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クライン工房へようこそ!【第18部まで完結!】  作者: 雨宮ソウスケ
第10部 『藍色の記憶』

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エピローグ

 ぐすぐすっと鼻が鳴る。

 クライン工房の茶の間にて、サーシャは子供のように涙を流していた。 



「……もう。サーシャ。そんなに泣かないでよ」



 アリシアは親友の顔をハンカチで拭いてやった。

 しかし、サーシャの気持ちはよく分かる。

 サーシャの母親もまた《星神》であり、《聖骸主》となって命を落としていた。

 きっと、その時のことを思い出したのだろう。そしてサーシャの夢は《聖骸主》を救うことだ。そんな彼女が今のような話を聞けばこうなるのも必然だった。



(まあ、それを差し引いても、この子って感受性が豊かだし)



 アリシアは内心で苦笑いする。

 そう言えば、以前似たような話を聞いた時も大泣きしていたものだ。

 ともあれ、いつまでも親友を落ち込ませたくはない。何より話してくれたユーリィに困った顔をさせるのは不本意だ。



「とても悲しい結末だったけど、いま気にすべきことは別のことね」



 あえて明るい口調で別の話題を振る。



「う、うん。そうだね……」



 アリシアの話にサーシャは目をゴシゴシ擦りつつ乗ってきた。

 親友の気遣いを無駄にしたくなかったからだ。



「シャルロット=スコラか。やはり初めて聞く名前だったな」



 と、すっかり冷えたお茶を片手にオトハも話に加わる。



「それにしてもエマリア」



 次いでユーリィを一瞥した。



「以前ちらりと聞いた時は色恋沙汰に鈍いだけの女という印象だったが、お前にしては過小評価ではないか? 話を聞く限り相当厄介そうな女だぞ」



 シャルロットという女性は明らかにアッシュに好意を抱いている。

 それはサーシャ、アリシアも同意見だった。

 するとユーリィは自分の未熟さを悔やむような表情を見せて。



「当時の私は本当にまだ子供だったから。当時の印象で語ってたの。こうやって改めて思い返すと確かに相当危険な相手だった」


「ああ、そういうことか」オトハは苦笑を浮かべた。「しかし、クラインの奴が愛称で呼ぶ女が私以外にもいるとはな……」


「い、いえ、オトハさん。それなら私も――」



 と、手を上げて自分をアピールするサーシャに、



「「「いやいや、『メットさん』は」」」



 全員がツッコミを入れた。

 サーシャは「うう」と呻いた。



「まあ、愛称はともかく、そのシャルロットさんって人は本当にマズいわよね。だって根本的に私達とは違うもの」



 と、アリシアが頬に手を当てて語る。

 アッシュを愛する女性はアリシア自身を含めて大勢いるが、当然ながら彼女達にはそれぞれ恋する理由や切っ掛けがあった。


 例えばオトハ、サーシャ、ルカは危ないところを助けられたのが決め手だった。


 アリシア、ミランシャは根本的にアッシュが好みの異性であったこともあり、何度も会うことで徐々に好意から思慕へと想いを昇華させていった。


 ユーリィ、そしてとある黒髪の女性は幼少時からの付き合いだ。彼の底抜けの優しさに包まれて淡い想いを育んできた。


 結局のところ、タイプは違えど、誰もが自分の方からアッシュに惚れていた。

 だがしかし、シャルロットだけは違うのだ。


 思慕を抱くような切っ掛けもなく。

 それどころか、はっきりと拒絶していたにも拘わらず、心を手折られ、強引に口説き落とされてしまったのである。それが偽装であったとしてもだ。


