダーで読み込めた。部屋に戻るなり、彼女はマックブックを開いてデータを読み込んだ。だが、もちろん焼け付いたメガネからは、破損したデータが掘り起こされただけだった。

 ――これは、修復を依頼するしかないか。

 ラングレーに戻れば、自分の部下にそれができる人間がいる。いまは機材がないので、チップをアメリカまで送りつける必要があるだろう。

 ――明日、国際便で郵送できるか。Mに相談の後、検討しよう。


 それから死体のヴィジョンを忘れるため、彼女はバスタブにつかることにした。栓をひねって湯を注ぎ、じゅうぶんに貯まるまで洗面台の前で暇をつぶした。

 鏡に写る自分の顔は、ひどくやつれていた。栗色の髪は、毛先から黒くなり始めていた。頬はこけ落ち、目の下には窪みがある。疲れ切った顔だ。だが、大学にいたころよりはマシな顔つきだとエヴリンは思った。

 まだティーンエイジャーの終わり頃で、大学に入ったあのころ。彼女の顔にはうっすらとそばかすがあり、髪はボサボサで黒かった。母に買ってもらったメガネは何年も前の流行の品で、ただでさえ田舎娘だった彼女をよりいっそう芋っぽくさせた。

 そんな自分が、いまはCIAとしてパリまで来ている。

 ――あなたはここまで来たんでしょう、アリサ。

 ドボドボと音を立てて貯まる水。それにあわせて自己啓発の言葉をひとりごちた時、突然インターホンが鳴り響いた。

 ジーッ! ジーッ! と虫の音のようなドアベルが鳴り響き、それから続けて男の声も聞こえてきた。

「ルームサービスです」

 と、どこかぎこちないフランス語が聞こえた。

 ――そんなものは頼んでない。

 エヴリンはすぐに肩から吊っていたシグP320コンパクトを抜いた。

 構えたまま、忍び足でドアへ。徐々に顔をのぞき窓に近づける。

「頼んでないんですが」

「おかしいですね。三三〇一号室のエヴリンさんですよね?」

「そうですが……」

 トリガーに指をかける。

 その直後だった。カード式の錠前が小さく電子音を鳴らしたかと思うと、ランプを青くさせてロックを解除。そしてその瞬間、一人の男が流れ込んできた。男はHK45CTを構えていた。左腕は銃を持つ右手を支えつつも、肘でドアを押し破っていた。

 二人は一瞬、銃口を交わしあうことになった。だが、まもなく男の方から銃をおろした。そして彼は両手を上にあげた。

「待て、敵じゃない。味方だ。いちおう確認のためにやったまでさ。……聞いているだろう? Mが寄越した戦闘要員だ」

「所属と名前、認識番号を」

「ロバート・ジョーダン。J・Dセキュリティ・サービスィズ。IDは、AH8934103Tだ」

 シグを構えたまま、エヴリンは左手でスマートフォンを操作。データを照会。結果、間違ってはいなかった。ロバート・ジョーダンという名前と、彼の顔写真。白髪交じりの短髪と、ごましおのヒゲ。垂れた目は、しかし兵士の鋭い瞳をしていた。

「確認できたか?」

「ええ。J・Dセキュリティ。元軍人をかき集めた、民間軍事会社(PMC)のようですね」

「そうだ。あんたたち(CIA)の仕事も何度も請け負っている。……もう銃をおろしてくれないか」

「そうですね」

 シグをおろし、セーフティをかける。ショルダーホルスターに戻すと、ようやく緊張は解けた。」


 ジョーダンと名乗った彼は、真っ先にカーテンを締めてから、ソファーに腰を下ろした。彼の態度を見てエヴリンが思ったのは、まず失礼な男ということだった。

「とりあえず、俺からアンタに伝えることが何点かある」ジーンズを履いた足を組んで、彼はエヴリンに言った。「ところで、何か飲み物は?」

 エヴリンはため息をもらしてから、冷蔵庫より水のペットボトルを一つ取り出した。

「ありがとう。で、まず一点目だが。アンタには早急に首謀者である女――ルビー・チューズデイを見つけてもらう必要がある。急いでほしい」

「可能な限り急いでいます」

「それはこちらもわかっている。それからだ。Mへの報告だが、基本は俺を通してほしい。Mの方から接触があったときは構わないが、おまえから連絡したいときは俺を通せ。CIAへの連絡もすべてだ。どんな細かな連絡でも、俺を介さないで本部と自主的にコンタクトすることは許されない。いいか?」

