入れ替え屋
――あなたなら、どちらを選びますか。
娘が自殺した。いや、正確に言うなら自殺未遂だ。娘はまだ死んでいない。私は顔をあげて、集中治療室にいる娘を見た。顔の半分を覆っている包帯と、身体に繋がれている様々なコード。私は両手で顔を覆い、廊下にうずくまった。
就職先が決まらず引きこもっている娘に、上手く声をかけることもできなかった。部屋の中で毎日同じ景色を見ていた娘は、何を考えていたのだろう。マンションのベランダから飛び降りた時、娘が見た景色は黒いアスファルトだったのか、それとも青空だったのだろうか。
机の引き出しから出てきた便箋には、酷く震えた字でこう書かれていた。
『先にお父さんのところに行ってるね。お母さんは何も悪くない。わたしのせいなの。ばいばい』
「――……あの子を連れていかないで」
死んだ夫に向かって呟いた声は、ひんやりとした床に吸収された。そういえばあの人も、最期は色々な機械に繋がれていた。癌と闘って、闘い抜いて。そんなあの人を数秒でも延命した意味があったのかどうか、私には分からない。
娘はまだ二十二歳だ。可能性なんていくらでもあって、なのに今、その全てが消えようとしている。
私はもう四十六歳だ。――……もしも、
「代われるものなら、代わってやりたい?」
頭上から降ってきた、聞き覚えのない声。私は緩慢な動作で上を見た。
私の隣に立っていたのはやはり、見覚えのない女の子だった。高校生くらいだろうか。染めたとしか思えない人工的な深緑色の髪は短く、毛先はあちこちに跳ねていた。タイトな黒のTシャツとチェック柄のズボン、南京錠のアクセサリー。声を聞かなければ、男の子だと思うかもしれない。
「……ねえ、今そんなこと考えてた?」
試すような笑顔をこちらに向ける彼女。娘の友達かと考えてみたが、こんな友達の存在は聞いたことがない。第一、大学を卒業してから半年近く引きこもっていた娘は、友人とも疎遠になっていたはずだ。
「――どちら様、ですか」
「僕? さあ、誰だろう? 入れ替え屋、かな?」
私に訊かれても困る。次の言葉を探す私から視線を逸らすと、彼女は集中治療室の中を覗き込んだ。そして、
「ねえ。娘さんと入れ替われるとしたら、どうする?」
さらりとそんな質問をしてきた。私は間髪いれずに答える。
「入れ替わりますよ」
「へえ。じゃ、入れ替わる?」
「……はい?」
眉根を寄せる私に、声を押し殺して笑う彼女。私は思わず、イラついた声を彼女に向かって吐き捨てた。
「ふざけないでよ。――帰ってください」
「あれ、いいの? あと四日で、娘さん死んじゃうけど」
彼女は冷たく笑いながら、そう言い切った。私は再び耳を塞ぐと、娘にまで聞こえそうなくらいの大声で叫んだ。
「いい加減にして! もう帰ってよ!」
「……信じるかどうかは、おばさんに任せる。ねえ。僕には、彼女の将来が見えるんだ。あの子は四日後の夕方に死ぬ。どういう理屈とか根拠とか、そういうのは言えない。でも、間違いない」
今までにないくらい、静かな声。なのに何故か、耳を塞いでいた私にもはっきりと聞こえた。
「信じるかどうかは、おばさんに任せる。――……僕にはね。人の立場を、命を『入れ替える』能力があるんだ」
私は再び顔をあげた。先ほどよりも優しく細められた彼女の目。――何故か、ふいに泣きそうになった。
「……どういうことなの」
藁にもすがる、というのは正にこういうことなんだろう。普段の私なら、こんな見知らぬ女の子の言い分なんて聞いていない。けれど今の私は、彼女に大金を要求されても迷いなく差し出してしまいそうだった。
「おばさんとあの子を入れ替える。そのままの意味だよ。もちろん、魂だけじゃなくて身体ごとね。おばさんはこの集中治療室で死んで、あの子は生きることになる」
「――そんな夢みたいな話」
「できるんだ、僕には」
何故か自虐的に、彼女は笑った。
「ただし、入れ替えるにはいくつか条件がある。まず一つ目。彼女が死んだら、入れ替えることはできない。死んだ人間を生き返らせるなんて、僕にはできないから。だから、彼女が死ぬまで……あと四日で決めて」
