第一章 クライン工房、開業
ボオオオオオオオオ――
大きな汽笛の音に導かれるように、甲板に立つ少女は空を見上げた。
青い空にはカモメの群れが飛んでいた。陸地が近い証拠だ。
少女はさらに首を傾け、真上を見上げる。雲が流れる空はとても澄んでいた。
どこまでも広がる果てなき世界――ステラクラウン。
広大な大海原の上に四つの大陸を擁するこの世界はそんな名前で呼ばれていた。
人間達が文明と国を築き、獣人族と呼ばれる種族は自然の中で集落を作り、魔獣達は荒ぶる本能のままに大地を跋扈する世界。
人と獣人族の軋轢、国同士の衝突、魔獣の襲来、《星神》を巡る争乱に《聖骸主》の出現など、争いの種こそ尽きないが大自然と資源に恵まれた豊かな世界だ。
ボオオオオオオオオ――
再び汽笛が鳴る。それを機に、少女は船首の先へと視線を移した。
青い水平線に陸地の影が見える。
まるで大陸を思わす大きな陸地だが、あれは島だ。
南方の大陸セラから、さらに遥か南に位置する――グラム島。
鉱山を五つも有し気候もよく、その上、島としては破格の大きさを持つが、大陸から離れすぎているため、他国からは辺境と呼ばれる島である。
そして彼女の――いや、彼女達の目的地であり、第二の故郷となる島でもあった。
ともあれ、陸地はもう視認出来る位置まで来ている。そろそろ彼を起こすべきだろう。少女はそう考え、客室へと向かうのだった。
時刻は昼前。アッシュ=クラインは未だベッドの上で眠りこけていた。
眉間に刻まれたしわに、真直ぐ結ばれた口元。時々、呻き声も上げている。
昨晩遅くまで他の乗客と飲み比べをしていたせいか、すこぶる調子が悪そうだった。
「……ッシュ。アッシュ! いい加減起きて!」
と、そこへ、可憐だが、どこか不機嫌そうな声が響いてくる。
「……うぅ……ん?」
アッシュは呻きながら瞼を開く。元々酒には強い体質なので二日酔いという訳でないが、それでも寝起きは最悪だった。どうも悪い夢を見ていた気がする。
アッシュは上半身を起こし、ふわァと大きな欠伸をした後、自らの居場所を確認するように周りの様子を窺った。
まず視界に映ったのは、この二週間世話になった粗末なベッドと洗面所。
次に、小さな丸い窓から見える蒼い海。
そして最後に、こちらをじいっと見つめる少女の姿――。
透き通るような白い肌と、空色の髪を持つ小柄な少女だ。肩にかからない程度まで伸ばしたその髪は、毛先の部位のみ緩やかなウェーブがかかっている。
まるで人形のように整った綺麗な顔立ちの少女なのだが、どうも今は少しご機嫌斜めのようだ。その翡翠色の瞳には、わずかな怒りが浮かんでいた。
アッシュは苦笑する。この子は喜んでいる時は分かりにくいのに、不機嫌な時はとても分かりやすい。基本的にいつも無愛想なのだ。
もう十三歳になるのだし、もう少し愛想を覚えてもいいと思うのだが……。
「……? アッシュ? どうしたの? 私の顔に何か付いてる?」
「いや何でもねえよ。ところでユーリィ。お前が来たってことはもう着くのか?」
アッシュの問いかけに、彼女――ユーリィ=エマリアはこくんと頷く。
「先に上で待っている。顔を洗ったら来て」
そう言うと、ユーリィはさっさと部屋を出て行ってしまった。
一人残されたアッシュは、少女の背中を見送った後、洗面所の前に立つ。
鏡の中には、二十二歳になったばかりの青年の姿があった。
痩身だが鍛え上げた体に、そこそこ整った顔立ち。一見すると凡庸でそれ程目立つ風貌でもない。――ただし、その瞳と髪の色を除けばだが。
それは、セラ大陸では珍しい漆黒の瞳。そして、本来は瞳と同じ色だったのだが、今では燃え尽きたように変わってしまった白い髪。かつての名残のように毛先だけがわずかに黒を残している。その髪を一房さわり、アッシュは皮肉気に笑う。ここ数年、鏡の前に立つと必ずしてしまう仕草だ。どうも癖になっているらしい。
やれやれと髪を離したアッシュは、気合を入れるようにパンと両手で頬を叩く。
