第八章 二人の未来①
「………ふゥ……」
ミランシャとは別の控室で。
シェーラ=フォクスは、大きく息を吐き出した。
吐息には、熱気が籠っていた。
いや、息だけではない。全身が熱かった。
恐らく、体温は今、かなり上がっているはずだ。
「…………」
シェーラは、自分の首筋に手を当てた。
プシュッ、と小さな音が零れる。と、首から腹部まで操手衣の中心が裂けた。
彼女の胸元から腹部までの白い肌が露出する。
肌には、玉のような汗が張り付いていた。
シェーラは再び息を吐き出した。
空気に触れて少し楽になるが、体内に籠る熱はなかなか抜けてくれない。
シェーラは眉をしかめた。
(これが《焦熱》の副作用でありますか)
――《焦熱》。
これこそが、シェーラが師より授かった切り札だった。
これは薬物や《黄道法》の闘技ではない。
実のところ、この国でも極一部の者なら知っている現象だった。
鎧機兵の動力である恒力。
生活にも使用されるそれは、実は特殊な性質も持っていた。
元々は万物の素である星霊から変換したエネルギーのため、生物にも影響を与えることが出来るのだ。長期間に渡って、意図的に高濃度の恒力を体内に注ぐことで、反応速度や身体能力を大幅に上昇させることが出来るのである。その状態を《焦熱》と呼ぶのだ。
そして一度でも《焦熱》状態になれば、以降、わずかでも恒力を体内に注げばいつでもその状態になれる。一見すると、切り札にもなる状態だ。
しかし、《焦熱》には大きな欠陥もあるのだ。
その一つが発熱だった。代謝機能も跳ね上がるための弊害である。
だが、これはまだ初期症状。
これが重度になると、
(……う)
シェーラは、少しクラっとした。
発熱に加えて、眩暈、最終的には酩酊状態になる。
《焦熱》が使えるのは、個人差はあるが、長くて五分ほど。それ以降は、まともに立つことも困難になるのである。本当に短時間しか使用できない力だった。
しかも、一度、《焦熱》状態に陥った者は、体内に恒力を取り込みやすい体質になってしまい、意図的に使用しなくても、ただ、鎧機兵を動かし続けているだけで、三十分もしない内に、軽度の酩酊状態になってしまうのである。
また、酩酊しやすくなるためか、アルコール類にも著しく弱くなる特徴があった。
結果的に言えば、五分間だけは異様に強くなれるが、鎧機兵に乗れる連続時間が三十分までに限られ、酒の類も呑めなくなる体質になる訳だ。
はっきり言ってしまえば、メリットよりも、デメリットの方が多いのである。
若い傭兵などは手っ取り早く強くなれる《焦熱》に興味を抱くものだが、長い目で見れば厄介な体質になるだけなので、使用することを注意されるのである。
「………ふゥ……」
シェーラは、再び吐息を零した。
汗が一向に止まらない。体がずっと火照っていた。
「……熱い……」
汗と共に、熱の籠った声が零れ落ちる。
体調は最悪だった。
けれど、幸いにも、決勝戦にはまだ一時間ある。
準決勝で消耗した体力や、機体のメンテナンスのために用意された時間だ。
これだけあれば、どうにか復調できる。
(あと一度だけ)
シェーラは、グッと拳を固めた。
(あと一度だけ持って欲しいのであります。私の体)
愛しい人の腕の中まであと一歩。
体内に籠る熱以上に、シェーラは闘志を燃やしていた。
「アラン叔父さま……」
火照った胸元に手をやり、彼女は小さく呟く。
「シェーラは、必ず勝ちますから」
◆
「さて、と」
煉瓦造りの廊下をコツコツと歩きながら、アッシュが呟く。
天井の方を見上げてみた。騒がしい声が微かに届くが、大歓声まではない。
まだ、決勝戦は始まっていないようだ。
「決勝まで、あと十分ぐらいか」
少しだけ、ミランシャのところに長居してしまった。
アッシュは、ミランシャと別れた後、観客席に向かって歩いていた。
ミランシャは、選手たちの控室で決勝戦を見届けるそうだ。
「まあ、流石に誰が勝つのかは見届けないとね」
そう言って、ミランシャは笑っていた。
もう落ち込んでいる様子はない。
アッシュは安心して、観客席に戻ることにしたのだ。
そうして、一人歩いているのである。
(決勝は、メットさんとフォクス選手か)
アッシュは微かに笑みを零す。
今回の大会。あれだけの強者の中でよくぞ勝ち抜いたものだ。
(頑張ったな。サーシャ)
弟子の活躍は、やはり嬉しいものだった。
もし、決勝戦であの子が負けたとしても、願い事は何でも聞いてあげよう。
アッシュは、そう考えていた。
(まあ、ここまで来たら勝って欲しいところだが……)
