雨桜
雨の日に突発的に思いついたものです。
「嗚呼、雨だ」
ぽつり。
窓ガラスに雫がついたとき、彼は同じタイミングでぽつり、と呟いた。
私もつられて窓の外を見るといつの間にか真っ黒な雲が出てきてざあざあと強い雨が降ってきている。
それを見て私は顔をしかめた。
洗濯を取り込み忘れたとか、買い物に行きたかったわけじゃない。それに夕方に雨が降るのは天気予報でも言っていた。
でも、できれば雨なんか降って欲しくなかった。何故なら…
「桜、散っちゃうかもね」
私が今一番気にかけている事を目の前の奴は何気なく言った。
「間に合わないかも、ね」
私は彼を睨みつけた。
昔からよく彼は私がその時一番心配している事を持ち出しては起きて欲しくないと願う事をさらりと言ってしまうのだ。もう、言われ慣れてしまったけどそれでも気分がいいものではない。
雨は一層勢いを増している。
外の暗さと私達がいる場所と明るさの違いが不安をさらに掻き立てる。
「去年も散るのは早かったね。今年はどうだろう」
独り言のように静かにゆっくりとしゃべる彼。けれど視線は決して私の方へは向かない。
彼の手の中には小さな桜の花。
桜の花といっても造花だ。布で作った桜。きちんとおしべとめしべの刺繍もされている。
桜の花はもう一つあった。そっちはどこか不格好で刺繍もよれよれだ。
不格好なのは私、ちゃんとしたのは彼が作ったものだ。
「てるてる坊主、作ったのかい?」
……。
「その様子だと作ったけどうまくできなかったって感じだね」
図星。
なんでわかったんだと再度睨むと彼は無言で入り口のゴミ箱を指差した。
そうだった。あのゴミ箱には一昨日作ったてるてる坊主が入っていた。
私はとても不器用らしく、何を作ってもきちんとしたものにはならない。
「せっかく作ったてるてる坊主を捨てたから雨が降ったのかな」
…私もそんな気がしていたところだ。
彼は机の上のティッシュを数枚輪ゴムを一つとって素早くてるてる坊主を作った。きちんとしたてるてる坊主を彼はマジックペンと共にこちらに投げた。
「君は絶対てるてる坊主の顔を書きたがるからね」
残念ながらそのとおりなので渋々といった様子をしながら(でも内心ではワクワクしながら)ペンのフタを取る。
のっぺらぼうだった顔は一転して笑顔になった。
それを彼に渡すと彼はベランダに行って物干し竿に吊るしてくれた。
「本当に君は表情を書くのがうまいな」
今の彼の言葉は皮肉だろうか。
いや、きっと彼は何も考えずに言ったんだ。そう信じたい。
私の思いを知ってか知らずか淡々と彼はしゃべり続ける。
「僕はモノを『作る』事は出来るけど表情を『作る』事はできない。だから僕は君が羨ましい」
彼のその言葉は何度も聞いた。その度に私の胸が痛むのを彼は知っているだろうか。
乱暴に彼の手から桜の花を奪い、糸を通してある針を手にとった。
彼は少しだけ顔を上げたが私の顔は見なかった。
チクチクチク。
「君は努力家なのか怠け者なのかよくわからないね」
チクチクチク。
「君はモノを『作ろう』とする努力はする」
チクチクチクチク。
「でも君は他人との関係を『作ろう』とする努力はしない」
チクチクチクチクチク。
「それと同じでね。僕は君の表情を『作ろう』とする努力はするけど、自分の表情を『作ろう』とする努力はしない、いやできないんだ」
チクチクチク…シクシクシク。
いつの間にか雨は弱まっていた。それでも私の胸の痛みは弱まらない。
彼が私の手元を見てよくできたねと言った。その声に感情はこもらない。
私も見ると確かに前よりはうまくなった…気がする。
彼はその桜と自分の桜を持って部屋の隅に置かれている箱に大事そうに入れた。箱にはたくさんの桜の花が溢れている。
他にもここにはいろんな花の箱がある。ほとんどが彼が作ったものだけど私が作ったものもある。でも一番たくさん入っているのは桜の箱だ。
しばらく彼は箱の中を見て私の隣に座った。
彼は出会ってからずっと私の隣に座る。そして私の顔は絶対に見ない。
私もいつも彼の隣にいる。そして絶対に言葉を話さない。
私達が言葉を交わすのは一緒に桜を見たときだけだ。
何故、と言われても大したことはない。ただ単に初めて私と彼が言葉を交わしたのが桜を見たときというだけだ。
ついでに言うと彼が表情を出すのもそのときだけ。それ以外では彼は絶対に笑わないし泣かないし怒らない。常に無だ。
「君が何故、そんなに桜を見に行きたいのか僕にはよくわからない」
…え。
「僕はもともと笑いたくもないし泣きたくもない。それに君だってしゃべりたくないから僕と一緒にいるんだろう」
珍しい、彼らしくない言動だ。
私を馬鹿にする(多分、本人にその気はないのだろうが)事はあっても彼は私の行動について否定的な言葉を口にした事はない。
