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春の終わりのサロン

作者: 佐原 灯
掲載日:2026/10/18

 アーチ窓から落ちる光が、革装の表紙を撫でていく。紙の端が指に吸いつき、キティは読み差しの頁へ栞をすべらせた。息を吐くと、金のしおり紐が、春の埃を一筋だけ揺らした。


「マリヤ・ボルコンスカヤ伯爵夫人が――」


 侍従の声の終わりを待たず、キティの瞳に光が差す。読み終えるのが惜しかった本を、惜しむ暇もなく閉じ、鏡の前へ。プリムがすぐ背に回り、襟元の布を整え、皺を指で溶かす。


 このところ、胸の内側に名のない泡が生まれては弾けていた。指先ひとつ、歩幅ひとつまで仕込まれた「令嬢」の型。その奥で、形を持たない期待が小さく音を立てる。


(あの方なら、社交界の秘密を……たくさん。あんなに美しくて、完成された方なのだもの)


 午後のサロンには、三つの輪。親しい家々の夫人たちが、窓辺と暖炉の脇、花を置いた丸卓を囲んでいる。扇の開閉、匙の微かな打音、暖炉の薪が裂ける湿った破裂。


 話の波の端で、キティは隙のない所作で席に腰を落ち着けた。


「あら、キティ。ごきげんよう。今日は、一段と可愛いわね。胸元のレース、小粒の真珠があなたの肌に――藤色がよく映える」


「ごきげんよう、マリヤ様」


 はにかむ笑みの裏で、キティは自分の頬の熱を自覚する。プリムの手が背中の布を一度だけ撫で、空気を平らにした。


「いよいよ社交界ね?」


「はい。今晩、初めて皆様にご挨拶いたします」


 マリヤは扇を閉じ、目だけで悪戯をする。


「最初の舞踏会には、私も顔を出しましょう。お相手を選ぶところまで、見届けなくては」


「奥様がご一緒なら、心強いですわ。――きっと、その時の奥様は藤色をお召しになっている気がします」


「藤色?」


 笑いが扇の陰で転がる。サロンの空気まで柔らかくなる。


「春の終わりの色でしょう? 優しくて、少し遠い。マリヤ様を見ていると、そんな色を思い出します」


「まあ。今夜は着替えるつもりでしたのに、それを聞くと、このままでいたくなるわ」


 夫人の肩には、淡い藤色のショール。房の一本が、椅子の金具にかかっている。マリヤは振り向かずにそれを外した。細い指が、そこに房があることを、初めから知っていたかのように。


 キティは、自分の膝に置いた両手を見た。


「社交界へ出る前の娘はね――皆、決まって同じ顔をするの。世界はこれから広がるのだと、信じて疑わない顔」


 マリヤは茶を置き、わずかに声を落とす。


「でも不思議ね。振り返ってみると、あの頃の私は、世界をいちばん狭く見ていたのだわ」


「狭く……?」


「幸福ってね、まだ何も失っていない人ほど、形がはっきりしているものなの。はっきりしすぎて、時々、怖いのよ。形から零れ落ちるものが、見えないから」


 プリムが盆を持つ手を、ほんの少しだけ強くした。キティは微笑を崩さず、スカートの端を親指と人差し指でつまむ。布の重みが、気持ちを引き留める。


 窓辺では、劇場の新しい座席が話題になっていた。


「舞台がよく見えるようになりましたわね」

「ええ。でも、向こうの桟敷が見えにくくなってしまって」

「それは困りますわ。半分しか楽しめませんもの」


 笑い声。マリヤもそちらへ顔を向け、扇をわずかに開いた。


 キティには、その笑いに加わるまでの一呼吸が分からなかった。けれど、今夜からは分かるようになる。そう思うと、つまんでいた布をそっと放せた。


 扉が静かに開き、シェルスキー公爵が入ってきた。手にした書簡を卓へ置き、娘を見る。


「準備はできたか、キティ」


「はい。できておりますわ」


「では、夕刻に」


 礼法通りの言葉が落ちる。娘の肩に一度だけ触れる父の手。指輪の冷たさ。すぐに去る、掌の温もり。


 胸の奥で、名のない泡がまた一つ弾けた。藤の色が、わずかに濃く見えた。


(幸福が怖い――。いまのわたくしには、まだ、言葉の輪郭の方が先に来る)