それから、と彼女は付け加える。
「入れ替わった場合だけど。おばさんの記憶の一部だけ、娘さんに引き継がれる」
「……その、一部っていうのは?」
「今、こうして僕と話してる事」
無意識のうちに、ごくりと唾を飲み込んだ。――それってつまり、
「おばさんが身代わりで死んだ事実を、娘さんだけは知ることになる」
私の考えを見透かしたように、彼女は言い放った。そこに笑顔はない。ただ、事実を言っているだけのように見えた。
「入れ替わるかどうかは、おばさんが決めることだよ。ただ、入れ替わるのなら対価が必要になる」
「……いくら?」
「残念ながら、対価はお金じゃないんだ」
残念なのかどうか分からない、と突っ込む間余裕も与えず、彼女は続けた。
「おばさんの夢、一晩分。それが対価だ」
きっと、よほど間抜けな顔をしていたんだろう。私の方を見て彼女は笑った。廊下に膝をついて私と同じ目線になると、私の頬にゆっくりと右手をのばす。触れる。指先だけで。
「おばさんの夢に、僕が介入する。一晩だけ、これでもかってくらいの悪夢を見てもらう。それが対価」
「――そんなこと」
「できるんだ、僕には」
――冷え切ったその指が少しだけ震えていることに、彼女は気付いているのだろうか。
「……それだけで、いいの?」
知っている。今の私は判断力がない。普通ならこんな荒唐無稽な話、絶対に信じたりはしない。彼女がおかしいというのなら、きっと私もおかしくなっているんだ。けれど娘を救えるのなら、もうなんだっていい。
彼女は私の頬からそっと指を離すと、立ち上がった。
「対価はそれだけでいいよ。悪夢を見たあとで、入れ替わる気がなくなったらキャンセルすることもできる。それは、おばさんが決めることだ」
集中治療室を見つめる彼女の目は、どこまでも真剣だった。
「ねえ、どうする?」
その夜見た夢を、私は一生忘れないだろう。
夢の中で、私は誰かの声を聞き続けていた。何もかもが曖昧で、誰の声なのかすらも分からない。ただ、女の声だという事だけは分かった。
『死んでしまいたい』
『もう消えたい』
――もしかしたら、これは娘の声なのかもしれない。そう考えている私に、女の声が次々と降り注いできた。まるで、雨みたいに。
『あたしがあんなことしなきゃ』
『あたしのせいだ』
『なんで、なんであんなことしちゃったんだ』
『あたしが自殺しなければ、お母さんは死ななかったはずなのに』
『お母さん、どうして身代わりになったの?』
『どうして入れ替わったりしたの?』
『死ぬのはあたしでよかったのに。自分で死のうとしたのは、あたしなのに』
『どうして、あたしの代わりにお母さんが』
『あたしなんかが生きてる意味ないのに』
『そういえばお母さん、旅行したいって言ってたな』
『やりたいことがいっぱいあるんだって言ってた』
『あたしは、やりたいこともない』
『お母さんの夢を全部奪ってまで、生きる必要があったの?』
『あたしが』
『あたしが、お母さんを』
『あたしが、お母さんを、殺したんだ』
何年経っても、毎日繰り返す。繰り返し続ける。
『あたしが、お母さんを、殺したんだ』
ゆっくりと目を開けると、白い天井が見えた。ここが病院なのか自宅なのか、それすらも分からない。
視界の端に見える、深緑色の髪。目をやると、彼女がこちらを覗きこんでいた。
「おはよ。僕の見せた悪夢はどうだった?」
彼女は掠れた声で笑うと、右手を私の頬へと伸ばした。まるで、昨日みたいに。
震える指で頬をなぞる。まるで、私の頬を伝う涙を拭うかのように。
「ね、なかなか面白かったでしょ? ――……あたしの、昔話は」
彼女は気付いているんだろうか。自身の頬も、濡れていることに。
「……あなたは。あなたも、」
「ほら、時間がないよ」
寝起きでがさついている私の声を遮って、彼女は笑った。
「娘と入れ替わるのか、このまま死ぬのを待つのか。――ねえ、どうする?」
彼女は笑う。静かに、自虐的に。
細めた目から涙が一粒落ちて、私の頬に当たった。
――あなたなら、どちらを選びますか。