「さて、あんまりユーリィを待たせると後が怖えーからな。さっさと俺も行くか」
甲板に上がると快晴だった。
潮の香りを運ぶ風を頬に感じる。人生で初めての船旅で最初は慣れなかったこの風も、今日で最後かと思うと感慨深いものだ。
アッシュは背伸びをしながら辺りを見渡して――すぐにユーリィの姿を見つけた。
彼女は一人船首に立ち、目前にまで近付いた港を眺めている。
「おっ、あれがアティス王国の王都なのか。一体どんな国なんだ?」
アッシュはユーリィの隣に立って話しかけた。
振り向いた少女は、呆れたように言葉を返してくる。
「……あの国に行くのは、あなたが決めたことなのに、あなたが知らないの?」
「あ、いや、悪りい。平和な国ってことだけであそこに決めたんだよ」
そこでポリポリと頬をかき、
「正直なところ、今回の件を決めた頃はそこまで頭が回ってなかったからな」
「……………」
ユーリィは無言で、アッシュの顔をじいと見つめた。
そして小さく嘆息する。
当時の状況をよく知る彼女としては、強く否定することも出来ない。
仕方ないので、ユーリィは事前に仕入れていた知識を披露することにした。
「離島の小国――アティス王国。王都と幾つかの町村で構成された国で、総人口は約二十一万人。とても平和な国らしいけど、騎士団は三つもあって鎧機兵の保有数も多い。王都には鎧機兵専用の闘技場まであるんだって。そして――」
と、そこで躊躇うように、少女は言葉を切った。
アッシュは怪訝な表情を浮かべる。何か言いにくいことでもあるのだろうか?
しばらくして、彼女は少し戸惑いながらも言葉を続けた。
「……世にも珍しい《星神》のいない国」
アッシュは目を瞠った。
「……マジかよそれ……」
思わず呻く。と同時に、ある可能性が脳裏に思い浮かんだ。
(……こりゃあ、もしかして《神隠し》の仕業なのか?)
《神隠し》――。それは、いつしか呼ばれるようになった《星神》を拉致する人間や組織の総称だった。まさか、この地でも奴らが暗躍しているのだろうか……?
すると、彼の抱いた疑念が分かったのだろう。ユーリィが髪を横に揺らした。
「……《神隠し》は関係ないと思う。どうも本当に過去一人も《星神》が生まれなかったみたい。もしかしたら移住者はいたかもしれないけど、公式の記録にはなかった」
そう告げる彼女も半信半疑なのだろう。悩ましそうに眉をひそめていた。
アッシュもまた、渋面を浮かべて呟く。
「それはそれですげえよな。普通、この人口なら五十人ぐらいはいそうなもんだが」
まさか、《星神》が一人もいない国が存在するとは……。
正直驚きはしたが、アッシュはここでこの話題を締めることにした。
ユーリィの話の中には、もっと留意しなければならない点があったからだ。
「なあユーリィ。ところでこの国の鎧機兵の保有数が多いってのは確かなのか?」
これが最も重要な点だった。ユーリィはこくんと頷き、
「うん。公式の保有数は約二千機だって。総人口が二百万を超すグレイシア皇国でも約二万機だから、ちょっとありえないぐらい多い」
「は? に、二千!? 何だよその異常な数は……」
本当にとんでもない数だった。
彼らの祖国でもあるグレイシア皇国はセラ大陸の北方にある世界有数の大国だ。
霊峰カリンカ山脈の麓に構える皇都ディノスを筆頭に、百を超える町村を擁する「騎士」の国。保有する鎧機兵の数は四大陸全土を考慮してなお上位に入るだろう。
だというのに、小国でありながらこの数は――。
「もしかしてだけど、闘技場があるのなら、鎧機兵が消耗品扱いなのかも」
首を傾げながら、ユーリィが自分の推測を告げる。
アッシュは腕を組んで考え込んだ。
あの高価な鎧機兵が消耗品。流石に信じがたい話なのだが……。
「逆に好都合かもな。これからのことを考えると……」
アッシュの独白に、ユーリィが複雑そうな表情を浮かべる。
「……本当にこの国に鎧機兵の工房を開くの?」
