春の終わりのサロン
アーチ窓から落ちる光が、革装の表紙を撫でていく。紙の端が指に吸いつき、キティは読み差しの頁へ栞をすべらせた。息を吐くと、金のしおり紐が、春の埃を一筋だけ揺らした。
「マリヤ・ボルコンスカヤ伯爵夫人が――」
侍従の声の終わりを待たず、キティの瞳に光が差す。読み終えるのが惜しかった本を、惜しむ暇もなく閉じ、鏡の前へ。プリムがすぐ背に回り、襟元の布を整え、皺を指で溶かす。
このところ、胸の内側に名のない泡が生まれては弾けていた。指先ひとつ、歩幅ひとつまで仕込まれた「令嬢」の型。その奥で、形を持たない期待が小さく音を立てる。
(あの方なら、社交界の秘密を……たくさん。あんなに美しくて、完成された方なのだもの)
午後のサロンには、三つの輪。親しい家々の夫人たちが、窓辺と暖炉の脇、花を置いた丸卓を囲んでいる。扇の開閉、匙の微かな打音、暖炉の薪が裂ける湿った破裂。
話の波の端で、キティは隙のない所作で席に腰を落ち着けた。
「あら、キティ。ごきげんよう。今日は、一段と可愛いわね。胸元のレース、小粒の真珠があなたの肌に――藤色がよく映える」
「ごきげんよう、マリヤ様」
はにかむ笑みの裏で、キティは自分の頬の熱を自覚する。プリムの手が背中の布を一度だけ撫で、空気を平らにした。
「いよいよ社交界ね?」
「はい。今晩、初めて皆様にご挨拶いたします」
マリヤは扇を閉じ、目だけで悪戯をする。
「最初の舞踏会には、私も顔を出しましょう。お相手を選ぶところまで、見届けなくては」
「奥様がご一緒なら、心強いですわ。――きっと、その時の奥様は藤色をお召しになっている気がします」
「藤色?」
笑いが扇の陰で転がる。サロンの空気まで柔らかくなる。
「春の終わりの色でしょう? 優しくて、少し遠い。マリヤ様を見ていると、そんな色を思い出します」
「まあ。今夜は着替えるつもりでしたのに、それを聞くと、このままでいたくなるわ」
夫人の肩には、淡い藤色のショール。房の一本が、椅子の金具にかかっている。マリヤは振り向かずにそれを外した。細い指が、そこに房があることを、初めから知っていたかのように。
キティは、自分の膝に置いた両手を見た。
「社交界へ出る前の娘はね――皆、決まって同じ顔をするの。世界はこれから広がるのだと、信じて疑わない顔」
マリヤは茶を置き、わずかに声を落とす。
「でも不思議ね。振り返ってみると、あの頃の私は、世界をいちばん狭く見ていたのだわ」
「狭く……?」
「幸福ってね、まだ何も失っていない人ほど、形がはっきりしているものなの。はっきりしすぎて、時々、怖いのよ。形から零れ落ちるものが、見えないから」
プリムが盆を持つ手を、ほんの少しだけ強くした。キティは微笑を崩さず、スカートの端を親指と人差し指でつまむ。布の重みが、気持ちを引き留める。
窓辺では、劇場の新しい座席が話題になっていた。
「舞台がよく見えるようになりましたわね」
「ええ。でも、向こうの桟敷が見えにくくなってしまって」
「それは困りますわ。半分しか楽しめませんもの」
笑い声。マリヤもそちらへ顔を向け、扇をわずかに開いた。
キティには、その笑いに加わるまでの一呼吸が分からなかった。けれど、今夜からは分かるようになる。そう思うと、つまんでいた布をそっと放せた。
扉が静かに開き、シェルスキー公爵が入ってきた。手にした書簡を卓へ置き、娘を見る。
「準備はできたか、キティ」
「はい。できておりますわ」
「では、夕刻に」
礼法通りの言葉が落ちる。娘の肩に一度だけ触れる父の手。指輪の冷たさ。すぐに去る、掌の温もり。
胸の奥で、名のない泡がまた一つ弾けた。藤の色が、わずかに濃く見えた。
(幸福が怖い――。いまのわたくしには、まだ、言葉の輪郭の方が先に来る)
プリムは黙ってトレイの位置を半歩ずらした。匙が皿を打つ小さな音が、部屋の空気に波紋を置いた。