 ――そう。彼女だけはアッシュが力尽くで手に入れた女なのである。



「いいなぁ、シャルロットさん……」



 その時、サーシャが大きな胸を揺らして溜息をついた。

 ユーリィからは芝居だと聞いた。だが、それでも羨ましい。

 それは他の少女達も同意見のようでサーシャのように胸を揺らせなくても溜息だけはついていた。そして三人揃って、



「「「私も『俺の女』だって言ってもらいたい」」」


「―――ブふぉっ!?」



 それに対し、オトハが呑んでいたお茶を盛大に吹き出した。

 次いでゴホゴホと咳き込んでいる。

 ユーリィが布巾で卓袱台を拭きながら、ジト目でオトハを見やる。



「オトハさん、汚い」


「す、すまない。エマリア。その、お前達があまりに過激な台詞を言うから……」


「え? そうですか?」「これぐらいもう当たり前のような気もするけど」



 と、サーシャとアリシアがキョトンした顔を見せる。



「むしろ、オトハさんは言って欲しくないんですか? シャルロットさんみたく、アッシュさんに『お前は俺の女だ』って」


「そ、それは――」



 それなら、もうすでに言われている。

 だが、そんな事実は断じて口には出せなかった。

 もし言えば、査問会の開催は必至だから。

 代わりにオトハは頬を染めて俯く。それだけでアリシア達は勝手に納得した。この凜々しい女傑は結局のところ、とても初心なのだ。

 今回も単純に言葉にするのが恥ずかしかっただけなのだろう。そう解釈した。

 流石にオトハの心の内までは見抜くことは出来なかった。



(まったくもう。あいつときたら)



 俯いたまま、オトハはむすっとした表情を見せた。



(……『俺の女』か。まったく。私の方はもう覚悟を決めているのに)



 そんな不満が胸中で渦巻く。

 自分はもう出会った頃の少女ではない。一人前の大人だ。

 だから、そういった関係・・・・・・・になっても何の問題もない。

 それに今は同居だってしているのだ。二人きりになる機会も多かった。

 その気になれば、機会は幾らでもあるというのに――。



(……クラインの馬鹿)



 思わず頬を膨らませてしまう。

 無論そういった知識が乏しく、経験が皆無だという不安はある。

 聞くところによると初めてはとても痛いものらしい。下手すると柄にもなく涙を見せてしまうかも知れない。オトハにとっては醜態そのものだ。

 けれど、



(ま、まあ、仮に私が泣いても、クラインの奴は醜態なんて思わないだろうがな)



 むしろアッシュのことだ。

 きっと、いつも以上に優しくしてくれるに違いない。

 ――しかし、その時、自分は一体どうなってしまうのだろうか? 

 あいつにしがみついて痛みに耐えるのか? 

 いや、それ以前にそんな状況であいつに優しくされると、もう歯止めが利かなくなるぐらい甘えてしまいそうで怖い。

 自分でも初めて聞くような甘い声を出すかも知れない。そしてあいつの首に手を回して唇をせがんだり、火照った肌を何度も重ねて……。



(――な、何を考えているんだ私はっ!?)



 オトハはカアァァと赤くなりつつも、桃色に染まりかけた思考を元に戻した。

 いずれにせよ、覚悟していること自体には変わりはないのだ。

 それに準備だって万全だ。身体はいつも隅々まで綺麗に洗っているし、決戦用の下着だってどんなタイミングでもいいように大量にストックしている。


 ――覚悟もした。準備もしている。

 それなのに、あの鈍感男は……。



(……クラインの奴め)



 ますますもって不機嫌になってくる。



(私をもらうんじゃなかったのか? 他の誰にも譲らないって。オトハを俺の女にするってあんなにはっきりと言ってたのに)