 プリムは黙ってトレイの位置を半歩ずらした。匙が皿を打つ小さな音が、部屋の空気に波紋を置いた。



***



 馬車の扉には、ヴィシンスキー家の紋章。揺れる車内で、青年と貴婦人が向かい合っていた。


「シェルスキー家のサロンと言えば、ロマノヴィア王国でも頂点をなすと聞きます。そのようなサロンにご紹介いただき、ありがとうございます。伯母様」


「ええ。あちらでは、妙な知識のひけらかしは慎み、エスプリの効いた会話にも早く慣れることです。そうですわね。このサロンは王都で最もエレガントな――」


「今日から社交界に出る御令嬢がいるとか?」


「そうですわ。仲良くすることですよ。シェルスキー家と縁を持つことを、不都合と考える家などないでしょうからね」


「どんな方なのだろう」


「ほら、見えてきましたよ」


 小高い丘。その頂に、深い堀をめぐらせたシェルスキー家の邸宅。


 馬車は石橋を渡り、鉄柵の外門――グリーユ・ドヌールを抜けた。中庭を囲む、整然とした古典的な円柱。その間に並ぶ彫像。窓枠にまで細かな彫刻が施され、傾く光が、石の葉の一枚一枚に影をつけていた。


 レオニードは窓へ顔を寄せた。伯母の扇が、膝の上で一度だけ閉じる。彼は背を戻し、上着の裾を整えた。


 馬車が止まる。


 伯母に続いて玄関を抜け、サロンへ。足を踏み入れたレオニードの目を、まず暖炉が捉えた。


 床から天井近くまで立ち上がる、石造りの暖炉飾り。その下で、薪が赤く燃えている。ぱちり、と乾いた音。客たちの話し声が途切れるたび、火の音がこちらまで届いた。


 レオニードは暖炉から目を離し、サロンを見渡した。


 昼の名残を帯びた窓。窓と窓の間に、細い金縁の鏡。そこに映る客たちの横顔が、こちらの会話を聞いているように見える。青い陶器の壺には白い花。絨毯の深い赤を、婦人たちの裾がゆっくり渡る。


 公爵への挨拶を終えると、伯母は扇の先で甥の袖を押した。


「肩に力が入りすぎです。軍の閲兵ではございませんよ」


「申し訳ありません」


「謝るほどのことでもありません」


 伯母はもう、丸卓の夫人へ微笑んでいた。


「お久しぶりですわ。お嬢様はお元気?」

「ええ。新しい帽子を三つも買いまして」

「それは、お元気ね」


 杯に触れる指、椅子を引く手。人々が少しずつ場所を譲り、話の輪が、ほどけずに形を変える。レオニードはその動きを眺めた。立つ場所を探しているうちに、伯母は既に座っている。


 暖炉のそばでは、南部から戻った男爵が、街道の改修について話していた。


「おかげで、旅が半日も短くなりました」

「では奥様への手紙も、半日早く届きますのね」

「それが、帰宅が早まったもので、書く前に着いてしまいました」

「まあ。道路がよくなると、夫は筆不精になるのね」


 男爵が両手を広げる。婦人たちの笑い。その話に、レオニードも口を開きかけた。旅先の橋のことが浮かんだのだ。


 伯母の横顔を見て、閉じる。


 侍従が寄ってきた。


「公爵がお呼びでございます」


 レオニードは、窓辺の輪へ案内された。


 藤色のドレス。胸元の小粒の真珠。こちらを見て立ち上がった令嬢の裾が、椅子の脚をかすめた。音を立てずに戻る布。その動きのあとに、少女の微笑が来た。


「ヴィシンスキー家のレオニード君だ。伯爵夫人の甥に当たる」


「初めまして。キティ・シェルスカヤと申します」


「お目にかかれて、光栄です」


 その隣には、既に一人の青年。


「オルロフ家のヴィクトル君とは、顔見知りかな」


「父から、お名前は」


 そうレオニードが言うと、ヴィクトルがレオニードを見る。


「では、ここで知り合っていただきましょう」


 キティが二人の間を見て微笑んだ。


 ヴィクトルの淡い灰色の目。襟元には小さな青い石のピン。手袋を持つ手まで、居場所を心得ている。公爵が別の客に呼ばれると、青年はその背へ短く会釈し、すぐキティに顔を戻した。