***
馬車の扉には、ヴィシンスキー家の紋章。揺れる車内で、青年と貴婦人が向かい合っていた。
「シェルスキー家のサロンと言えば、ロマノヴィア王国でも頂点をなすと聞きます。そのようなサロンにご紹介いただき、ありがとうございます。伯母様」
「ええ。あちらでは、妙な知識のひけらかしは慎み、エスプリの効いた会話にも早く慣れることです。そうですわね。このサロンは王都で最もエレガントな――」
「今日から社交界に出る御令嬢がいるとか?」
「そうですわ。仲良くすることですよ。シェルスキー家と縁を持つことを、不都合と考える家などないでしょうからね」
「どんな方なのだろう」
「ほら、見えてきましたよ」
小高い丘。その頂に、深い堀をめぐらせたシェルスキー家の邸宅。
馬車は石橋を渡り、鉄柵の外門――グリーユ・ドヌールを抜けた。中庭を囲む、整然とした古典的な円柱。その間に並ぶ彫像。窓枠にまで細かな彫刻が施され、傾く光が、石の葉の一枚一枚に影をつけていた。
レオニードは窓へ顔を寄せた。伯母の扇が、膝の上で一度だけ閉じる。彼は背を戻し、上着の裾を整えた。
馬車が止まる。
伯母に続いて玄関を抜け、サロンへ。足を踏み入れたレオニードの目を、まず暖炉が捉えた。
床から天井近くまで立ち上がる、石造りの暖炉飾り。その下で、薪が赤く燃えている。ぱちり、と乾いた音。客たちの話し声が途切れるたび、火の音がこちらまで届いた。
レオニードは暖炉から目を離し、サロンを見渡した。
昼の名残を帯びた窓。窓と窓の間に、細い金縁の鏡。そこに映る客たちの横顔が、こちらの会話を聞いているように見える。青い陶器の壺には白い花。絨毯の深い赤を、婦人たちの裾がゆっくり渡る。
公爵への挨拶を終えると、伯母は扇の先で甥の袖を押した。
「肩に力が入りすぎです。軍の閲兵ではございませんよ」
「申し訳ありません」
「謝るほどのことでもありません」
伯母はもう、丸卓の夫人へ微笑んでいた。
「お久しぶりですわ。お嬢様はお元気?」
「ええ。新しい帽子を三つも買いまして」
「それは、お元気ね」
杯に触れる指、椅子を引く手。人々が少しずつ場所を譲り、話の輪が、ほどけずに形を変える。レオニードはその動きを眺めた。立つ場所を探しているうちに、伯母は既に座っている。
暖炉のそばでは、南部から戻った男爵が、街道の改修について話していた。
「おかげで、旅が半日も短くなりました」
「では奥様への手紙も、半日早く届きますのね」
「それが、帰宅が早まったもので、書く前に着いてしまいました」
「まあ。道路がよくなると、夫は筆不精になるのね」
男爵が両手を広げる。婦人たちの笑い。その話に、レオニードも口を開きかけた。旅先の橋のことが浮かんだのだ。
伯母の横顔を見て、閉じる。
侍従が寄ってきた。
「公爵がお呼びでございます」
レオニードは、窓辺の輪へ案内された。
藤色のドレス。胸元の小粒の真珠。こちらを見て立ち上がった令嬢の裾が、椅子の脚をかすめた。音を立てずに戻る布。その動きのあとに、少女の微笑が来た。
「ヴィシンスキー家のレオニード君だ。伯爵夫人の甥に当たる」
「初めまして。キティ・シェルスカヤと申します」
「お目にかかれて、光栄です」
その隣には、既に一人の青年。
「オルロフ家のヴィクトル君とは、顔見知りかな」
「父から、お名前は」
そうレオニードが言うと、ヴィクトルがレオニードを見る。
「では、ここで知り合っていただきましょう」
キティが二人の間を見て微笑んだ。
ヴィクトルの淡い灰色の目。襟元には小さな青い石のピン。手袋を持つ手まで、居場所を心得ている。公爵が別の客に呼ばれると、青年はその背へ短く会釈し、すぐキティに顔を戻した。
「藤色がお好きなのですか?」
「ええ。とても。お二人は、お好きな花などございますか?」