「ああ。そのつもりだよ。正直、他に食いっぱぐれねえ技術は持ってねえからな。何だ、俺の腕じゃ頼りないか? まあ、俺の技術は邪道扱いされていたからな」
「……アッシュの腕は疑ってない。職人の資格も持っているし、苦労はしても何とか出来ると思う。だけど、私は……」
ふと、ユーリィの脳裏に祖国でのアッシュの姿が思い浮かぶ。
たとえ彼自身は望んでいなくても、あの姿こそがアッシュに一番ふさわしいと彼女は思うのだが……。
「……ごめんなさい。何でもない。今のは忘れて」
と言って、少女はそのまま俯いてしまう。
あまりにも分かりやすく気落ちするユーリィに、アッシュは苦笑した。
そして少女の空色の髪にポンと手を置いて、
「……悪りいな、ユーリィ。これは完全に俺の我儘だ。あの国で俺のやるべきことはもう終わっちまった。だからこそ――俺はもう一度、人生をやり直してえんだよ」
ユーリィは彼女の頭をくしゃくしゃと撫でるアッシュの顔を上目遣いで見つめた。
アッシュ=クライン。五年間、ずっと家族として傍にいてくれた青年。
自分にとって誰よりも大切な人。
だから、アッシュが背負った絶望の深さは、自分が一番よく知っている。
特に半年前の彼の姿を思い出すと、今でも胸が締め付けられそうだ。
(……そう。あの頃のアッシュは、本当に死にたがっていたから)
かつて死を望んでいた青年。そんな彼が今、前を向いて歩こうとしているのだ。
ならば、自分の答えは一つしかない。
「――大丈夫。気にしないで。アッシュが我儘なのはよく知っている。あなたの望むようにすればいい。私はとにかく、あなたが野たれ死なないようにフォローする」
「……なんかえらい言われようだが……。ふふ、まあ、ありがとよ」
妹のように――いや、それこそ愛娘のように、大切に守り抜いてきた少女のエールを受け、アッシュは不敵に笑う。
「見てろよ。ここが俺の新しい戦場なんだ。俺は必ず勝ち抜いて見せるぜ!」
◆
アッシュ=クラインは、意外と勤勉な人間である。
口調がどうにも荒いためよく誤解されるが、責任感の強い人物でもあった。
ここ一年ほどは色々とあって、かなり自暴自棄になっていたが、生来の性格を大雑把に分類するのならば、きっと「生真面目な人間」になるのかもしれない。
そして新たな地にて心機一転。
どうにか過去を乗り越えて本調子を取り戻したアッシュは、持ち前の勤勉さを発揮して第二の人生を歩こうとクライン工房開業に向け、精一杯努力していた。
主観的、客観的に見ても、アッシュはとてもよく頑張っていただろう。
船上での勇ましい宣言の後、彼は早速行動を開始した。
まずは、この国を第二の故郷とすべく住民登録。続いて工房となる物件探し。
足を棒にしてようやく見つけたのは街外れにあった元工房で、自宅兼作業場にリフォームするのにかなり出費したが、どうにか自分の工房を構えることが出来た。
もちろん鎧機兵用工具の購入や、材料等の仕入れルートの確立も抜かりなく行った。
そしていよいよ開業――前の宣伝だ。
彼は腕には自信があった。昔、傭兵をしていた頃に独学で培った技術だが、鎧機兵のメンテナンスから、金属製の人工筋肉を編むことや鋼子骨格の製造。動力を循環させて機体を動かす操鋼糸の調律に至るまで、ほとんどの作業を一人でこなす事が出来た。
当然、その点は猛烈にアピールした。街を行きかう通行人にビラを配りながら。
それこそ半ば街頭演説のように熱く語っていた。
彼はまさに全力を尽くしていた。
そしてユーリィ=エマリア。彼女もまた努力していた。
アッシュと違い、職人ではない彼女が着目したのは自分の容姿だ。
ユーリィは思った。あまり自覚はないのだが、自分は人並み以上の容姿をしているらしい。ならば、看板娘としてそれを生かさねば、と考えた。
まずどうにかすべきは服装だろう。出来るだけ目立つ服装が好ましい。
思い出すのは、アッシュに内緒で一度だけ行ってみた皇都の歓楽街。
その華やかさに圧倒されたが、当時一番印象に残ったのは女性の服装――バニーガールとメイド服だ。