「藤色がお好きなのですか?」


「ええ。とても。お二人は、お好きな花などございますか?」


 ヴィクトルは白い花の壺へ一度目を向けた。


「私は、特には。ただ、あなたには白もお似合いになるかと」


「白ですか?」


「はい。あなたは、そう、まるで――雪解けの朝に咲いた、一輪の白百合のように清らかですから」


「まあ……ヴィクトル様は」


 キティの扇が胸元へ上がる。真珠の光が、その陰に半分隠れた。


 レオニードは、握っていた手袋を持ち直した。


「私は……ただ、キティ様には、何でも似合う気がいたします」


「ありがとうございます。お二人とも親切でいらっしゃるのね」


 笑みがこちらにも向く。レオニードはほっとして、何か続けようとした。


「初めての夜には、誰もが親切でなくては」


 ヴィクトルの声が、軽やかに間へ入る。


「けれど、今夜は容易です。お世辞を考える必要がございません」


 キティは扇を閉じた。閉じてから、笑いを隠すものがなくなったことに気づき、また少しだけ開いた。


 ヴィクトルの目が、その動きを追っている。


(いま、見ていらしたわ)


 昼間まで、扇は教えられた位置へ持っていくものだった。それが今、誰かに見られ、その人の目に笑みを作っている。


 キティは膝の上で、指を一度そろえた。


「舞踏会は、お好きですか?」


「今晩のものは、きっと好きになりますわ」


 ヴィクトルが微笑む。


「では、私にも一曲、お願いいたします」


「ええ」


 短い返事。けれど、そのあとにも何か言ったような気がした。言葉にならないものが、扇の骨の間を抜けて、青年へ届いたような。


 プリムが茶を運んできた。キティの前に杯を置き、二人の青年にも差し出す。


「レオニード様にも、お願いできますか」


「もちろんです。喜んで」


 今度はすぐに答えられた。キティは杯を受け取り、小さく頷く。


 隣の輪から、外国の公使夫人の笑い声。花の壺の向こうでは、伯母が誰かの名前を聞き返している。奥の鏡に、白い髭の老人が一人増えた。


 キティは茶を一口だけ飲んだ。


 甘さは、いつもと同じ。けれど杯を置く手まで、今夜は誰かに見ていてほしかった。



***



 舞踏室の扉が開く。


 奥行きのある、金色の明るさ。壁に並ぶ燭台、その一つ一つに分かれた炎が、鏡の中でも燃えている。磨かれた床へ落ちる、長い窓の青。夕暮れの最後の色を、夫人たちの宝石が拾う。


 サロンの輪が、細い流れとなって扉をくぐる。先に入った紳士が振り向き、後ろの婦人へ手を差し出した。扇が閉じる。手袋の指が、その掌へ重なる。


「今夜は、お嬢様のために新しい曲を頼まれたのですって?」

「ええ。公爵が」

「では、古い曲ばかり踊る私たちは、少し若返れますわね」


 マリヤの声。昼のショールを外した肩に、藤色の薄布。キティと目が合うと、夫人は扇の陰で片目を細めた。


 キティは笑った。今度は、すぐに。


 最初の挨拶、父に伴われて歩く短い一巡。名前を呼ばれ、礼をし、顔を上げる。幾つもの目。優しく頷く目も、ドレスの裾まで確かめる目もある。そのすべてへ、キティは教わった微笑を返した。