ヴィクトルは白い花の壺へ一度目を向けた。
「私は、特には。ただ、あなたには白もお似合いになるかと」
「白ですか?」
「はい。あなたは、そう、まるで――雪解けの朝に咲いた、一輪の白百合のように清らかですから」
「まあ……ヴィクトル様は」
キティの扇が胸元へ上がる。真珠の光が、その陰に半分隠れた。
レオニードは、握っていた手袋を持ち直した。
「私は……ただ、キティ様には、何でも似合う気がいたします」
「ありがとうございます。お二人とも親切でいらっしゃるのね」
笑みがこちらにも向く。レオニードはほっとして、何か続けようとした。
「初めての夜には、誰もが親切でなくては」
ヴィクトルの声が、軽やかに間へ入る。
「けれど、今夜は容易です。お世辞を考える必要がございません」
キティは扇を閉じた。閉じてから、笑いを隠すものがなくなったことに気づき、また少しだけ開いた。
ヴィクトルの目が、その動きを追っている。
(いま、見ていらしたわ)
昼間まで、扇は教えられた位置へ持っていくものだった。それが今、誰かに見られ、その人の目に笑みを作っている。
キティは膝の上で、指を一度そろえた。
「舞踏会は、お好きですか?」
「今晩のものは、きっと好きになりますわ」
ヴィクトルが微笑む。
「では、私にも一曲、お願いいたします」
「ええ」
短い返事。けれど、そのあとにも何か言ったような気がした。言葉にならないものが、扇の骨の間を抜けて、青年へ届いたような。
プリムが茶を運んできた。キティの前に杯を置き、二人の青年にも差し出す。
「レオニード様にも、お願いできますか」
「もちろんです。喜んで」
今度はすぐに答えられた。キティは杯を受け取り、小さく頷く。
隣の輪から、外国の公使夫人の笑い声。花の壺の向こうでは、伯母が誰かの名前を聞き返している。奥の鏡に、白い髭の老人が一人増えた。
キティは茶を一口だけ飲んだ。
甘さは、いつもと同じ。けれど杯を置く手まで、今夜は誰かに見ていてほしかった。
***
舞踏室の扉が開く。
奥行きのある、金色の明るさ。壁に並ぶ燭台、その一つ一つに分かれた炎が、鏡の中でも燃えている。磨かれた床へ落ちる、長い窓の青。夕暮れの最後の色を、夫人たちの宝石が拾う。
サロンの輪が、細い流れとなって扉をくぐる。先に入った紳士が振り向き、後ろの婦人へ手を差し出した。扇が閉じる。手袋の指が、その掌へ重なる。
「今夜は、お嬢様のために新しい曲を頼まれたのですって?」
「ええ。公爵が」
「では、古い曲ばかり踊る私たちは、少し若返れますわね」
マリヤの声。昼のショールを外した肩に、藤色の薄布。キティと目が合うと、夫人は扇の陰で片目を細めた。
キティは笑った。今度は、すぐに。
最初の挨拶、父に伴われて歩く短い一巡。名前を呼ばれ、礼をし、顔を上げる。幾つもの目。優しく頷く目も、ドレスの裾まで確かめる目もある。そのすべてへ、キティは教わった微笑を返した。
音楽が始まった。
レオニードの白い手袋が、彼女の前に差し出される。
「お願いいたします」
「こちらこそ」
彼の手は、触れる前に一瞬止まった。キティが指を置くと、ようやく握る。二人の間に、礼法どおりの距離。
一歩、二歩。レオニードの目が、彼女の肩越しへ向く。先を行く組と、壁際の椅子。彼はそちらを確かめ、キティの裾が触れないように回った。
「随分、遠くまでご覧になりますのね」
「ぶつかってしまわないかと」
「わたくしのことも、ご覧になってくださいませ」
レオニードがこちらを見た。真面目な顔に驚きが浮かび、キティは思わず笑ってしまう。
「申し訳ありません」
「謝るほどのことではございませんわ」
伯母と同じ言葉だった。レオニードも、そこで初めて笑った。
一巡して戻るころには、キティの指の冷たさも消えていた。青年が手を離し、深く礼をする。彼女は、それに少しだけ遅れて礼を返した。
