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悪役令嬢デッドエンド ~ 私の消えたあとに残るもの ~

作者: 錆猫てん
掲載日:2026/04/27

デッドエンド【名詞】

1 行き止まり。袋小路。

2 逃れようのない窮地。


ああ、幸せになりたかった。

シャボンのように揺蕩(たゆた)い、ゆっくりと意識が微睡(まどろ)んでいく。



 目が覚めたとき、まず天井が違うと思った。


 白いビニールクロスじゃない。石造りのアーチ型で、シャンデリアがぶら下がっている。本物の蝋燭が灯っていて、橙色の炎が揺れていた。


 次に、身体が違うと気づいた。


 腕が細すぎる。肌が白すぎる。指先まで手入れされた爪が、桜色に輝いている。


 最後に、頭の中が重なり揺れていると悟った。


 霧島澪(きりしまみお)、二十六歳、日本人、ゲーム好き――としての記憶。


 そしてエリザベート・ソリドール、十六歳、侯爵令嬢、乙女ゲーム『薔薇のベール・ロマンティア』に登場する悪役令嬢――としての記憶。


 どちらも等しく現実で、どちらも等しく自分のものだった。


「…………はあ」


 思わずため息が漏れた。枕元の鏡に映った顔は、ゲームのスチルで何度も見た顔だった。プラチナシルバーの巻き髪、切れ長のサファイア色の瞳、高い鼻梁。完璧なくらい整った悪役令嬢の顔。


「エリザベートになっちゃったんだ、私」


 声に出すと、現実感が増した。増してしまった。


 澪はベッドの中でしばらく固まっていた。頭の中でゲームの攻略情報を必死に引っ張り出しながら。


『薔薇のベール・ロマンティア』。通称「薔薇ベル」。三年前にリリースされたスマホ向け乙女ゲームで、澪が全ルートをコンプリートした数少ない作品のひとつだ。


 ストーリーはオーソドックスだった。平民出身の聖女アリアが王立学院に入学し、五人の攻略対象と恋をする。そして必ず登場するのが、攻略対象の婚約者――ライバル役の令嬢たち。


 エリザベート・ソリドール。それが澪の今の名前だ。


 彼女の末路は攻略ルートによって異なるが、どれもろくでもなかった。


 王道ルートは婚約破棄と国外追放。隠しルートは冤罪による処刑。バッドエンドでは記憶を失って孤島の修道院へ送られ、トゥルーエンドでは謀反の首謀者として一族ごと粛清される。


「どれも嫌すぎる」


 澪は天井を見上げて、低く呟いた。


「全力で回避する。絶対に」


 ――袋小路から抜け出すために。


***


 作戦は単純だった。


 フラグはすべて潰す。それだけだ。


 まず婚約者であるレオナルド第一王子との関係を、「可もなく不可もない婚約者」として維持する。溺愛も憎悪も引き出さない。原作のエリザベートは過度な独占欲から問題を起こしまくっていたが、澪にはその気がまるでなかった。


 次に、ヒロインのアリアとの接触を最小限にする。原作でエリザベートがやらかすいじめイベントをすべて回避する。存在感を消す。空気になる。


 そして攻略対象たちに特定のフラグが立たないように注意する。誰かに過度に関わらない。何かあっても見て見ぬふりをする。誰かの心に触れるような言動はしない。


 完璧な計画だった。


 入学式の翌朝、澪はその完璧な計画を自らの行動で破綻させたことに気づく。


「エリザベート様! 昨日はご挨拶できなくて申し訳ありませんでした。同じクラスになれて光栄です。これからよろしくお願いします!」


 アリアだった。茶色の柔らかそうな髪に、翠色の瞳。ゲームのスチルより少し素朴で、それでも確かに可愛らしい少女。原作では、エリザベートの妨害を受け続けるはずのヒロイン。


 その子が、なぜか満面の笑みで走ってきた。


「……どうして私に話しかけるの」


 思わず本音が出た。アリアはきょとんとした顔をした。


「え? だって昨日、私が転んだとき、エリザベート様が――」


「転んだ?」


「馬車から降りるとき、ステップで躓いてしまって。誰かが支えてくれなければ顔から落ちて大惨事だったのに、あの場では誰も動けなくて……もう駄目って思ったとき、エリザベート様が助けてくださったじゃないですか」