アッシュは双眸を細める。
フォクス選手は、恐らく《焦熱》にかかっている。
長期的な目で見れば、デメリットの多い欠陥付きの力ではあるが、今回のような短期決戦の試合なら脅威ともいえる力だ。
決勝戦。きっと、フォクス選手は最初から全開で来るだろう。
サーシャにとっては苦しい戦いになるはずだ。
せめて師として、応援をしてやりたい。
「ちょいと急ぐか」
アッシュは足を速めた。そして廊下を曲がった時だった。
「おっ?」
「――と」
バタリ、と。
とある人物と出会うことになった。
それは、普段の服に着替え終えたレナだった。
「おお~、アッシュか」
「おう。レナか」
ニカっと笑うレナに、アッシュもつられるように笑った。
まさか、こんな場所でレナと出会うとは。
「お前は選手控室で見ないのか?」
アッシュがそう尋ねると、
「おう。決勝は直に見たいしな。観客席に行くつもりなんだ」
と、レナは言う。
後頭部に両手を置いて笑う彼女は、実にさっぱりしたものだ。
彼女も敗退したのだが、ミランシャとは違って実に打たれ強い。
敗北も受け入れる。しなやかな強さを持つ人間だった。
(こいつも変わんねえな)
アッシュは、懐かしい気分になった。
故郷で初めて出会った時から、彼女は強い人間だった。
それは、八年経った今でも変わらないようだ。
――いや、あの日以上に強くなったのかもしれない。
「アッシュも観客席に行くのか?」
レナは覗き込むようにアッシュの顔を見つめた。
アッシュは「おう」と答える。
「そっか。じゃあ一緒に行こうぜ」
「ああ、いいぜ……って、おい。レナ」
アッシュが頷くと同時に、レナがアッシュの腕に両手を絡めてきた。
豊かな胸を、これでもかとばかりに押しつけて、さらに頬まで寄せてくる。
「いや、お前、何してんだ?」
サクヤやオトハにも劣らないその弾力に、思わずアッシュも頬を強張らせる。
すると、レナはキョトンとした顔を見せて。
「え? だって、オレはもうアッシュの女だろ?」
「は? いや、ちょっと待て。お前、何言ってんだ?」
アッシュが眉をしかめた。
「お前、サーシャに負けたじゃねえか。決闘はご破算だろ」
「何言ってんだよ。アッシュこそ」
レナは、アッシュの腕に両手を絡めたまま言う。
「アッシュも元傭兵なら分かるだろ。決闘の約定は絶対だぜ。一度受けたのなら、ご破算なんてありねえよ。そんで」
レナはニカっと笑った。
「最初に言っただろ。オレが賭けるものはオレ自身だって。オレが負けたら、オレを好きにしてもいいぜって言っただろ?」
「……………は?」
アッシュは、目を瞬かせた。
「い、いや、勝ったのはサーシャだろ? オレが勝った訳じゃ……」
「あはは、何言ってんだよ。サーシャはアッシュの代理だったんだろ? なら、アッシュが勝ったってことじゃねえか」
と、レナは大きな胸を張って宣う。
「決闘はアッシュの勝ち。だからオレはアッシュのもの。オレは、晴れてアッシュの女になった訳だ」
「い、いや、お前……」
アッシュは唖然とした。
まさか、こんなことを言い出すとは……。
「ちょ、ちょっと待てよ! お前、傭兵稼業はどうすんだ! 仲間もいるんだろ!」
「おう。それな」
レナは、首を傾げて目を細めた。
どこか妖艶なその表情に、アッシュは少し息を呑む。
「もちろん、傭兵稼業を諦めた訳じゃねえよ。アッシュを説得するつもりさ」
言って、アッシュの正面に移動すると、首に両手を回してきた。
「……なあ、アッシュ」
顔を上げて、彼女は微笑む。
「決闘の勝者はアッシュだ。オレは負けたから三人目の座なんて望まねえし、望む権利もねえ。けど、敗者ってことも重要なんだ。なあ、アッシュ」
一呼吸を入れて。
「オレは傭兵稼業を諦めてない」
レナは、じいっとアッシュを見つめた。
「だからさ、オレが敗者だってことを分からせてくれよ。負けたくせにまだ傭兵稼業を諦めてねえオレに、オレはもうアッシュのものなんだってことを教えてくれ。オレの心に、オレの体に、アッシュの女である証を刻みつけてくれ」
そんなことを告げてくる。アッシュは言葉もなかった。
レナは再び微笑んだ。
「じゃねえと、オレは傭兵を諦めきれねえんだよ。まあ、逆に言うと、その時こそがオレが逆転する最後の機会でもあるんだろうけどな」
「……お前なぁ」
アッシュは、ポンとレナの頭に片手を置いて嘆息した。
本当に。
本当に、レナは強い。
正直、その強かさに感服しそうになった。
「……お前ってすげえよな。ちょっと感心したぞ」
アッシュはふっと笑って、くしゃりとレナの前髪を撫でた。