壁際へ戻ると、プリムが扇を渡してくれた。茶のときと同じ位置にある、その手。キティは受け取り、指先で一度だけ開いた。
次の曲には、ヴィクトル。
「白百合を、お借りしても?」
「まだ藤色ですのよ」
「では、今夜だけ私の見間違いということに」
ヴィクトルの掌には、ためらいがなかった。キティの指を受け止め、そのまま歩き出す。彼女は、歩き始める合図を待つ必要さえなかった。
床の青が、足元を流れる。白い花を挿した壺。母親たちの並ぶ椅子。肩越しに遠ざかり、また戻ってくる同じ景色。その中で、青年の灰色の目だけが、ずっと同じ距離にあった。
「緊張なさっていますか?」
「少し。けれど、もう大丈夫ですわ」
「それはよかった」
ヴィクトルが微笑む。キティも、微笑んだ。
教わったとおりの歩幅。その内側で、彼の手の力に合わせて、ほんの少しだけ足を伸ばす。絹の裾が広がり、彼の靴を追う。誰にも教わらなかった一歩。
(こんなふうに、踊れるのね)
曲が終わるのが、惜しかった。
「また、後ほど」
壁際まで送ってくれたヴィクトルが、手を離したあとも一度だけ顔を寄せる。
「ええ」
返事をしたキティの耳元で、真珠の飾りが揺れた。
次の紳士が来る。父の知人の息子だった。領地の話をしながら踊り、礼をして去っていく。キティはそのあとも二人と踊った。名前は忘れなかった。笑みも、礼も、滞りなく。
舞踏室の入口に、小さな人の集まり。
遅れて到着したナタリヤ・ラドミルスカヤ侯爵令嬢へ、夫人たちが声をかけている。
白いドレスに、金糸の細い葉。胸元には琥珀。豊かな黒髪を高く結い上げ、白い首筋を惜しげなく見せている。唇の紅。燭光を深く含む黒い目。
話していた紳士が言葉を切った。夫人の扇が止まり、奥の椅子からも顔が上がる。ナタリヤはその視線の中を、歩幅も変えずに進んだ。笑ったときに、浮かぶ笑くぼ。扇の房を指に巻く、その癖まで目を引いた。
キティは扇を持ち直した。レオニードの目だけが、こちらに残っていた。目が合うと、彼は小さく会釈した。
「お待ちしていましたのよ」
「ごめんなさい。母が出がけに、手袋を替えると申しましたものですから」
「それでは仕方がございませんわ。あれは大切な問題ですもの」
笑い声。その間に、ヴィクトルがいる。
ナタリヤが彼を見て、扇を閉じた。
音楽が変わる。
キティは杯を持ったまま、二人が床へ進むのを見た。
ヴィクトルの手が、令嬢を迎える。微笑を作る前に、口元がほころんでいた。ナタリヤが何か言うと、青年は顔を寄せ、笑いながら聞き返す。彼女が笑えば、彼も笑う。灰色の目が、半ば閉じるほどに。
先ほどキティを見ていたときの、整った微笑はそこになかった。
ナタリヤが、上気した顔をほんの少し傾けた。ヴィクトルの肩も、そちらへ傾く。
回る二人。白い裾の金糸が、炎を細く引いていく。キティと踊ったときには静かだった青年の口元が、今は何度も動いていた。曲の間じゅう、話すことがあるのだ。
キティは杯を卓へ置いた。
ナタリヤが一度、遠くの鏡を見る。ヴィクトルはその横顔を見ている。曲が終わり、彼女が手を引こうとすると、青年の指が一瞬だけ遅れた。
キティには、その遅れが見えた。
「お嬢様、お飲み物は」
「いただきましたわ」
答えてから、杯が満ちたままなのに気づく。
プリムは何も言わず、卓へ目を向けた。
「少し、襟元を直したいの」
「こちらへ」
扉の脇の、小さな控えの間。窓が一つ、鏡が一つ。舞踏室の金色が届かない場所に、蝋燭が二本だけ燃えている。
プリムが扉を半分閉じた。
「お嬢様……」
「あんな女に、あのような顔を見せて」
自分の声の尖りに、キティ自身が驚いた。唇を結ぶ。結んだあとに、また言葉が来る。
「わたくしは、道化ですわ」
扇を持つ指が強くなる。骨の一本が、掌に痛かった。