 音楽が始まった。


 レオニードの白い手袋が、彼女の前に差し出される。


「お願いいたします」


「こちらこそ」


 彼の手は、触れる前に一瞬止まった。キティが指を置くと、ようやく握る。二人の間に、礼法どおりの距離。


 一歩、二歩。レオニードの目が、彼女の肩越しへ向く。先を行く組と、壁際の椅子。彼はそちらを確かめ、キティの裾が触れないように回った。


「随分、遠くまでご覧になりますのね」


「ぶつかってしまわないかと」


「わたくしのことも、ご覧になってくださいませ」


 レオニードがこちらを見た。真面目な顔に驚きが浮かび、キティは思わず笑ってしまう。


「申し訳ありません」


「謝るほどのことではございませんわ」


 伯母と同じ言葉だった。レオニードも、そこで初めて笑った。


 一巡して戻るころには、キティの指の冷たさも消えていた。青年が手を離し、深く礼をする。彼女は、それに少しだけ遅れて礼を返した。


 壁際へ戻ると、プリムが扇を渡してくれた。茶のときと同じ位置にある、その手。キティは受け取り、指先で一度だけ開いた。


 次の曲には、ヴィクトル。


「白百合を、お借りしても?」


「まだ藤色ですのよ」


「では、今夜だけ私の見間違いということに」


 ヴィクトルの掌には、ためらいがなかった。キティの指を受け止め、そのまま歩き出す。彼女は、歩き始める合図を待つ必要さえなかった。


 床の青が、足元を流れる。白い花を挿した壺。母親たちの並ぶ椅子。肩越しに遠ざかり、また戻ってくる同じ景色。その中で、青年の灰色の目だけが、ずっと同じ距離にあった。


「緊張なさっていますか?」


「少し。けれど、もう大丈夫ですわ」


「それはよかった」


 ヴィクトルが微笑む。キティも、微笑んだ。


 教わったとおりの歩幅。その内側で、彼の手の力に合わせて、ほんの少しだけ足を伸ばす。絹の裾が広がり、彼の靴を追う。誰にも教わらなかった一歩。


(こんなふうに、踊れるのね)


 曲が終わるのが、惜しかった。


「また、後ほど」


 壁際まで送ってくれたヴィクトルが、手を離したあとも一度だけ顔を寄せる。


「ええ」


 返事をしたキティの耳元で、真珠の飾りが揺れた。


 次の紳士が来る。父の知人の息子だった。領地の話をしながら踊り、礼をして去っていく。キティはそのあとも二人と踊った。名前は忘れなかった。笑みも、礼も、滞りなく。


 舞踏室の入口に、小さな人の集まり。


 遅れて到着したナタリヤ・ラドミルスカヤ侯爵令嬢へ、夫人たちが声をかけている。


 白いドレスに、金糸の細い葉。胸元には琥珀。豊かな黒髪を高く結い上げ、白い首筋を惜しげなく見せている。唇の紅。燭光を深く含む黒い目。


 話していた紳士が言葉を切った。夫人の扇が止まり、奥の椅子からも顔が上がる。ナタリヤはその視線の中を、歩幅も変えずに進んだ。笑ったときに、浮かぶ笑くぼ。扇の房を指に巻く、その癖まで目を引いた。


 キティは扇を持ち直した。レオニードの目だけが、こちらに残っていた。目が合うと、彼は小さく会釈した。


「お待ちしていましたのよ」

「ごめんなさい。母が出がけに、手袋を替えると申しましたものですから」

「それでは仕方がございませんわ。あれは大切な問題ですもの」


 笑い声。その間に、ヴィクトルがいる。


 ナタリヤが彼を見て、扇を閉じた。


 音楽が変わる。


 キティは杯を持ったまま、二人が床へ進むのを見た。


 ヴィクトルの手が、令嬢を迎える。微笑を作る前に、口元がほころんでいた。ナタリヤが何か言うと、青年は顔を寄せ、笑いながら聞き返す。彼女が笑えば、彼も笑う。灰色の目が、半ば閉じるほどに。