 結局あの夜から幾日経っても、アッシュは一向に動いてくれない。

 堂々とした宣言が嬉しくて。

 またもの凄く恥ずかしかった分だけ不満が募っていくのも仕方がなかった。



「……まったくもう」



 ふと気付けば、不満が声にまで出ていた。

 まあ、普通ならばまず交際から始まるものなのだが一気に思考がそこに至るのは、オトハの実にオトハらしいところであった。



「……? どうしたんですか? オトハさん?」



 サーシャが首を傾げて尋ねると、オトハはコホンと喉を鳴らした。



「その、気にするな。それよりもお前達。その女の件だが、多分そこまで警戒しなくてもいいと思うぞ」



 オトハは苦笑じみた表情を見せた。



「厄介ではありそうだが、同時にそのスコラという女は責任感がかなり強そうだ。仕事をほっぽり出してまでクラインの所に来ることはまずないとみた」



 そこで一呼吸入れて笑みを零す。そして、



「だから、当分の間は安心してもいいと思うぞ」



 何だかんだ言っても自分は『確定』している余裕からか。

 呑気にそう答えるオトハであった。




       ◆




「それはまた随分と見通しが甘い判断だな」



 カツンと音が響く。



「チェックメイトだ。アサンブル」



 自分のキングの前に置かれたクイーンを見やりつつ、執事服の青年――ライク=アサンブルは頭を垂れた。



「参りました。お見事です。旦那さま」


「最後は詰めが甘かったが、中々楽しめたぞ」



 そう告げるの四十代前半の男性。蜂蜜色の髪を少し痩せこけた顔つきの騎士。

 エリーズ国における四大公爵家の一つ。

 レイハート家の当主。マシュー=レイハートその人だった。

 そして今のライクの主人でもある人物だった。



「感謝する。いい息抜きになった。そろそろ仕事に戻ることとしよう。アサンブル。下がってもいいぞ」


「はっ。それでは失礼します。旦那さま」



 言って、ライクは一礼して執務室を退室した。

 そしてライクは長い渡り廊下を一人歩き始めた。



(この邸に来てもう五年になるのか)



 ふとそんなことを思う。

 かつて狩人だった少年は、今や立派な執事として成長していた。

 シャルロットの口利きで手に入れたこの仕事。狩人とは随分と勝手が違い、不慣れなことも多く、この五年間は本当に憶えることが多くて大変だった。

 しかしそれが逆に良かったのだと思う。余計なことを考える暇も無かったから。

 ライクは窓から日が差し込む廊下を黙々と歩き続ける。

 心に余裕が出てきたためか、最近は昔を思い出すことが多くなってきた。



「そう言えば、キャシーは今も元気にやっているのかな?」



 唯一の同郷人との別れは印象に残っていた。

 あの事件から三日後の朝。事件の収集に忙しい役人達を背に彼女は《猛虎団》の面々と一緒にいた。話によると先日、彼女は《猛虎団》に入団したそうだ。揃いの上着は《山猫》と呼ばれる彼女には結構似合っていた。