……バニーガールは流石に無理だ。あんなものを着たら羞恥心で死ぬ。
ならばメイド服か、とユーリィは記憶を探りながら、服の製作にとりかかった。
淡いピンクの生地。丈が極端に短いフリフリのスカート。ウエストをキュッと締め、胸を強調させるような服。手先な器用な彼女にとって製作は大して手間ではなかった。
そして、自室にて完成したメイド服を着てみるユーリィ。
立ち鏡に映る自分の姿をじいっと眺めてみるが……どうもしっくりこない。
彼女はポンと手を叩いた。ああ、そうか。あれが足りない。
ユーリィはクローゼットからあるものを取り出した。
それは、空色の「ネコミミウィッグ」だった。
皇都在住の某デザイナーが、獣人族の少女の容姿からインスピレーションを受け製作。熱狂的な支持を得て大普及したアイテムで、以前興味本位で買った品だ。
彼女は「ネコミミウィッグ」を装着した。よし。これで完璧だ。
ユーリィは一度、立ち鏡の前でくるりと回った後、自室を出てアッシュの元へ向かった。彼の感想を聞きたかったのだ。もしかしたら、あの救いがたい朴念仁でも可愛いと褒めてくれるかもしれない。彼女は少しドキドキしていた。
しかし、彼の反応は――。
『…………………………………………………あー……』
長い沈黙の後、呻くように声を出し、
『うん。可愛いと思うぞ。けどそういう格好はもう少し大人になってからにしような』
ポン、とユーリィの両肩に手を置き、そう言った。
一応褒めてはくれたが、その時、ユーリィは気付いていた。
そう告げるアッシュの視線が一瞬だけユーリィの胸元に向いていたことに。
その黒い瞳がとても優しげな――憐れむようなとも言う――光を宿していたことに。
ユーリィは無言のまま、アッシュのあごを打ち抜いた。
そして自室に戻り、メイド服を脱ぎ捨てるとクローゼットの奥深くに封印した。
……二度と着るものか。ちくしょうめ。
と、まあ、そんな感じでアッシュとユーリィの二人はとても頑張っていた。
そして怒涛のように日々が流れていき――……。
――三ヶ月後。クライン工房の居住区である二階。
本工房の主人の故郷を模した「和」と呼ばれる一風変わった部屋にて。
「……まさか、いきなり野たれ死ぬ危機がくるとは思わなかった」
重い言葉が茶の間に響く。
「開業してから二週間。お客さんが来ない記録絶賛更新中。このままだと、このパンの耳がご馳走と呼ばれる日も遠くない」
口にくわえたパンの耳を揺らしながらユーリィが笑えない非常事態宣言をした。
アッシュは何も答えない。ただ卓袱台の上で突っ伏すだけだ。
しばし続く沈黙。やがてアッシュの口元から「……はあ」と深い溜息がもれた。
――結局、これまでの宣伝は全く成果を上げなかった。
ほとんどの通行人は一瞬しか興味を示してくれず、あれだけ配ったビラは一読されただけで即座に子供の落書き帳として再利用された。何とも報われない結末だ。
「……考えてみればさ、鎧機兵が多いってことは工房だって多いってことだよな」
途轍もない徒労感に耐えながら、アッシュはようやく重い口を開いた。
鎧機兵の所有数が二千を超える国。
当然、それを支える工房も多くあるということだ。
「……あなたの頭カラッポなの? そんなの当たり前。天罰いる?」
ユーリィの声は冷たい。確かにそうだ。工房どころか大規模な工場まであるこの王都で、誰がすき好んで得体のしれない新参者の所にやって来るというのだ。しかもこんな街外れにあっては「一見さん」さえ来ないだろう。半年程前までの自分の無計画ぶりにはうんざりしてくる。
だが、落ち込んでいても仕方がない。
アッシュは気持ちを切り替えることにした。
「とにかく! このままじゃジリ貧だ。こうなったら――足だ。足で稼ごう。これから街に行って、直接客を探して交渉しようぜ!」
ユーリィは首を傾げて、アッシュの案を検討する。
……確かにこのままここで客を待つよりは可能性は高そうだ。