 先ほどキティを見ていたときの、整った微笑はそこになかった。


 ナタリヤが、上気した顔をほんの少し傾けた。ヴィクトルの肩も、そちらへ傾く。


 回る二人。白い裾の金糸が、炎を細く引いていく。キティと踊ったときには静かだった青年の口元が、今は何度も動いていた。曲の間じゅう、話すことがあるのだ。


 キティは杯を卓へ置いた。


 ナタリヤが一度、遠くの鏡を見る。ヴィクトルはその横顔を見ている。曲が終わり、彼女が手を引こうとすると、青年の指が一瞬だけ遅れた。


 キティには、その遅れが見えた。


「お嬢様、お飲み物は」


「いただきましたわ」


 答えてから、杯が満ちたままなのに気づく。


 プリムは何も言わず、卓へ目を向けた。


「少し、襟元を直したいの」


「こちらへ」


 扉の脇の、小さな控えの間。窓が一つ、鏡が一つ。舞踏室の金色が届かない場所に、蝋燭が二本だけ燃えている。


 プリムが扉を半分閉じた。


「お嬢様……」


「あんな女に、あのような顔を見せて」


 自分の声の尖りに、キティ自身が驚いた。唇を結ぶ。結んだあとに、また言葉が来る。


「わたくしは、道化ですわ」


 扇を持つ指が強くなる。骨の一本が、掌に痛かった。


 プリムは白いハンカチを開いた。キティの目の下へ、折った角をそっと当てる。触れるまで、涙がそこにあると分からなかった。


 隣では次の曲。扉の隙間から、一組の笑い声が近づき、また遠ざかる。


 鏡の中に、藤色のドレス。昼間よりも、よく似合っているように見えた。それが、恥ずかしかった。


 キティは鏡から顔を背けた。


 しばらくして、廊下に靴音。


 プリムが振り返り、扉の隙間へ身体を寄せる。レオニードがそこにいた。手袋を手に持ち、彼女の向こうを見ようとして、すぐ目を戻した。


「キティ様は、こちらに?」


 キティは頷く。プリムが少しだけ扉を開いた。


「もう一度、お相手願えませんか?」


 声は、先ほどより低かった。


「今は、お見せできる顔ではありません」


 青年の足が止まる。


「では……また今度、お願いいたします」


「ごめんなさい」


 レオニードは礼をした。プリムにも小さく頷き、廊下へ戻る。


 白い手袋が、扉の向こうへ消えた。


 キティは目を閉じた。次にハンカチが触れる場所を、もう知っていた。



***



 翌週、シェルスキー家のサロンには、南から届いた菓子が並んだ。


 薄い砂糖の膜。その下に、杏の色。公使夫人が一つ口に入れ、故郷のものとは違うと笑った。隣の夫人が、では故郷へ行く楽しみが残りましたわね、と答える。


 キティの椅子には、誰も座っていなかった。


 レオニードは伯母に伴われ、窓辺で茶を飲んだ。公爵が娘は休んでいると言う。彼は頷き、それ以上は尋ねなかった。


 次の訪問には、詩人が一人来ていた。朗読を頼まれ、まだ完成していないと断る。完成をお待ちしていたら春が終わってしまいますわ、とマリヤが言い、詩人は懐から紙を出した。


 レオニードは聞いていた。韻の終わりで、階段に近い扉を見る。そこが開き、侍従が銀の盆を持って入ってきた。


 茶は、気づくと冷めている。


「今日は珍しく、おとなしいのね」


 帰りの馬車で、伯母が言った。


「いつも、おとなしいと思いますが」


「ええ。けれどいつもは、何か言いたそうになさっているわ」


 レオニードは窓の外を見た。丘を下りる石橋。堀の縁の草が、最初に来た日より長い。


 その夜、便箋を出した。


 初めの一枚には、伯母なら気に入りそうな挨拶を書いた。次の一枚には、白い花のことを。どちらも、机の端へ置く。


 三枚目の紙の上で、ペンが止まった。


 ――あの晩、あなたに何でも似合うと申し上げたのは、本当です。けれど、それだけをお伝えしたくて、この手紙を書いているのではありません。


 窓辺の令嬢。扇を閉じて、また開いた指。舞踏室で、こちらを見てくださいと言ったときの笑い。


 彼は続きを書いた。途中で一度、インクを乾かす。待つあいだにも次の言葉が浮かび、乾く前に手を戻してしまう。小指の下へ、薄い青がついた。


 封をした手紙を、翌朝、侍従へ託した。


 キティの部屋では、夕方の光が床の途中で止まっていた。


 本は、同じ頁に栞を挟んでいる。続きを少し読み、前へ戻る。窓の外で庭師が梯子を運んでいた。足元に気をつけるよう、もう一人が声をかける。


 プリムが手紙を持ってきた。


「ヴィシンスキー家のレオニード様からでございます」


 キティは封蝋を見た。ヴィシンスキー家の紋章。縁の細い線まで、くっきりと残っている。


 紙を開く。


 端正に始まった文字が、途中から少しずつ傾いている。行の終わりに、もう一語を入れようとした跡。最後の署名だけは、広い場所にゆったり置かれていた。


 ――お顔を拝見できなかったことは、残念でした。けれど、あの一曲を踊っていただけたことを、私は今も嬉しく思っています。あなたがお笑いになったとき、ようやく私も、あの部屋にいてよいのだと思えました。


