犬がニャーと鳴いて、猫がワンッと鳴く世界
ある朝、目を醒ましたら、なんだかいつもとは違った感じがした。
白い光が、薄いカーテンから漏れる部屋。涼しく穏やかな風が、ベッドで半身を起している僕を心地よく洗う。狭くも広くもない僕の部屋には白い壁紙が貼られているのだけど、その白はいつもよりもずっと白く思えた。
あれ。平日の朝の光景とは、こんなにも友好的なものだったろうか。
僕はそこで、少しそう悩む。
スッキリとした目覚めで、少しも辛くはなかった。いつもはスローモーな動きでスーツに着替えるのに、その朝は自然な動きで素早くできた。何も無理をしなくても、すんなりとそうできたんだ。更に、朝食がとても美味しく感じられた。ヨーグルトとサラダの相性はバッチリだし、トーストに塗ったバターの塩気とブルーベリージャムの甘酸っぱさは、互いを引き立て合っていた。ブルーベリーの果肉が潰れ、瑞々しい甘さが口の中で弾ける。牛乳でトーストを流し込めば、喉を通るその液体は、僕の渇きを優しく癒してくれた。
頭がハッキリしていたからなのか、少しも急いだつもりはないのに、いつもよりも五分程早く家を出れた。出勤する為に駅へと向かう。妙に身体が軽かったので、時間に余裕はあるのに思わず少しだけ駆けたりして。
そこで僕は少し不思議な、こんな想像をしてしまった。
ここは本当に僕が昨日まで暮らしていたのと同じ世界なのだろうか? もしかしたら僕は、自分でも気付かないうちに、別の世界に来てしまっているのかもしれない。その世界は元僕がいた世界ととてもよく似ていて、それで僕は別の世界に来た事に気付かないでいたんだ。きっと、この世界にも“僕”はいて、僕の家とそっくりなあの家で暮らしていたのだろう。その“僕”は、僕が昨日まで暮らしていた世界に僕と入れ違いで行っているに違いない。だから、その“僕”に鉢合わせする心配はない。
……ふふ。僕の代わりになった“僕”には悪いけど、この世界の方がずっと良いな。
そこまでを想像して、ふと思った。
でも、待てよ。この世界にだって何か悪い事があるかもしれない。油断はいけない。よく注意してみよう。
例えば、この世界では、犬がニャーと鳴いて、猫がワンッと鳴くのかもしれない。何が悪いとは説明できないのだけど、そんな世界には住みたくはない。少なくとも、今の僕はそう感じる。
歩き続けると、駅が見えてきた。たくさんの人がそこに歩いて行く。中には、僕には絶対に受け入れられないようなファッションの人も。まぁ、人の感性はそれぞれだ。否定すべきではないのだろう。
そこでまた僕はふと思った。
例え、ここが“犬がニャーと鳴いて猫がワンッと鳴く世界”だったとしても、僕はそれにやがて慣れていくのかもしれない。いや、そもそも、初めからそうだったと思い込むようになるかもしれない。初め僕は、犬がニャーと鳴くのを聞いて、それに驚くのだけど、聞き間違いだと思うに違いない。だけど、何度がそれを聞くうちに、徐々に本当にそう鳴いているのだと気付いていく。そして、つい職場でそれを口にしてしまうんだ。おかしく思われないかと不安になりながらも。
『ねぇねぇ、最近、犬がニャーって鳴いてないかい?』
すると、それを聞いた同僚は、そんな僕を不思議そうに見て、『何を言っているんだ? そんなの当たり前じゃないか』と、そう応えるんだ。何しろ、その世界で犬がニャーと鳴くのは当たり前の話だからね。きっと、猫ひろしはこの世界では、犬ひろしなんだ。
その同僚の反応に、僕は『ああ』と、そう納得してしまう。そうだったかな? そうだったに違いない。もし、そうじゃなかったら、もっとみんな、大騒ぎしているはずだものな。そんな風に考えるだろう。そして、自分の記憶の方を疑い始める。まさか自分が別の世界に来ているなんて、思いもしないからね。それで僕は、犬がニャーと鳴くのを当たり前だと受け入れるようになっていくんだ。
だけど、駅で電車を待っている時、そこまでを想像した僕は、別の可能性を考えた。
いや、待てよ。実は忘れているだけで、僕は何度か、そんな体験をしているのかもしれないぞ。犬がニャーと鳴く世界から、ワンッと鳴く世界に来ているのかも。もちろんそんなはずはないと思う。そんな記憶もないし。でも、そうでない事は、一体、どうやったなら証明できるのだろう?
それから僕は、普通に出勤して、普通に仕事を終わらして、普通に家に帰った。もちろん、犬がニャーと鳴く事なんかなく、僕はいつも通りのいつもの世界にいた。朝、快調に目覚めたお蔭か、仕事は随分とはかどってくれた。
家に帰ると付き合っている彼女が来ていた。勝手に上がり込んで、テレビで何かのクイズ番組を見ている。彼女は僕の存在に気付くと、出し抜けに「あら、おかえり。ねぇねぇ、今、この番組で面白いのをやってたのよ」とそう話しかけて来た。家に勝手に上がり込んだ人間が、その家の持ち主の帰りを受けて一番に言う台詞じゃないと思う。
僕は夕食を準備しようとしていたものだから、多少、面倒に感じながらも「ふーん」と、それに返した。すると彼女はこう続ける。
「シマウマってね、なんとワンッて鳴くんだって。犬みたいに。ね? 面白いでしょう? 笑っちゃう」
それを聞いて、もし仮に今、シマウマがニャーと鳴く世界から、ワンッと鳴く世界に来ているのだとしても、僕はそれには気付かないだろうな、とそう思った。