「なぜです?」

「機密保持のためだ。おまえは必要以上に知らなくていい。俺のプリペイド携帯の番号を教えておく。連絡先が変更になった場合、俺からアンタへ何かしらの方法で教える。……わかったか」

「わかりました。……どうしても、なんですね」

「どうしてもだ。で、早速だが捜査官殿、何か見つかったか?」

「ええ、まあ」

 捜査官殿、とは皮肉たっぷりの呼び方である。

 エヴリンは彼の態度が鼻についたが、しかし上層部の命令であるというなら仕方ない。彼女は入手したメモリチップをジョーダンに手渡した。

「ハウンドのサングラスから取り出したものです。彼のサングラスには、小型のカメラとマイクが装備されていました。送信されていた映像は、そこからBluetoothでスマートフォンを介して、暗号回線で送られたものだと思われます。そして、おそらくこのメモリがオリジナルデータです。破損していますが、本部でなら修復できると思います」

「わかった。俺の方からMに頼んで運んでもらう。調査結果は、追って俺から連絡しよう」

「わかりました」

「これですぐに犯人の顔が割れればいいが、そうはならんだろうな」

「そうでしょうね。……それからハウンドの遺体には、弾痕がありました。おそらく、犯人はハウンドを射殺したうえで、爆破テロに見せかけたものだと考えられます」

「爆破に見せかけた? どうしてそんなことを?」

「わかりません。これから調べます」

 そう言うと、ジョーダンは渋い顔をした。

「わかった。メモリはMに渡しておく。アンタは引き続き捜査を続けてくれ」

 ペットボトルを飲み干し、ゴミ箱に投げる。

 彼はメモリを上着のポケットに隠すと、部屋を出ていった。


     *


 翌朝、エヴリンはホテル一階の食堂で朝食をとってから、再び仕事へ出かけた。さすがにパリのエスプレッソは悪くない味だと、彼女にもよくわかった。

 パリ警視庁庁舎のあるオルフェーヴル河岸三六番地は、ホテルから歩いていける距離だった。朝、彼女は出勤する車の流れに合わせて庁舎に向かった。

 その日のエヴリンの目的は、まず第一に引き上げられた車の確認である。表向きインターポール特別捜査官の権限を与えられた彼女は、被害者である在外米国人の捜査という名目でそれができた。

 しかし、もちろんパリ市警からしてみれば、外部の人間が捜査に口出ししてくるのは、よろこばしいことではない。さらに言えば、現在フランス国家警察は総力を挙げてテロリストを捜索中だ。アメリカからやってきた捜査官一人に、捜査態勢をかき乱されるのは、ハッキリ言って邪魔以外の他ならない。

 だが、それでもエヴリンは仕事を続ければならない。


 容疑者の残したクルマが見たい。

 そう言ってエヴリンが通されたのは、パリ市警の鑑識課だった。

 それまでに彼女は、刑事部(BC)のオフィスをたらい回しにされ、ようやく昼前に鑑識にたどり着いた。余所者に対する、フランス人なりの嫌がらせだとエヴリンは思った。

 そうしてたどり着いた鑑識課は、まるで倉庫のような様相だった。コンクリートの床に、ボンネットのひしゃげたミニが置かれていた。そしてそれに群がるようにして、白衣や制服姿の鑑識官が動き回っている。

すみません(エクスキューゼ・モア)、インターポールのアリサ・エヴリンです。刑事部のルベル警部の紹介で来たのですが……」

 すると、一人の鑑識官が振り向いた。他は無愛想にも聞こえないフリを続けている。

 その人物――彼は、つい先ほどまで手にしていた綿棒をサイドテーブルにやって、ゴーグルとマスクも外した。見かけは三十代前半ぐらい、少々恰幅のいい好青年という風貌をしていた。

「あなたが特別捜査官ですね。話は聞いています。エリック・ダヤンです」

 ダヤンは白いゴム手袋を外すと、握手を求めた。エヴリンはそれに応じた。

「アリサ・エヴリンです。……さっそくですが、そちらのクルマを見させてもらえますか?」

「かまいませんが……」

 と、ダヤンは言葉を濁す。

 すると先ほどまで忙しく動き回っていた鑑識官たちが、一斉に手を止めた。時計の針は十二を回っている。昼休憩というところだった。

「ランチと一緒でもいいですか?」

 そう尋ねるダヤンに、エヴリンは静かに微笑み返した。


 ダヤンにつれられ、エヴリンは彼のデスクに入った。ダヤンのデスクは非常に雑多で、試薬の瓶やら保管物が整然と並ぶ鑑識課では、ある種の異彩を放っていた。積み上げられた書類の塔は、彼がデジタル派ではないことを示しているようだった。