 ただ、その時の彼女は何故か子鹿のように足を震わせていて。



『……キャシー。体調が悪いのか?』


『ううん、そんなことはないッスよ! 確かにダメージはあるッスけど、これはバルカスが約定を果たしてくれた証ッスからね! 甘んじて受けるッスよ!』



 そう言って、晴れ晴れしいぐらいの笑顔で彼女はVサインをして見せた。



『おい。キャシーよ』



 その時、彼女の隣に立っていたバルカスが不機嫌そうに彼女のお尻をバンと叩く。

 キャシーは『ひゃんっ!?』と叫んで背筋を伸ばした。



『てめえ、昨晩俺があんだけ言い聞かせたのに、もう元の口調に戻ってるじゃねえかよ。てめえの口調は一晩経つとリセットされんのか』


『こ、これはもうウチの個性ッスから。簡単には直らないスよ……ううゥ、それよりバルカス酷いッス。ダメージが残っているとこに追撃はないッスよぉ』



 と、お尻を押さえながら訴えるキャシーだったが、バルカスに向ける眼差しはどこか艶めいていた。彼女が今とても上機嫌なのは面識が浅いライクでも分かった。

 しかし、それとは対照的に、とても不機嫌そうに見えるのは――。



『……おい』



 冷たい声が響く。バルカスの傍に立っていたジェーンの声だ。

 彼女は不機嫌さを隠さない顔でバルカスの耳を引っ張った。



『今回だけは特例で認めてやるよ。約定は絶対だしね。でもね……』



 ジェーンはドスの利いた声で警告する。



『いいか。《勲章》はもう増やすな。三人目は許さないからね』



 女傭兵の迫力にライクは腰が引けた。それもバルカスさえも同様だった。



『お、おう。分かってるよ。お前とキャシーでもう終いだ。あ、けどよ、たまに娼館ぐらいなら……』


『……死にたいのかい? あんた』



 迫力の中に殺意まで宿すジェーン。さしもの虎も震え上がった。



『お、おう。すんません。もう二度と行きません』



 大きな体をしゅんとさせて約束する。

 ジェーンは腕を組んで『なら、よし』と返すのだが、そこに割り込む者がいた。



『ちょいと待つッス。先輩』



 お尻の痛みを克服したキャシーである。



『娼館の件についてはウチも賛同ッス。けど、先に入団したからって正妻ヅラは気にくわないッスね。おばさんのくせに』


『……おい。今なんつった? このくそガキが』



 ジェーンは額に青筋を立ててキャシーの前に立った。負けじとキャシーも腰に手を当てて仁王立ち。正面から迎え撃つ。二人はバチバチと視線を交差させた。

 ジェーンがふんと鼻を鳴らす。



『そんな貧相な胸でよくあたしに挑む気になるね』


『ウチは成長期が終わったおばさんと違ってまだまだ発展途上ッスからね。それに心配無用ッスよ。昨晩みたく、これからはどんどんバルカスに大きくしてもらうッスから。一から十までバルカス好みに成長していく予定ッス』



 と、皆の前で堂々と宣言するキャシー。しかし、ジェーンは余裕だった。



『はン? バルカス好み? そんなのあたしこそがそうなのさ。こいつとの付き合いはあたしが十七の頃からだ。当時のあたしはまだ男も知らない小娘だったよ』



 そこでジェーンはバルカスの耳を再び掴んだ。



『そんなあたしをこいつは手籠めにした。それも徹底的にだ。確かに一夜は付き合うって約束したけど、十七の生娘相手に十時間ぶっ続けだよ? 堪ったもんじゃない。気付いた時にはこいつの腕の中でぐったりしてたよ。この体力バカのクズ野郎は最初からあたしを一晩で完全に落とすつもりだったのさ。そんで結局こいつの思惑通りに落とされちまったあたし自身にもムカつく』



 バルカスの耳をギリっと捻る。



『それからもう五年さ。あの夜以降、何度こいつに抱かれたことか。初心な小娘だったあたしにこいつがどれだけのことを教え込んだと思う? それこそあんたの言う一から十まで全部だ。こいつはまさにあたしを自分好みに仕立てやがったんだ』



 よほど頭にきているのか、そんなことまで赤裸々に語る。『い、いやジェーン。俺だってそこまでは考えてねえぞ。それに最初の夜は俺も暴走していた訳で……』とバルカスが何やら言い訳をしていたが一切無視する。