彼女はこくんと頷き、同意の意思を示す。
「おし! じゃあ、まずは噴水広場にでも行ってみるか!」
◆
グラム島、北西の海岸沿いに位置するアティス王国――。
島の四分の一を国土にするこの国は、肥沃な土壌による農業と鉄鉱石や銀の産出により発展してきた王国である。そして建国からおよそ三百年。その立地条件ゆえにただ一度も他国に侵略された事も、した事もない歴史を持つ「平和」で有名な国でもある。
そして王都ラズン。海岸と草原に囲われ、近隣に広大な森林「ラフィルの森」を持つこの都市は、意外なことに高い外壁で覆われた城砦都市だ。
いかに他国からの侵略がなくとも、島の四分の三は未開の土地――魔獣や獣達の領域だ。それを警戒しての構造らしい。
アッシュは乗合馬車の窓から外の景色を窺った。
視界に映るのは、遠くに構える外壁と道の両脇にある街路樹。そして広い田畑とちらほら点在する木造家屋だ。時々農具を担いだ農夫ともすれ違う。
何とものどかな景観だが、時間の経過と共に徐々に変化し始める。田畑は少なくなり相対的に家屋の数は増えていく。そして大きな川にかかる桟橋を越えた所で土を固めただけの街道は石畳で舗装されたものに変わり、景色は完全に喧騒に満ちた都会へと移行した。
ふと高台を見上げると、白を基調にした石造りの街並みと白亜の王城が目に入る。
王都の中心。王侯貴族や富裕層が住む「王城区」だ。
木造家屋が多く並ぶこの場所――「市街区」とは随分と趣が違う。
この国に来てから、まだ一度も王城区に出向いたことはないが、話によるとあの高台の中央にそびえ建つ王城は、日中ならば一般市民や観光客にも開放されているらしい。王城区の見物ついでにいつか訪れてみるのもいいかもしれない。
と、そんなことを考えている内に、乗合馬車は街中をどんどん進み、アッシュ達は目的地である「ミネルバ噴水広場」の停留所に到着した。
銅貨を一枚支払い下車するアッシュとユーリィ。
馬がいななき、馬車が去っていく。
広場に降り立ったアッシュは、まず広場の中央にある噴水に目をやった。
それは巨大な竜頭を台座にした美しい女性の像だった。
腰まで伸ばした長い髪に美麗な顔立ち。背には翼を、しなやかな肢体にはイブニングドレスを纏っており、両手を杯のように組んで空へとかざしている。その掌からは天に昇るような勢いで水が溢れ出ていた。
キラキラと陽光で輝く噴水を見上げながら、
「……これって、やっぱ《夜の女神》をモチーフにしてんだろうなぁ」
アッシュは誰ともなしに呟く。すると、隣に立つユーリィが瞳を輝かせて、
「うん、きっとそう。これは神話の一節――《悪竜》を倒した《夜の女神》が傷ついた大地を癒すため、星霊を世界へ解き放つ光景だと思う」
と、嬉しそうに解説する。彼女は創世神話を丸暗記するほど信心深いのだ。
どうやら四大陸全土に伝わる《夜の女神》の神話――世界に仇なす邪悪な竜と、それを討つ創世の女神の逸話は、島国であるこの国にも定着しているようだ。
アッシュは改めて広場を見渡した。
この石畳の広場は日中、露天商が市場を開いているので人が絶えることがない。今も客の呼び込みや、楽しげな談笑で活気づいていた。
「う~ん、ここで客を探すのはいいとしてもよ……」
アッシュは手を陽にかざして、
「……しっかし、この国、なんでこんなに暑いんだよ」
と思わず呻く。南方にあるこの国は温暖な気候だとは聞いていたが、まだ春に入ったばかりというのに、この陽気は一体何なのだろう……。
少しでも暑さを凌ぐため、アッシュは工房開業時に新調した白いつなぎの上着を脱ぐことにした。腰に差した手持ちハンマーの邪魔にならないように上着だけを腰から下ろす。これで上半身は黒いシャツのみになったので幾分かは暑さがマシになってきた。
パタパタと顔を手で扇ぐアッシュは、ふと隣に立つ少女に視線を移す。
彼女もまた工房の白いつなぎを着ているのだが、この暑さの中、顔色一つ変えずに立っている。