 ダヤンはデスクトップを立ち上げながら、大きめのナップザックからランチボックスを取り出した。そして握り拳大はあろう厚さのサンドイッチにかぶりつきつつ、マウスに手を乗せた。

「すみませんね、鑑識ってみんな無愛想なんですよ。一日中ああやって証拠品と向き合ってるような職業ですから。刑事さんと違って、話術とかいらないんで」

「いえ、私の仕事もそんなものですよ」

 間違ってはいない。もともとエヴリンは、CIA情報部であるのだから。

 ダヤンは、ああでもないこうでもないとファイルを開けたり閉じたりした。どうにも彼のデスクトップは、デスク同様片づいてないらしい。

 しばらくして、ようやくお目当てのファイルを捜し当てた。

「ああ、これです。これ」

 と、動画ファイルをダブルクリック。メディアプレイヤーが展開し、映像を映しだした。ダヤンはすぐにフルスクリーン表示に変更する。映さたのは、一昨日のセーヌ川の様子だった。

 水面から洪水のように水を溢れさせながら、クレーンに引き上げられるクルマ。ミニ・クーパーは、その赤い車体をベコベコにへこませ、シャーシは完全にガタツいていた。

「ミニは、ガードレールを突き破り、セーヌ川へと転落しました。その一時間後、ダイバーが到着。船のウィンチで引き上げたのち、小型クレーンで陸上まで運びました。しかしその一時間の間に、ドライバーとおぼしき人物は消失。その後丸一日かけてダイバーが捜索しましたが、何も見つかりませんでした。見つかったのは、川底のゴミとミニの破片だけです」

 と、今度は彼は違うフォルダをクリック。何十枚という画像ファイルをドラッグして一気に開いた。

「これが、引き揚げられた直後のミニの様子です。すぐにウチに回されて、すみからすみまで調査してみました」

「で、結果は?」

「まったく。なにも出ませんでした。持ち主は、イレーヌ・カントン、六十七歳。一人暮らしの老婦人です。三年前まで夫のダニエル・カントン氏と暮らしていたようですが、ガンで亡くなりったそうです。それでいま彼女は一人暮らし。病院と家の行き来ばかりの生活という話です。……ミニに乗って逃亡した人物を目撃したっていう巡査が言うには、犯人は老婆のようだったと言いますが……。マダム・カントンは、そのとき市内の総合病院の待合室にいたので、犯行は無理でしょう。なにより、六十七歳の老婆にこれだけのテロ事件を起こせるはずがありません」

「たしかに、そうですね」

 エヴリンは相づちを打ち、同調した風を装った。ダヤンは、その老婆の正体が傭兵だとは、知るはずもない。

「実物もご覧になりますよね? といっても、ほとんど我々のほうで調べたんで、資料を見ていただければいいと思うんですが……大したモノは出てきませんでしたよ」

「かまいません。見させていただきます」


 ダヤンは何も見つからなかったと言ったが、まったくその通りだった。

 鑑識官たちが昼休憩の間、エヴリンは引き揚げられたミニをスミからスミまでなめ回すように確認した。しかしあったのは、ベコベコにへこんだクルマだけ。指紋などは水に洗い流され、血痕や凶器のたぐいも見つからず。残されたのは、ただの屑鉄だけだった。

 イギリスの大衆向けクルマ番組でトヨタのピックアップトラックを破壊するという企画があったが、いまのミニはまさにそんな状態だった。死んだ自動車が、ジャッキに持ち上げられて醜態をさらしている。そのほかには、何もない。

 そうして昼休憩が終わると、エヴリンも鑑識課を出て行かざるを得なくなった。ここでは、たとえインターポールという肩書きを持っていても、彼女は余所者である。結局、彼女はダヤンに連絡先を教え、何かあったら教えてほしいとだけ言い残し、鑑識課をあとにした。


     *


 SIMフリーのスマートフォンに非通知で連絡が入ったのは、タクシーの中でのことだった。遅めの昼食にサンドイッチを頬張りながら、タクシーを捕まえ、エヴリンは三つ目のチェックポイントへと急いでいるところだった。ミニが落ちた現場である。