 キティはそこで指を止めた。


 ――またお目にかかれたら、今度は周りの組ばかり見ないようにいたします。


 口元が、少し動いた。


「プリム」


「はい」


「お父様は、明後日もお客様をお呼びになりますか」


「そのご予定でございます」


 キティは手紙を折った。最初の折り目を確かめ、そこへ指を重ねる。


「では、藤色のドレスを」


「かしこまりました」


 プリムは椅子の背のショールを取り、衣装部屋へ向かった。布が開く音。引き出しの金具の小さな響き。キティは手紙を膝に置き、その音を聞いていた。


 再び、午後のサロン。


 アーチ窓を少し開けてある。白い花の匂いに、庭の湿った土の匂いが混じった。雨上がりの枝から、まだ時々、雫が落ちる。


 暖炉の火は小さくなっていた。天井近くまで届く石の飾りは同じなのに、レオニードには、窓辺の椅子の方が先に見えた。


 藤色のドレス。


 キティが顔を上げる。手にしていた扇を、膝へ置いた。


「ごきげんよう、レオニード様」


「ごきげんよう。……もう、大丈夫なのでしょうか」


「ええ。ご心配をおかけしたみたいで。あなたのお手紙、読ませていただきましたわ」


「全て、本心です」


 言ってから、青年は椅子の背へ手をかけた。キティが座るよう目で促すまで、そのままでいる。


「わたくしなど……」


 膝の扇へ指を置く。骨の端には、細い金の線。あの晩、掌へ押しつけたところを、親指がなぞった。


 レオニードは、彼女の顔を見ていた。


「あの日、お好きな花があるかと、お尋ねになりましたね」


「ええ」


「お答えする前に、別のお話になってしまいました。私は、アマラントが好きです。以前、旅先で見た花です」


「どのような花でしょう?」


「紅い花です。小さな花が集まって、房になっている。白百合のような可憐な花とは言えません。でも、雨風にも負けずに咲いている。ずっと変わらず」


 レオニードは、白い花の壺へ目を向けた。


「宿の庭にあったのです。一晩、ひどい雨が降りまして。翌朝には庭の椅子が倒れ、鉢も一つ割れていた。けれど、その花は昨日と同じところで、同じ色をしていました」


「折れずに?」


「少し傾いてはいました。宿の主人が土を寄せて、起こしていましたよ」


「では、その方も、お好きだったのでしょうね」


 青年が彼女を見る。


「そうかもしれません。私は、名前を聞くことしか考えませんでした」


 窓から風。キティの袖の薄布が、卓の縁へ触れた。


 丸卓では、詩人の新作が話題になっていた。マリヤが、完成した途端に直したくなるのですから困りますわね、と言う。伯母が頷きながら、レオニードを一度見た。その扇は、開いたまま。


 プリムが茶を運んでくる。レオニードは自分の手袋を膝へ移し、盆のために卓を空けた。キティはその手の小指に、ごく薄いインクの跡を見つけた。


「紅がお好きなのですね」


「あの花を見てからは」


 キティは、手紙の文字を思い出した。広い余白へ置かれた署名。そこへ至る、少し急いだ行。


「その町は、どちらにございますの?」


「南へ、馬車で五日ほど。海からも少し離れています」


「随分遠いのね」


「伯母は、見るべきものが何もない町だと言っていました」


「まあ。花がありましたのに」


 レオニードが笑った。キティも、笑う。


 杯から、細い湯気。青年は旅の道筋を話し始めた。途中の橋、海から来る荷馬車、宿の門に吊るされた小さな鈴。キティが問い返すと、言いかけた言葉を止めて、そちらに答える。


 扉が開いた。次の客の名前を、侍従が告げる。


 公爵が立ち上がる。夫人たちの輪が、少しだけ広がった。


 キティは閉じた扇を卓へ置いた。


「そのお話、初めから聞かせていただけますか。旅にお出になったところから」


 レオニードは頷いた。カップを置く音が、彼の返事に少し遅れる。


 アーチ窓から、春の光。藤色の袖と、卓の白い花と、青年の指に残る薄い青。その上を同じ明るさが、ゆっくり渡っていった。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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