 澪は昨日の記憶を辿った。


 ――ああ。そういえば。


 反射的に手を伸ばしたのだ。誰かが倒れそうになっていたから。エリザベートとしての矜持も、澪としての打算も、何もなく。ただ人間としての本能で。


「あれは……別に、大したことではないわ」


「大したことですよ! 本当に助かりました。ありがとうございます、エリザベート様」


 アリアは深々と頭を下げた。そして顔を上げたとき、その目には純粋な感謝の色が宿っていた。嘘のない、まっすぐな瞳。


 澪は内心で冷や汗をかいた。


 まずい。これはまずい。


 ヒロインに好感度を上げてしまった。良いフラグかもしれない。でも、予定外のフラグだ。予定外は、全部怖い。


 その日を境に、アリアは毎朝澪に話しかけてくるようになった。


 ――三週間後。


「殿下、本日のお茶会は遠慮させていただけますか。少し体調が優れなくて」


「そうか、心配だ。屋敷まで送ろう」


「結構です! 一人で帰れます!」


「なぜそんなに頑ななんだ、エリザベート。君が心配だから言っているのに」


 レオナルド王子、原作では婚約破棄イベントの主役――が、困惑した顔で澪を見ていた。


 澪も困惑していた。


 この人、原作と全然違う。


 原作のレオナルドは、典型的な「ヒロインに即落ちる系王子」で、エリザベートのことは最初から政略結婚の相手としか思っていなかった。それがアリアと出会って恋に落ち、エリザベートを切り捨てる流れだった。


 なのに今のレオナルドは、事あるごとに澪のことを気にかけてくる。体調、食事、勉強の進捗、友人関係。原作では一切なかった細やかな関心を、当然のように向けてくる。


「……殿下は、私のことがお好きなのですか」


 思わず直球で聞いてしまった。


 レオナルドは少し驚いたあと、真面目な顔で答えた。


「婚約者だからね。好きになろうと努力している」


「努力、しているのですか」


「当然だろう。君はどうなんだ」


「私は……」


 澪は言葉に詰まった。


 どうなんだろう。この人は、原作のレオナルド王子ではないのかもしれない。でも信じていいのか分からない。何しろこの世界は攻略本通りに動かないのだから。


「考えておきます」


 それだけ言って、澪は逃げた。


 廊下を歩きながら、心臓がうるさく鳴っていることに気づいた。


 これもフラグだ。絶対にフラグだ。でも、どのフラグなのか分からない。


 知識が武器にならない恐怖を、澪は改めて実感した。


***


 入学から四ヶ月が経ったころ、澪はある考えに至る。


 ――攻略本は、もう無効だ。


 原作にあったイベントは軒並み発生しない、もしくは発生してもまったく違う展開を辿る。エリザベートがアリアに意地悪をするシーンは一度もなかった。澪がそんな気になれなかったから。レオナルドがアリアに一目惚れするイベントも起きなかった。二人が話す機会自体を、澪が意図せず潰し続けていたから。


 代わりに、まったく見知らぬシーンが次々と生まれていた。


 アリアと澪が、こっそり夜の厨房でお菓子を作るシーン。

 レオナルドが、澪の好きな花をさりげなく窓辺に飾るシーン。

 幼馴染のクロードが、「最近のお前は昔と全然違う」と戸惑いながらも、どこか嬉しそうにするシーン。


「なんで……なんで、こうなってるの」


 一人になった寝室で、澪は膝を抱えた。


 嬉しい。嬉しいのに怖い。


 幸せになればなるほど、その分だけ転落したときが怖い。原作を知っているからこそ、「このゲームは必ず悪役令嬢を不幸にする」という確信が消えない。表面が変わっても、世界の根っこにある「物語の強制力」は変わっていないのではないか。