「わたしだ」

 そう言って電話に出たのは、ボイスチェンジャーによってねじ曲げられた声。今回の作戦を指揮している人物、Mだった。

 二日ぶりに聞いたその奇妙な声に、エヴリンは一瞬だけ身じろぎした。

「どうやらジョーダン君とは合流できたようだね。彼を通じてチップは受け取った。わたしの部下に解析をさせているところだ」

「何かわかりそうですか?」

「まだ何とも言えない。できる限り復旧させてみるつもりだがね。とりあえず……そうか、フランスはいま夕方か。では、明日の朝にまた連絡する」

「お願いします」

 通話を切る。

 そうしたところで、タクシー運転手が色っぽい声色で到着を知らせた。見かけ二十代らしいドライバーは、エヴリンを食事に誘いたがっていたが、もちろんそんな暇はない。

「ありがとう」

 と、彼女はそれだけ言葉を残すと、料金をやや上乗せして車を出た。


 ミニが沈没したのは、テュイルリー庭園を抜け、さらにコンコルド広場を抜けた先。ちょうど国会議事堂へと続くコンコルド橋の中腹あたりだった。

 ミニは、橋の中央で警察車両に包囲され、完全に退路を失った。そしてその状況で、最後の手段に出た。セーヌ川へと飛び込んだのである。

 エヴリンは、川辺からその現場を見ていた。先ほどスターバックスで買ってきたラテを片手に。タンブラーからは、まだほのかに湯気が立っている。

 川面は非常に静かだった。波打つような荒々しさはなく、鼠色の水面がどこまでも続いている。ときおり遊覧船が現れ、観光客が手を振った。エヴリンは軽くそれに応えつつ、あたりの捜索を始めた。

 警察の捜査は、まだ引き続き行われているところだった。コンコルド橋の真下にはテープが張り巡らされ、一般人が進入禁止だと書かれている。

 しかし、そこもほとんど調べがついているといって良かった。調書によれば、川からあがったのは変形したミニが一台。その破片が全十八点。あとは何も見つからなかった。指紋も、目撃者も、なにもかも。

 ただ一つの証言は、老婆がミニを奪っていったという情報だけ。そしてその老婆は、およそ三十分近いカーチェイスを繰り広げ、忽然と姿を消した……。そんな馬鹿げたイリュージョンがありえるだろうか?

 ――しかし、実際に起きている。

 エヴリンは頭のなかで事件の状況を思い起こしながら、同時にMから与えられた情報を照らし合わせていた。

 爆破テロによって、CIAの資産アセットが殺害された。

 死体には、弾痕が残されていた。

 犯人は、ルビー・チューズデイという顔のわからない凄腕の傭兵である。

 そしてその女は、忽然とパリから姿を消した……。

 ラテを飲みながら、ゆっくりとエヴリンは川を下り始めた。女はどこへ消えた? なぜ弾痕が残されていた? 殺されたハウンドが追っていたというパク・ユイルはどこへ行ったというのだ?

 夕焼けの燃ゆるパリを見つめながら、エヴリンは考えをまとめていった。自分なら、追いつめられた状況でどうやって逃げる? どうやって行方を眩ませる。

 真っ先に思いついたのは、泳いでいくことだった。川へと飛び込み、それから泳いで脱出する。水中ならば銃弾の威力も大幅に減衰するから、悪い選択ではない。しかし問題は、事件当時、パリ市警の水上警備艇が出ていたということだ。泳いで逃げようものなら、すぐにボートに見つかったはずだ。潜水すれば別かもしれないが、常人がそう何十分も潜っていられるはずがない。

 では、どうやって姿を消したというのか。

 思考が壁にぶち当たったところで、彼女の目の前にも壁が現れた。橋下にある土手道で、フェンスが張られているところだった。

「いてっ」

 思いがけず、彼女は額を思い切りフェンスにぶつけた。らしくないと思ったが、前方不注意は自分のミスだった。

 ……と、そのとき彼女はフェンスの向こうに目がいった。そこにあったのは、川岸に停泊した四台のジェットスキー。黒いものが二台と、赤と青が一台ずつ。

 ――待て。

 考えが頭によぎる。

 ――もし、犯人が初めからセーヌ川から逃げることを想定していたとしたら? すべて計算ずくのことだったとしたら?


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