 一方キャシーは渋面を浮かべた。



『……ムムム。なるほど。別の意味でも先輩だった訳ッスか。けどおばさん。同じ事なら後からされる方が優れているって事を知らないようッスね』


『……本当に口だけは達者なガキだね』



 そう言い合って互いに自分の腰に手を当てると、再び火花を散らし始めた。

 ライクはただただ呆然とその様子を見ていた。

 何やら女獅子と山猫が言い争っているように思えてきた。



『お、おい。お前ら……』



 そんな中、虎は完全に萎縮してた。



『あんたは黙れ』『バルカスは引っ込んでるッス!』


『お、おう』



 ますますもって萎縮する。

 どうにもカッコ悪いバルカスだった。

 ただ、その後のやり取りは、少しだけカッコ良かった。



『クラインの旦那……』



 別れの際、アッシュの前でバルカスは頭を下げた。



『今回の件。この恩は忘れねえ。《猛虎団》の団長、バルカスが誓うぜ』



 言って、バルカスは拳を突き出した。



『助けが欲しいと思った時はいつでも呼んでくれ。俺はどこにいようと何があろうと必ずあんたの元に駆けつける。絶対にだ』



 傭兵の顔は真剣なものだった。

 男の真摯な申し出を断るほど野暮なものはない。

 アッシュは少しだけ苦笑するものの拳を突き出して応えた。



『ああ、分かったよ。そん時は頼りにさせてもらうぜ。バルカス』


『おう。任せてくれや。クラインの旦那』



 そう言ってバルカスは二カッと笑った。

 そうして《猛虎団》は去って行った。ちなみにバルカスの約束は少し変わった形で果たされることになるのだが、それはライクの知るところではなかった。



「アッシュ兄ちゃんも元気かな?」



 まるで本当の兄のようであった少年のことも思い出す。

 彼には感謝しかなかった。経験を重ねて成長した今ならはっきりと分かる。アッシュはライクの苦痛をすべて肩代わりしてくれようとしていたのだ。

 あの親切で。えげつないぐらい強くて。愛娘には結構な過保護で。そしてとても優しい兄貴分ともいつか再会したいと思っていた。



「まあ、その気持ちはシャル姉ちゃんの方がずっと強いんだろうけど」



 あごに手を当てて「ハハッ」と笑う。

 きっと今頃、彼女はそわそわしているに違いない。



「さて、と」



 そしてライクは窓の外に目をやった。

 庭園には光が注いでいた。



「……セレン」



 穏やかな陽光に口元を綻ばせる。



「俺はちゃんと頑張っているよ。だから、君は安心して眠ってくれ」



 彼女が最後の瞬間に見せてくれた微笑みを胸に。

 ライクは今日も執事仕事に勤しむのであった。



 そして――……。



 シャルロットは一人、廊下を歩いていた。



「……大したものですね」



 驚くほど揺れが少ない。

 鉄甲船には初めて乗ったが帆船に比べてここまで安定しているものなのか。



「技術の進歩とは本当に凄いものです」



 と、呟きつつ、彼女は甲板に向かって歩き続けていた。

 時刻はまだかなり早く、早朝と言っても差し支えない時間帯だ。ただ、ここ数日間は本当に落ち着かない気分が続いてた。そのため、気分転換に向かっているのだ。



(ようやくなのですね)



 シャルロットは小さな吐息を零した。

 思い出すのは五年前のことだ。

 結局、あの日、シャルロットは大失態をしてしまった。

 想定する中でも最悪の失態だ。しかも、すべてを捧げてでも彼を支えるとあれだけ息巻いていたくせに、その件で逆に彼の方に気遣われてしまったぐらいだ。



『気にしないでくれ。シャルは何も悪くないから』



 そう言って、優しいあるじさまは彼女の髪を何度も撫でてくれた。

 ――本当に申し訳なかった。彼にもライクにもだ。

 特に、あれだけの大失態を犯しておきながら、あるじさまに宥めてもらうことで心が安らいでしまったことには本当に申し開きも出来なかった。



(すみません、あるじさま。ライク君も)



 当時の自分を戒め、シャルロットはキュッと唇を結んだ。

 話は変わるが、実はあの事件の後、彼女は真剣に悩んでいた。

 このままレイハート家のメイドを辞めて彼について行こうかと考えていたのだ。きっと彼は困った顔をしても受け入れてくれるような気がした。

 しかし、その時、脳裏によぎったのはお嬢さまのことだった。

 こんな風に辞めるのはあまりにも不義理すぎる。結局、シャルロットはお嬢さまが一人前の淑女となり、素晴らしい伴侶を見つけるまではと断念したのである。

 だが、それはもう五年も前の話だ。



(そうです。あれから五年が経ちました)



 トクン、トクンと鼓動が高鳴る。

 シャルロットは歩きながら胸元に手を当てた。



(お嬢さまは立派な淑女となられました。しかも伴侶として望む少年は――)



 そこで小さく嘆息する。

 人の縁とは本当に不思議なものだと、しみじみと思った。

 と、そうこうしている内に、シャルロットは甲板の扉に辿り着いた。

 扉を開く。視界に差し込んでくるのは暖かい日の光だった。

 海風が心地よい。シャルロットはとりあえず船首に向かうことにした。



(あら)