 ふと、奇妙なことに気づいた。


 最近、日本にいたころの記憶が、少しぼやけている。


 職場の同僚の顔。住んでいたアパートの間取り。好きだったコンビニスイーツの味。細部がじわじわと滲んで、霞んでいく。


 気のせいだ。そう思おうとして、できなかった。


***


 その夜、夢を見た。


 真っ白な空間に、ひとつの椅子があった。澪がそこに座ると、向かいに誰かが立った。顔のない、輪郭だけの人影。


「調子はどう?」


 声は若い女のものだった。軽い、まるでゲームの進捗を聞くような気軽さだった。


「あなたが転生させたんですね」


「そうだよ。せっかくあのゲームをコンプリートするくらい好きだったみたいだから、本物の世界に入れてあげようと思って」


「好意のつもり?」


「もちろん」


「悪役令嬢に転生させておいて?」


「エリザベートって、実に面白いキャラクターだと思わない? 主人公より優雅で知識があって、でも物語に囚われていて。どう足掻くか見てみたかったんだよね」


 澪は、この「人影」が心底腹立たしかった。


「教えてください。私はこれからどうなるんですか。原作通りじゃない展開なの。どのルートに向かってるんですか」


「さあ」


「さあって」


「あなたが変えたんだもの。私にも分からないよ。台本はもう存在しない」


 沈黙が落ちた。


「……でも」と神様は続けた。


「ひとつだけ言えること。エリザベートは、最後にはひとつになる」


「ひとつに?」


「あなたがいる限り、エリザベートは中途半端なの。だって中に澪がいるから」


「意味が分かりません」


「霧島澪は、もう終わっているの」


「……え?」


「向こうで死んだでしょう。事故か、災難か、細かいことはどうでもいいけど。あなたの命は、あの時点でちゃんと終わってる」


「……何を、言って」


「本来なら、何も残らなかった。けど、少しだけ残り火があったの」


「残り火……?」


「蝋燭って、消える前に最後に少しだけ強く灯ることがあるでしょう。今のあなたは、ああいうもの。終わったはずの命の、最後の輝き」


「そんなの……」


「だからこれは、少し長めのロスタイム。神様の気まぐれで与えられた、おまけの時間」


「そんなの、認められるわけない」


「でも、悪くないでしょう?」


「……」


「好きだった世界の中で、最後の時間を過ごせる。ずいぶん贅沢な終わり方だと思うけどな」


「私は、まだ生きてる」


「うん。そう思ってるうちは、それでいいよ」


 神様はそこで、少しだけ声を和らげた。


「でも最後には、ちゃんとひとつになる」


「……それって、私が」


「徐々に、ね。自然に。痛くないよ。むしろ気持ちいいくらい。気がついたら溶けてるの。もうすぐそうなるよ」


「嫌だ」


「でもエリザベートは幸せになれる」


「嫌だって言ってるじゃん!」


 澪は叫んだ。白い空間に声が響いて、消えた。


 しばらく沈黙が続いた。澪は拳を握ったまま、唇を震わせた。


「……せめて、せめて教えてください。私は、最後まで残れますか」


「さあ」


 神様は、今度は少しだけ優しい声で言った。


「楽しんでね」


 そして消えた。


***


 その夜から、澪は必死に「澪であること」にしがみついた。


 日本語で日記をつけた。霧島澪の記憶を、毎晩声に出して確認した。自分が転生者であること。元は会社員だったこと。ゲームオタクだったこと。


 でも。


 一週間後、同僚の名前がひとつ消えた。


 二週間後、アパートの住所が思い出せなくなった。


 三週間後、日記を書こうとしたら、漢字が三文字出てこなかった。


 だめだ。このままじゃ消える。


 でも不思議なことに、消えていくのと並行して、毎日がどんどん豊かになっていった。


 アリアと笑い合う時間が、かけがえなく思えた。

 レオナルドが「エリザベート」と名前を呼ぶとき、胸が温かくなった。

 クロードが昔話をするとき、懐かしさで目頭が熱くなった。


 これはエリザベートの感情だ。私の感情じゃない。


 そう思おうとするのに、どこまでが澪で、どこからがエリザベートなのか、もう分からなくなってきていた。


 ある朝のことだった。