「だけどな、レナ。一つ言わせてもらうぞ。お前、自分のことを雑に見すぎだ」
アッシュは、双眸を細めて告げる。
「自分で気付いてねえのか? お前、さっきから震えてんぞ」
「………え」
アッシュの指摘に、レナはキョトンとした。
そして気付く。自分の腕が少し震えていることに。
「え? な、なんで?」
緋色の瞳を瞬かせて、困惑した。
「いや、あのな」
アッシュは、小さく嘆息した。
「初めて男に抱かれるんだ。怖くねえ女なんている訳ねえだろ」
「え、い、いや、だって……」
レナは、さらに困惑した顔で呟く。
「オレって、貧民街出身で、しかも娼婦の娘なんだぞ。育ちだって悪いし、お上品さなんて欠片もねえし、普通の女なんかじゃあ……」
「……おいおい、なに言ってんだよ」
アッシュは、再びレナの前髪を撫でた。
「こんなにもよく笑って。些細なことでも喜んで。知らないことを怖がって。どこから見ても普通の女だろ?」
「え?」レナは驚いた顔であごを上げた。
「け、けど、オレは、サクみたいに女らしくなくて……」
「そこは、人それぞれだろ」
アッシュは苦笑を浮かべた。
そして少し考えてから、レナのうなじに右手を。左腕で腰を抱き寄せた。
両足が宙に浮き、レナが「え!? え!?」と動揺する。
「悪りい。違うな。間違えた。お前が普通の女だってのは間違いだ」
アッシュは、互いの額がぶつかりそうなぐらい顔を近づけて言った。
「お前は、普通程度の女なんかじゃねえよ。最高に良い女だ。それこそ、サクやオトにだって劣らねえぐらいにな」
「え?」
レナが目を見開く。対し、アッシュは瞳を細めた。
「なあ、レナ」
彼女を腕に納めて、アッシュは淡々とした口調で尋ねる。
「本当に約定を果たしてもいいんだな?」
「ッ!?」
レナは、言葉もなく体を震わせた。
アッシュはそんなレナを強く抱き寄せて、耳元で囁いた。
「本当にいいんなら、今夜にでもお前の全部を奪っちまうからな」
「ッ!? ~~~ッッ!?」
レナの顔がみるみる真っ赤になる。
彼女の熱気が、アッシュの頬にまで届きそうだ。
アッシュは、内心では色々な方面に対して申し訳ない気分になりつつ、
「やっぱ嫌だよな? 怖いだろ? それが当然の感情なんだ。けど、俺も元傭兵だし、お前の約定は絶対だっていう理屈もよく分かる。ならよ、一か月ぐらい工房でタダ働きをするってのはどうだ? それで全部チャラに……」
と、妥協案を告げようとするが、
「――か、構わねえ!」
突如、レナが真っ赤な顔で叫んだ。
「構わねえよ! アッシュが望むなら今夜すぐにでもだ! けど、オレはまだ諦めてねえからな! 絶対にアッシュを説得する! アッシュをオレに夢中にさせるんだ!」
「……いやお前。この状況でなお吠えるのか……」
どうにか約定を諦めさせようと思ったのに、レナは自分を曲げない。
本当に意志の強い娘だった。
「け、けど……」
しかし、勢いよく叫んだと思いきや、レナは急にしぼむように告げる。
「確かに、アッシュの言う通りだった。オレ、初めてでもオレなら大丈夫だって、疑うこともなく思ってた。けど、やっぱり強がっていたんだ。心のどこかで、オレは自分の生い立ちを、自分自身で馬鹿にしてたんだと思う」
一呼吸入れて、
「その……やっぱ、オレも女だったんだな。威勢のいいことを言ったけどさ、初めては、その、今夜は……お手柔らかに……お願い、します」
そんなことを言い出し始めた。
次いで、レナはアッシュの背中に手を回し、自分から豊かな胸を押し付けてくる。
両足が浮いている彼女は、すべてをアッシュに委ねて上目遣いで見つめた。
「……今夜だけは、全部、全部アッシュに任せるから。だから……優しく、お願い、します。アッシュの説得は二回目以降、少し慣れて心に余裕が出来てからにする」
「い、いや、あのな……」
レナの台詞……その覚悟に、今度はアッシュの方が言葉を詰まらせた。
レナを腕に抱いたまま、本当に困ってしまった。
完全に読み間違えてしまった。彼女の想いと、覚悟のほどを侮っていた。
引いてダメなら押してみる。
あえて強気に出ることで、レナに妥協案を呑ませようとした作戦は、完全に裏目に出てしまったようだ。
(マジで、どうすりゃあいいんだよ)
アッシュは、何とも言えない顔をした。
レナが本気なのは、アッシュでも流石に理解できる。
それだけに対処に困ってしまう。
どうもオトハと結ばれた以降から、本気の告白ばかりされている気がする。
(これが人生に、何回かあるっていうモテ期って奴なのか?)