プリムは白いハンカチを開いた。キティの目の下へ、折った角をそっと当てる。触れるまで、涙がそこにあると分からなかった。
隣では次の曲。扉の隙間から、一組の笑い声が近づき、また遠ざかる。
鏡の中に、藤色のドレス。昼間よりも、よく似合っているように見えた。それが、恥ずかしかった。
キティは鏡から顔を背けた。
しばらくして、廊下に靴音。
プリムが振り返り、扉の隙間へ身体を寄せる。レオニードがそこにいた。手袋を手に持ち、彼女の向こうを見ようとして、すぐ目を戻した。
「キティ様は、こちらに?」
キティは頷く。プリムが少しだけ扉を開いた。
「もう一度、お相手願えませんか?」
声は、先ほどより低かった。
「今は、お見せできる顔ではありません」
青年の足が止まる。
「では……また今度、お願いいたします」
「ごめんなさい」
レオニードは礼をした。プリムにも小さく頷き、廊下へ戻る。
白い手袋が、扉の向こうへ消えた。
キティは目を閉じた。次にハンカチが触れる場所を、もう知っていた。
***
翌週、シェルスキー家のサロンには、南から届いた菓子が並んだ。
薄い砂糖の膜。その下に、杏の色。公使夫人が一つ口に入れ、故郷のものとは違うと笑った。隣の夫人が、では故郷へ行く楽しみが残りましたわね、と答える。
キティの椅子には、誰も座っていなかった。
レオニードは伯母に伴われ、窓辺で茶を飲んだ。公爵が娘は休んでいると言う。彼は頷き、それ以上は尋ねなかった。
次の訪問には、詩人が一人来ていた。朗読を頼まれ、まだ完成していないと断る。完成をお待ちしていたら春が終わってしまいますわ、とマリヤが言い、詩人は懐から紙を出した。
レオニードは聞いていた。韻の終わりで、階段に近い扉を見る。そこが開き、侍従が銀の盆を持って入ってきた。
茶は、気づくと冷めている。
「今日は珍しく、おとなしいのね」
帰りの馬車で、伯母が言った。
「いつも、おとなしいと思いますが」
「ええ。けれどいつもは、何か言いたそうになさっているわ」
レオニードは窓の外を見た。丘を下りる石橋。堀の縁の草が、最初に来た日より長い。
その夜、便箋を出した。
初めの一枚には、伯母なら気に入りそうな挨拶を書いた。次の一枚には、白い花のことを。どちらも、机の端へ置く。
三枚目の紙の上で、ペンが止まった。
――あの晩、あなたに何でも似合うと申し上げたのは、本当です。けれど、それだけをお伝えしたくて、この手紙を書いているのではありません。
窓辺の令嬢。扇を閉じて、また開いた指。舞踏室で、こちらを見てくださいと言ったときの笑い。
彼は続きを書いた。途中で一度、インクを乾かす。待つあいだにも次の言葉が浮かび、乾く前に手を戻してしまう。小指の下へ、薄い青がついた。
封をした手紙を、翌朝、侍従へ託した。
キティの部屋では、夕方の光が床の途中で止まっていた。
本は、同じ頁に栞を挟んでいる。続きを少し読み、前へ戻る。窓の外で庭師が梯子を運んでいた。足元に気をつけるよう、もう一人が声をかける。
プリムが手紙を持ってきた。
「ヴィシンスキー家のレオニード様からでございます」
キティは封蝋を見た。ヴィシンスキー家の紋章。縁の細い線まで、くっきりと残っている。
紙を開く。
端正に始まった文字が、途中から少しずつ傾いている。行の終わりに、もう一語を入れようとした跡。最後の署名だけは、広い場所にゆったり置かれていた。
――お顔を拝見できなかったことは、残念でした。けれど、あの一曲を踊っていただけたことを、私は今も嬉しく思っています。あなたがお笑いになったとき、ようやく私も、あの部屋にいてよいのだと思えました。
キティはそこで指を止めた。
――またお目にかかれたら、今度は周りの組ばかり見ないようにいたします。
口元が、少し動いた。
「プリム」
「はい」
「お父様は、明後日もお客様をお呼びになりますか」
「そのご予定でございます」
