私
自分の価値は、自分で決めるもの。
誰かが、言っていたけど、それは私の理論からは外れている。
「自分の価値」というから、そういう結論に至る。分からないではないが、「価値」と言うもの自体、他者がつけるものだろう。
私の大嫌いなバナナは、私にとって価値はなく、大好きな子供にとっては、この上ないスイーツだ。
でも、バナナは自分に値段は付けられない。
「女」も同じ。
「人」も同じ。
自分がいくら「有能ですよ」と口説いても、入りたい会社の人事部が「価値」を付ける。「好きな気持ちはだれにも負けない」そう言っても、大好きなあの人が「価値」を見出す。価値を付ける。
そして、「価値」を付けてもらえなかった自分に、自分はどんな「価値」が見いだせるのだろう?
私は、物心ついた時、既に自分が腐っているという「価値」を付けていた。
なぜ、と問われても、腐っていたからとしか言いようがない。
自分の中身は、生臭く、下水、腐臭漂うヘドロだと、何の疑問もない。自分の肉体が心臓で生かされている理由と同じように、私の血肉は腐っていると知っている。
確信を持っていた。
だから、初めて、仲良くなりたいと思った人に握手を求められた時、驚き、彼女を汚す恐ろしさで手を引いた。
彼女は、傷ついた顔をしていた。
すぐに、言い訳をしたかったけれど、授業が始まってしまって、私は、その傷つけた手に背を向けるしかなかった。
人に好かれた、人と同調出来たこんな嬉しい事は無かったのに、汚物の私が彼女を傷付けてしまった。
授業が終わった後の彼女は、何も無かったかのように明るく私に接してくれた。だから、私は何も言わなかった。
ごめんも、言い訳も。
ほぼ、彼女との付き合いは、一年間で終わってしまった。
人生でなかなか味わう事の出来ない幸せな青い味だった。
健やかに美しい彼女を、私は汚さなかった。
それが、私の「汚物としての自負」だ。そして、彼女に出会う事で、少し価値あるヘドロになれた気がしていた。