そんなことまで考えてしまう。
腕の中のレナは、じいっと上目遣いでアッシュを見つめたままだった。
正直に言えば、レナの好意は嬉しい。
彼女の笑顔は、周りを元気にしてくれる。
それに、レナと一緒にいると、昔の頃をよく思い出すのだ。
――そう。クライン村に居たあの頃を。
全く変わらない彼女に、ある意味、サクヤやコウタ以上に強い郷愁を抱くのである。
そこまで強い想いを抱くのは、彼女の外には誰もいない。
レナもまた、自分にとっては、掛け替えのない存在なのだろう。
(だからこそ、マズいんだよな)
アッシュは、小さく嘆息する。
友人であるミランシャ相手でさえ、強い自制心が必要だったのだ。
同じく大切に思うレナに、しかも、こんなにも魅力的なレナに、こうも直球的な愛情をぶつけられて、果たして、自分は自制できるのだろうか……。
誰かを大切に想うことは断じて悪いことではない。
人としての当然の感情だ。
しかし、自分にとって、それは非常にマズいのだ。特に女性に関しては。
――失いたくない、二度と奪われたくないと思ってしまう。
そして一度でもそう思ってしまうと、
「……アッシュ?」
不安そうな眼差しを見せるレナに、アッシュは「う……」と唸ってしまう。
(……これも難問だなぁ)
未だ解決案が出ないユーリィの件に加えて、さらに難題を抱えてしまったようだ。
だが、それも後で考えるしかない。
(まあ、今はどうもマズい状況にもなってるみてえだしな)
アッシュは、レナを一度その場に下ろした。
「……とりあえず、この話は後でだな」
「……え? 何で……」と言いかけたところで、レナは表情を険しくした。
いつも陽気なその顔に、緊迫した感情が浮かんでいる。
アッシュは双眸を細めて、レナの頭をポンと叩いた。
「お前は本当に強くなったよな。すぐに気付いたか」
「……おう。流石にな」
アッシュの言葉に、レナも頷く。
色々と問題は残ってしまったが、この話は一旦ここまでだった。
「……さて」
アッシュは、おもむろに後ろに首を傾けた。
「で。あんたは、いつまでそこで立ち見しているつもりだ?」
そこには一人の男がいた。
黒い服を着込んだ三十代後半ほどの男だ。
黒髪に黒い瞳。額の裂傷が印象的な、まるで刃のような鋭い気配を持つ人物。
「……いやなに」
完全に気配を消していた、その傷の男は口を開いた。
「どうやら込み合っているようだったからな。頃合いをみていたのだ」
「……ふ~ん。そっか」
アッシュは、ゆっくりと体も振り返る。
その隣に、緊張した面持ちのレナが並んだ。彼女の手は腰の短剣に触れていた。
「そんで黒服さんよ」
レナを手で制しつつ、アッシュは尋ねた。
「あんたはどこの誰だよ? 何者なんだ?」
「ふむ。そうだな」
男は双眸を細めた。
「吾輩はただの使いであるが、名乗らないのも失礼に当たるな」
そう言って、男は自分の名を告げた。
「お初にお目にかかる。《双金葬守》よ。吾輩の名は、ラゴウ=ホオヅキ。《金妖星》ラゴウ=ホオヅキである」