「……なあ、ユーリィ。お前は大丈夫なのか? 何なら先に帰ってもいいんだぞ」
アッシュの気遣いに、ユーリィは首を横に振る。
「大丈夫。私は暑さに強い。それよりも、お客さんを見つける方が死活問題」
「…………」
アッシュは何も言わず、少女を労わるように目を細めた。長い付き合いから、暑さに強いと言うユーリィが無理をしているのが分かったからだ。
アッシュは一度ふうと嘆息してから、ユーリィの背中に視線を向ける。
彼女の背中――そのつなぎには、とある紋章が刺繍されていた。
リボンで装飾された真円の赤枠の中に、ハンマーの図柄が刻印された金色の鐘。
それは、ユーリィがデザインしたクライン工房の工房章だった。
この国では、各工房はそれぞれの工房章を持っている。よって、工房章を刺繍したつなぎを着ることは、それだけで工房の宣伝になるのだ。わざわざ暑い中、ユーリィがつなぎを着てきたのはそういう意図からだろう。
ちなみにこの刺繍は先日完成したばかりのユーリィお手製のものなので、アッシュのつなぎにはまだ施されていない。彼がつなぎを着ているのはただ単に動きやすいからだけである。彼女に比べ、なんと嘆かわしいことか。
己が不甲斐なさをかみしめながら、アッシュは改めて決意する。
宣伝のため、暑さに耐えてつなぎを着る看板娘の心意気に応えるためにも、ここで必ず客を見つけなければならない、と。
「――が、その前に」
アッシュは一人、近くの露天商の元に赴き、物色を開始する。
「おや旦那。何かお探しで?」
にこやかな笑みを浮かべて尋ねてくる店主。
「ん? ああ、子供向けの冷たい飲みもんをな……」
氷水に浸された多種多様のボトルを凝視しながら、アッシュが答える。
「子供向けですかい? なら、こんなものもありますぜ」
と言って、店主は露店の奥に置いてあった冷凍ボックスから何かを取り出した。
それを見て、アッシュは感嘆の声をもらす。
「……へえ。露店で氷菓か。珍しいな」
店主が取り出したのは半透明のカップに入った氷菓だった。果汁を一口サイズの球状に凍らせた品だ。飲食店ではメジャーな品だが、管理の難しい露店にあるのは珍しい。
「まあ、最近では色々便利な道具も増えてきてますんで。それより旦那どうしやす?」
店主の言葉に、アッシュはわずかに考え込んだ後、
「……おし。そいつを一つくれ」
店主は笑みを浮かべ「まいど~」と、銅貨一枚と引き換えにカップに入った氷菓をアッシュに差し出した。アッシュはカップを手に、ユーリィの元に戻る。
そして、さっそく氷菓を一つ摘み上げ、ユーリィの口元に近付ける。
ユーリィは無言で口を開けた。氷菓を放り込む。少女は少し幸せそうに微笑んだ。
その様子に、アッシュも口元を綻ばせる。そして自分の口にも氷菓を一つ放り込みガリガリと噛み砕くと、カップをユーリィに手渡して、
「……でもさ、問題は、どうやって客を見つけるかだよな」
「ほひゃのこうぼうひかくでまふのがこうひつてきひゃとおもふ」
と、氷菓をリスのように頬張りながらユーリィがアドバイスらしき事を告げる。
訳すと「他の工房近くで待つのが効率的」と言っているらしい。
「う~ん……やっぱ、それが一番か。なんかハイエナみてえで嫌なんだが……」
この噴水広場の近くには有名工房が多数ひしめく街路地がある。少しばかり情けない気がするが、それが最善手だろう。気を取り直したアッシュは、とりあえず一番近い工房へと歩を進めようとして――ふと気付く。
何だろう? どうも周りが騒々しい。
広場を見渡すと、そこにはいつの間にか人の波が生まれていた。どうやら市場にいた人間のほとんどが、ガヤガヤとどこかに移動しているようだ。
その波に加わろうとしていた通行人の一人を捕まえ、アッシュは尋ねてみる。
「なあ、あんた! 随分と騒がしいが、何かあったのかい?」
すると、その通行人はやや興奮気味に教えてくれた。
「喧嘩だ、喧嘩! 騎士候補生同士がもめたらしい。鎧機兵同士の喧嘩だよ!」