それに私がしゃべらない理由を彼が話題に上げたのは出会ったその日以来だ。
今日は少し、イレギュラー。
「僕もそう思ったところだ。どうやら今日の僕は何かがずれているらしい」
本当に今日は珍しい。彼と意見が合うなんて。
窓の外の雨はもう目を凝らさないと降っているかわからないくらい弱くなっていた。
私はぐっと拳を握っていきなり立ち上がった。
「どうしたんだい?」
驚いた彼に何も言わず部屋から追い出す。
部屋には私以外いなくなると私は来ていた部屋着を脱いだ。
ポツポツ。
ビニール傘の上を雨水が跳ねる音がした。
私にはその音が珍しくてひたすら聞き入っていた。
隣にいる彼は珍しく困惑している。
今日は、イレギュラー。
だから私は今、彼と一緒に外へ出かけているのだ。
「君がこんな日に、しかも突然外に行くなんて…僕にはそんな経験ないんだけどな」
ビニール傘をさして隣を歩く彼は少しだけ大きな声でそう言った。
先ほど彼を部屋から追い出して着替えた私は部屋の外でなすすべなく立っていた彼に外に行きたいと意思表示をし、彼に連れ出してもらった。
滅多に外に出ない私は傘なんて持っていなかったから彼が持ってきてた傘に入れてもらう。
いつも座っているけど並んで歩くとその背の差に愕然とする。当然だ、彼は社会人、大人で私は子供なのだから。
「大人といってもダメ人間の方に分類されるだろうけどね」
私の考えを読み取った彼が前を向いてそう言う。
ダメ人間、というのがどういうのを指すのかは知らないがまだまだ若いしダメ人間と決め付けるのは早いと思う。
「いや、僕はダメな人間なんだ。人間として生きるのがこの上なく下手なんだ僕は」
時々彼は遠くを見てそう言う。その度に私の胸は痛むのだけれど今日は珍しくそんなに痛まなかった。雨が流してくれているのかもしれない。
大きな公園を少しだけ早歩きで通る。この公園の片隅に小さな桜の木があるのだ。その木の下で私と彼は言葉を交わした。
私は早く彼と話がしたくて思わず彼の手をとって小走りになった。彼の顔は、見えない。
桜はまだ散ってはいなかった。花びらがたくさん落ちてベンチに張り付いていたがそれよりもたくさんまだ咲いている。
雨に濡れる桜はとびきり綺麗だった。
「まだ、散ってなかったのか…」
走りながら私が濡れないように気を使っていた彼は少しだけ息切れしている。普段、運動していない事がバレバレだ。
「雨の桜なんか見る機会なかったな」
私も雨の桜は見た事がなかった。と、いうかそもそも私が外に出るときは彼がいつも一緒にいたから彼が見た事ないのなら私もない。
もう桜の木の下。私はここでならしゃべる事ができる。
「でもきっと皆、晴れた日の桜が好きなんだろうね」
「―わ、私は、好き、だよ」
「…そうかい」
一年ぶりに聞く私の声に驚くことなく彼は相槌を打つ。彼はまだ私を見てくれない。
「君が雨を好きなんて知らなかったな」
雨は好きだ。全部の音が紛れて本当の音が隠れちゃうから。でも彼の事も隠しちゃうからほんの少しだけ好きじゃない。
「…私は、知らないよ。あなたが、雨が好きなのか、嫌いなのか桜が好きなのか、嫌いなのか」
言いながら私は願っていた。
桜が嫌いだなんて言って欲しくない。エゴだって知っているけど。
「僕は、好きだよ」
「雨も桜も。雨は僕を隠してくれる。桜は僕を見つけてくれるから」
彼は微かに笑った。久々に見れた笑顔がなんだか私には自嘲にも昔を懐かしんでいるようにも見えた。
「君もそうだったらいいな」
ぽつり。
木から落ちてきた雫がぽつりと落ちてきた音と彼の言葉が重なる。
でも私は聞き逃さなかった。
「―私もそうだよ」
聞こえたのか聞こえなかったのかわからないけど彼はこちらを向いて私の目をみた。
そしてふわりと笑ったのだ。
ぽつり
ぽつり
まだ雨は止まないみたいだ。
『あなたはここで何をしているの?』
『…みんなから隠れているんだ』
『じゃあなんで笑っているの?』
『わからないよ。僕は自分の感情がわからないんだ』
『君はここで何をしているんだい?』
『…みんなから隠れているのよ』
『じゃあなんでそんな悲しそうな顔をしているんだい?』
『…私、本当にしゃべりたいことがわからないの。わからないのよ』
『じゃあ僕達は一緒だ』
『一緒?』
『そう、一緒。似た者同士だよ』
遠い昔のある春の事。
桜に隠れて器用な『彼』と不器用な『彼女』は似た者同士になった。
少し、意味深な場所があったかと思いますがもちろんわざとです。
ちなみに二人が出会ったのは『彼』が高校生、『私』が小学4年くらいのとしです。
人に合わすのに精一杯すぎて自分を見失った『彼』と人との付き合いが苦手で同じように人に合わせるしかない『私』。
二人が後にどうなるかは…