 レオナルドが珍しく早い時間に訪ねてきた。庭の薔薇が一輪、手の中にあった。


「誕生日、おめでとう」


「……ありがとうございます」


「今年は何が欲しい?」


 澪は、少し考えた。


「殿下の、隣にいられること」


 言ってから、自分でも驚いた。


 計算じゃなかった。フラグ管理でもなかった。ただ、そう思ったから言った。


 レオナルドは目を細めて、「それなら叶えられる」と言った。


 その日の夕方、澪は日記帳を開いた。


 ペンを走らせようとして、止まった。


 今日の日付を、西暦で書こうとして――西暦が思い出せなかった。

 令和何年だったか。平成から変わったのはいつだったか。


「……あ」


 そうか。もう、そこまで来たんだ。


 澪は震える手で、それでも日記を書こうとした。


 私はキリシマミオ。二十六さい、にほんじん、ゲーム好き。推しは――


 推しの名前が出てこなかった。


 推しは……確か、黒髪の……


 駄目だ。顔が浮かばない。


 澪はペンを置いて、しばらく窓の外を見た。夕焼けが庭の薔薇を赤く染めていた。綺麗だと思った。本心から。


 私はまだ、ここにいる。


 でも、それがいつまでなのかは分からなかった。


***


 季節が変わった。


 学院の中庭に、白い花が咲き始めていた。


 朝食の席には四人がいた。レオナルド、アリア、クロード、そして――エリザベート。


「エリザベート様、このスコーン、頑張って早起きして作ったんです! 一緒に食べましょう!」


 アリアが弾んだ声で言った。エリザベートは受け取って、ひとくち食べた。


「美味しい。バターがちょうどいいわ」


「よかった! 砂糖の分量が難しくて……」


「次は少しだけ減らしても良いかも。あと焼き時間をもう二分」


「覚えておきます!」


 アリアが笑う。クロードが紅茶のおかわりを注いでくれる。レオナルドが「そのスコーン、私にもくれ」と手を伸ばしてくる。


 穏やかな朝だった。


 エリザベートは、ふとした拍子に――なにかを思い出そうとした。


 白いビニールクロスの天井。

 コンビニのビニール袋の音。

 スマホの画面に広がる、ゲームのタイトル画面。


 何かがあったような気がする。ずっと前に。別の場所で。


 でも、それが何だったのか、もう分からなかった。


 内側で、ひどく小さな声が呟いた。


 ――ああ。もう終わりか。私の番は、ここまでかな。


 エリザベートは少しだけ目を伏せた。


「どうかしたか」


 レオナルドが覗き込んできた。


「いいえ」


 エリザベートは顔を上げた。窓から光が差し込んでいた。アリアがまた笑っていた。クロードが呆れたようにぼやいていた。レオナルドが自分を見つめていた。


 胸の奥のどこかが、ちり、と痛んだ。

 けれどそれが何の痛みなのか、もう分からなかった。


 それでもエリザベートは微笑んだ。


 ……まあ、悪くない、か


 誰にも届かない声は、静かに消えた。


***


 机の引き出しには、一冊の日記帳が残されていた。


 開けば、読めない文字が几帳面に並んでいる。

 誰が、いつ書いたものなのかも分からない。


 けれど最後の頁に触れたときだけ、何か大切なものを失くしたような気がした。


 エリザベートは、その文字をなぞるように指を這わせた。


 なぜだか分からないまま、気がつくと、ひとすじの涙がこぼれていた。


 窓の外では、黄色い薔薇が揺れていた。

 幸せな朝が、続いていた。


これが、悪役令嬢のデッドエンド。

失われたものがあった。でも残ったものも、確かにあった。

それを幸せと呼ぶのか、悲劇と呼ぶのか――


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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慈悲とも刑罰ともだな。 死んだあとおまけとしてプラスぶんの世界で生きられるとあれば慈悲。 死んだあとさらに緩慢に自分が消えていく(死ぬ)のを実感しながら生きるとあれば刑罰。 神も断言しないから、どっち…
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