キティは手紙を折った。最初の折り目を確かめ、そこへ指を重ねる。
「では、藤色のドレスを」
「かしこまりました」
プリムは椅子の背のショールを取り、衣装部屋へ向かった。布が開く音。引き出しの金具の小さな響き。キティは手紙を膝に置き、その音を聞いていた。
再び、午後のサロン。
アーチ窓を少し開けてある。白い花の匂いに、庭の湿った土の匂いが混じった。雨上がりの枝から、まだ時々、雫が落ちる。
暖炉の火は小さくなっていた。天井近くまで届く石の飾りは同じなのに、レオニードには、窓辺の椅子の方が先に見えた。
藤色のドレス。
キティが顔を上げる。手にしていた扇を、膝へ置いた。
「ごきげんよう、レオニード様」
「ごきげんよう。……もう、大丈夫なのでしょうか」
「ええ。ご心配をおかけしたみたいで。あなたのお手紙、読ませていただきましたわ」
「全て、本心です」
言ってから、青年は椅子の背へ手をかけた。キティが座るよう目で促すまで、そのままでいる。
「わたくしなど……」
膝の扇へ指を置く。骨の端には、細い金の線。あの晩、掌へ押しつけたところを、親指がなぞった。
レオニードは、彼女の顔を見ていた。
「あの日、お好きな花があるかと、お尋ねになりましたね」
「ええ」
「お答えする前に、別のお話になってしまいました。私は、アマラントが好きです。以前、旅先で見た花です」
「どのような花でしょう?」
「紅い花です。小さな花が集まって、房になっている。白百合のような可憐な花とは言えません。でも、雨風にも負けずに咲いている。ずっと変わらず」
レオニードは、白い花の壺へ目を向けた。
「宿の庭にあったのです。一晩、ひどい雨が降りまして。翌朝には庭の椅子が倒れ、鉢も一つ割れていた。けれど、その花は昨日と同じところで、同じ色をしていました」
「折れずに?」
「少し傾いてはいました。宿の主人が土を寄せて、起こしていましたよ」
「では、その方も、お好きだったのでしょうね」
青年が彼女を見る。
「そうかもしれません。私は、名前を聞くことしか考えませんでした」
窓から風。キティの袖の薄布が、卓の縁へ触れた。
丸卓では、詩人の新作が話題になっていた。マリヤが、完成した途端に直したくなるのですから困りますわね、と言う。伯母が頷きながら、レオニードを一度見た。その扇は、開いたまま。
プリムが茶を運んでくる。レオニードは自分の手袋を膝へ移し、盆のために卓を空けた。キティはその手の小指に、ごく薄いインクの跡を見つけた。
「紅がお好きなのですね」
「あの花を見てからは」
キティは、手紙の文字を思い出した。広い余白へ置かれた署名。そこへ至る、少し急いだ行。
「その町は、どちらにございますの?」
「南へ、馬車で五日ほど。海からも少し離れています」
「随分遠いのね」
「伯母は、見るべきものが何もない町だと言っていました」
「まあ。花がありましたのに」
レオニードが笑った。キティも、笑う。
杯から、細い湯気。青年は旅の道筋を話し始めた。途中の橋、海から来る荷馬車、宿の門に吊るされた小さな鈴。キティが問い返すと、言いかけた言葉を止めて、そちらに答える。
扉が開いた。次の客の名前を、侍従が告げる。
公爵が立ち上がる。夫人たちの輪が、少しだけ広がった。
キティは閉じた扇を卓へ置いた。
「そのお話、初めから聞かせていただけますか。旅にお出になったところから」
レオニードは頷いた。カップを置く音が、彼の返事に少し遅れる。
アーチ窓から、春の光。藤色の袖と、卓の白い花と、青年の指に残る薄い青。その上を同じ明るさが、ゆっくり渡っていった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
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