第五章 双金、出会う③
その日の夜。
クライン工房の二階。ユーリィの部屋にて。
ユーリィは、クマのぬいぐるみを抱えてベッドの上に座っていた。
他にも複数のぬいぐるみがベッドの上に鎮座している愛らしい部屋である。
この国に来た頃は、このクマのぬいぐるみ一つしかなかったのだが、今はアッシュが買ってくれたものに、埋め尽くされている。
ユーリィ自身は、そこまでぬいぐるみに興味はないのだが、この部屋はアッシュの愛情に包まれているようで好きだった。
「………」
三角座りしている彼女は、ポスンとクマのぬいぐるみに顔を埋めた。
脳裏に浮かぶのは、彼女のことだ。
(サクヤ=コノハナ)
かつてのアッシュの恋人であり、婚約者だった女性。
死んだはずの女性。
彼女が、生きていた。
けれど、アッシュには、まだそのことは伝えていない。
まず、伝えるには、あまりにも事が大きすぎる。
そして二つの事件が重なったことが、理由として大きかった。
一つは言うまでもなく、ボルド=グレッグとの遭遇だ。
そしてもう一つは、リノという少女の件だった。
サクヤ達と別れ、コウタと九号と共にクライン工房へと戻ってきたユーリィだったが、その時、別の訪問者がいたのだ。
サーシャとアリシア。そして、二人に同行していたリノという少女だった。
彼女の傍らには、初めて見る蒼いゴーレムもいた。
応対するのは、アッシュと、少し険しい顔をしたシャルロット。
彼らは、茶の間の卓袱台を囲んで座っていた。
『――おお! コウタよ!』
茶の間に座っていたリノという少女は、コウタを見つけるなり、ぱあっと花咲くように笑った。実に華やかな笑顔である。
対照的に、一気に青ざめたのがコウタだった。
少年は突如駆け出して、座る彼女を引っこ抜くように持ち上げた。
そして、その場で彼女の姿勢をくるりと反転。正面からギュッと抱きかかえる。
『な、何じゃっ!? ま、待て、コウタっ! 義兄上や義姉上達の前じゃぞ! そういうことは時と場所を選んで――』
『に、兄さん! また来るから!』
そう叫んで、顔を赤くする彼女を抱きかかえたまま、一目散に一階へと降りて行ったのである。蒼いゴーレムもその後を追った。
アッシュ達は唖然としていたが、シャルロットが『待ちなさい! コウタ君!』と叫んで追いかけていった。
一階からは『……オマエ! 三十三ゴウカ!』『……ムウ! 九ゴウノアニジャカ!』という声が聞こえてくる。しばし騒がしかったが、すぐに静寂に包まれた。
ユーリィのみならず、全員が思わず呆気にとられた。
その後、ボルド=グレッグとの遭遇を伝えたので、もう完全に場は混乱した。
そんな状況のため、サクヤのことまで切り出せなかったのである。
そもそも、彼女の件はコウタから切り出すとも事前に約束していたこともある。
(……あれが、サクヤさん)
ユーリィは、より強くクマのぬいぐるみに顔を埋めた。
彼女とは、出会ったことはある。
けれど、その時の彼女は《聖骸主》だった。
会話など一切出来ない狂気の存在だ。
だから、今日、初めて彼女と話をした。
会話としては、恐らく一分もしていないと思う。
けど、とても、とても長い間、会話をしていた気がする。
その中ではっきりと覚えているのは、自分の問いかけと、その返答だった。
『あなたは、アッシュのことをどう思っているの?』
どんな形であれ、アッシュは彼女の命を奪った。
それを恨んでいないのか。
『私は……』
すると、サクヤは、優しく微笑んで返した。
『今も昔も、トウヤを愛しているわ』
――トウヤ。
それが、アッシュのことなのは、すぐに分かった。
ユーリィは聡明な人間だ。
アッシュの故郷の村の名前も知っている。
だから、『アッシュ=クライン』は彼の本当の名前ではないと思っていた。
いつかは聞こうと思っていた。
それが、まさかこんな形で知ることになるとは思いもよらなかったが。
ユーリィは、言葉は返さずに、サクヤを見つめた。
双金の片割れである彼女を。
そうして長い沈黙の後、サクヤと彼女の従者は、そのまま去って行った。
コウタと九号は、その場に残ったが終始無言だった。
コウタは、サクヤについて何かを知っていそうだったが、それを聞くのも、また話すのも憚れる空気が流れていた。
だが、いつまでも立ち尽くしていても仕方がない。
二人と一機はクライン工房へと行き、最初の騒動に繋がるのである。
(……本当に、綺麗な人だった)
しかも、自分と違ってスタイルも抜群だ。
あれに並ぶ者としては、恐らくオトハか、サーシャぐらいだろう。
自分がまだ成長期にあると言っても、流石にあれに届くイメージは出来ない。
そのことだけでも、ユーリィは深く落ち込んだ。
(けど、いつまでも落ち込んでいられない)
ギュッ、とクマのぬいぐるみを抱きしめる。
わずかに顔を上げた。
ボルドとの遭遇もあり、これまでのユーリィならかなり落ち込むのが常だった。
けれど、顔を上げた今のユーリィの瞳には、迷いのない力強さがあった。
表情からは陰りも消えている。
それは、幼い少女の顔つきではなかった。
(……私は)
と、その時だった。
――コンコン。
ノックがされる。ユーリィはドアに顔を向けると「……どうぞ」と告げた。
ドアが開かれる。入って来たのはアッシュだった。
「……ユーリィ」
アッシュは、優しい声で彼女を呼んだ。
「大丈夫か?」
「……うん」
ユーリィは、こくんと頷く。
「ボルドの野郎に出くわしたんだ。無理すんなって」
そう言って、アッシュはベッドの縁に腰を下ろす。
次いで両手を広げて「ほら」と告げた。
ユーリィは顔を上げると、ぬいぐるみを捨ててアッシュの傍に寄った。
正面から青年の膝の上に座る。
それから彼の首に手を回し、抱き着く。アッシュも背中を強く抱いてくれた。
(やっぱり落ち着く。けど……)
これではダメだ。
もう、ダメなのだ。
何故なら、これは『娘』の愛だからだ。
(私はコウタ君に嫉妬した)
家族として。『娘』として。
ユーリィは『本当の家族』であるコウタに嫉妬した。
だが、それは、本来ユーリィにとってはどうでもいいことだったのだ。
(もう『娘』に拘っていてはダメ。私の一番の『望み』は違うのだから)
――あの雨の日に。
自分の『望み』は決まっていた。
だから、もう『娘』であることは、ここでお終いにしよう。
「……アッシュ」
ユーリィは、自分から離れた。
いつにない短い抱っこに「……ユーリィ?」とアッシュが訝しげな顔をする。
「どうかしたのか?」
「ううん。何でもない」
ユーリィは、かぶりを振った。
「ありがとう。もう大丈夫だから」
「……そっか」
アッシュは優しく笑って、ユーリィの横髪を梳かすように撫でた。
彼女は、そんな青年の手に、そっと両手を添える。
この大きな手が、いつも自分を守ってくれた。
これまでも。
きっと、これからも。
そう思うと、心の内に愛しさが込み上げてくる。
けれど、守ってもらうだけの生き方はもう止めだ。
「けど、一つだけ別のお願いがある」
まずは、これが最初の一歩。
ユーリィは、微笑んで告げるのだった。
「明日、行きたい場所があるの」