 するとそこには先客がいた。

 船首の手すりに両手を置いて、船の進む先を静かに見据える人物。

 エリーズ国の騎士学校の制服を着た黒髪の少年だった。

 シャルロットの知っている少年だった。この旅の同行者である。



「……コウタ・・・君」



 シャルロットは少年に声を掛けた。

 つい先日まで彼のことは家名をさま付けで呼んでいた。しかし、彼の素性を知ってからは名前で呼ぶようにしている。まだ少しばかり慣れないが。



「あ、おはようございます。シャルロットさん」



 そう言って彼は振り向いた。

 少年の黒い瞳がシャルロットに郷愁に似た思いを抱かせる。



「はい。おはようございます」



 シャルロットは深々と頭を下げた。



「お早いのですね。どうかされたのですか?」



 続けてそう尋ねると、少年は「いえ」と呟いて頬をかいた。



「少し早く目が覚めちゃったんです。あと数日で到着するかと思うと」


「……そうですか」



 シャルロットはそう返すと少年の隣に並んだ。

 しばし二人は沈黙する。と、



「あのシャルロットさん」ややあって少年が口を開いた。「質問してもいいですか?」


「何でしょうか? コウタ君」



 シャルロットは視線を少年に向けた。彼は少しだけ目を逸らすと、



「その、シャルロットさんは、にい……クラインさんとは親しいんですね?」


「ええ。もちろんです」



 シャルロットは即答した。少年の顔に複雑な表情が浮かぶ。



「あの、シャルロットさんが知るクラインさんってどんな人だったんですか?」


「クライン君ですか? そうですね……」



 そこでシャルロットはいたずらっぽい微笑を浮かべて。



「すみません。その前に一つお詫びしたいことがあります。コウタ君。私が初めて彼のことを語った日を憶えていますか?」


「あ、はい」少年はあごに手をやった。「確かサザン近くの別荘でしたよね?」



 シャルロットは首肯する。



「ええ、その通りです。コウタ君に意中の人はいないのかと問われた時です。私は『います』と答えましたが、実はあの時、私は一つ嘘をついたのです」


「……嘘ですか?」少年は眉根を寄せた。「一体どんな嘘を?」


「改めて謝罪を」



 シャルロットは深々と頭を下げた。



「嘘とは彼への気持ちについてです。あの時、私は何故か彼のことが心に残っているといった感じのことをお伝えしたと思います」


「はい。確かにそんな感じでしたよね」



 少年は記憶を探っていた。一方、シャルロットはふっと微笑み、



「それが嘘なんです。心に残っているなんて大嘘です。何故なら、出会ったその日の内に私の心は彼の手によって手折られてしまったのですから。すでに私の心は彼に奪われています。私は彼に勝ち取られた女なのです」


「……………え?」



 少年はポカンとした。シャルロットの言葉はさらに続く。



「まず出会った直後に打ち負かされました」


「へ?」


「次いで口に固いモノを咥えさせられました」


「え? ええ?」


「屈辱で涙も零しました。その後も抵抗はしたのですが、彼は何度も私を抱いて……念入りに心を折られてしまいました。そして最後には私の口から『私はあなたの女です』とまで言わされたのです」


「ちょ、ちょっと待って下さい!?」



 少年は青ざめた顔で絶叫を上げた。



「何ですかその犯罪!? え、えっとシャルロットさん? それって冗談ですよね!? そんなのボクが知ってる人じゃないし!」



 そう言って、おろおろと取り乱す少年。

 シャルロットは数瞬ほど楽しそうに眺めていたが、



「安心してください。非道なことはされていませんから。彼は紳士ですよ」


「そ、そうですよね……」



 少年はホッとした表情を見せるが、



「ただ、今言ったことのほとんどは事実なのですが」


「………え」



 再びピシリと固まる少年。シャルロットはクスクスと口元を押さえる。

 それからくるりと背中を見せて「信じる信じないはコウタ君次第です」とだけ告げてその場を後にした。背後で硬直している少年を残して。

 その後、シャルロットは甲板を気ままに散策していた。

 と、そこでおもむろに足を止める。


 空には太陽が燦々と輝いてた。

 シャルロットはすっと蒼い双眸を細める。

 ――嗚呼、本当に眩しい。

 けれど、あれはまるで今の自分の心のようだった。



「……あと数日です。私の愛しきあるじさま」



 抑えきれない喜びに、くるくるとその場で回ってしまう。

 そして――。



「もう少しだけお待ちください。私は必ずあなたの元へ参りますから」



 五年に渡る想いを込めて。

 シャルロットはにこやかに微笑むのであった。





第10部〈了〉

読者のみなさま。

第10部まで読んでいただき、誠にありがとうございます!

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今後とも本作にお付き合いしていただけるよう頑張っていきますので、これからもよろしくお願いいたします!

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