悪役令嬢デッドエンド ~ 私の消えたあとに残るもの ~
デッドエンド【名詞】
1 行き止まり。袋小路。
2 逃れようのない窮地。
ああ、幸せになりたかった。
シャボンのように揺蕩い、ゆっくりと意識が微睡んでいく。
目が覚めたとき、まず天井が違うと思った。
白いビニールクロスじゃない。石造りのアーチ型で、シャンデリアがぶら下がっている。本物の蝋燭が灯っていて、橙色の炎が揺れていた。
次に、身体が違うと気づいた。
腕が細すぎる。肌が白すぎる。指先まで手入れされた爪が、桜色に輝いている。
最後に、頭の中が重なり揺れていると悟った。
霧島澪、二十六歳、日本人、ゲーム好き――としての記憶。
そしてエリザベート・ソリドール、十六歳、侯爵令嬢、乙女ゲーム『薔薇のベール・ロマンティア』に登場する悪役令嬢――としての記憶。
どちらも等しく現実で、どちらも等しく自分のものだった。
「…………はあ」
思わずため息が漏れた。枕元の鏡に映った顔は、ゲームのスチルで何度も見た顔だった。プラチナシルバーの巻き髪、切れ長のサファイア色の瞳、高い鼻梁。完璧なくらい整った悪役令嬢の顔。
「エリザベートになっちゃったんだ、私」
声に出すと、現実感が増した。増してしまった。
澪はベッドの中でしばらく固まっていた。頭の中でゲームの攻略情報を必死に引っ張り出しながら。
『薔薇のベール・ロマンティア』。通称「薔薇ベル」。三年前にリリースされたスマホ向け乙女ゲームで、澪が全ルートをコンプリートした数少ない作品のひとつだ。
ストーリーはオーソドックスだった。平民出身の聖女アリアが王立学院に入学し、五人の攻略対象と恋をする。そして必ず登場するのが、攻略対象の婚約者――ライバル役の令嬢たち。
エリザベート・ソリドール。それが澪の今の名前だ。
彼女の末路は攻略ルートによって異なるが、どれもろくでもなかった。
王道ルートは婚約破棄と国外追放。隠しルートは冤罪による処刑。バッドエンドでは記憶を失って孤島の修道院へ送られ、トゥルーエンドでは謀反の首謀者として一族ごと粛清される。
「どれも嫌すぎる」
澪は天井を見上げて、低く呟いた。
「全力で回避する。絶対に」
――袋小路から抜け出すために。
***
作戦は単純だった。
フラグはすべて潰す。それだけだ。
まず婚約者であるレオナルド第一王子との関係を、「可もなく不可もない婚約者」として維持する。溺愛も憎悪も引き出さない。原作のエリザベートは過度な独占欲から問題を起こしまくっていたが、澪にはその気がまるでなかった。
次に、ヒロインのアリアとの接触を最小限にする。原作でエリザベートがやらかすいじめイベントをすべて回避する。存在感を消す。空気になる。
そして攻略対象たちに特定のフラグが立たないように注意する。誰かに過度に関わらない。何かあっても見て見ぬふりをする。誰かの心に触れるような言動はしない。
完璧な計画だった。
入学式の翌朝、澪はその完璧な計画を自らの行動で破綻させたことに気づく。
「エリザベート様! 昨日はご挨拶できなくて申し訳ありませんでした。同じクラスになれて光栄です。これからよろしくお願いします!」
アリアだった。茶色の柔らかそうな髪に、翠色の瞳。ゲームのスチルより少し素朴で、それでも確かに可愛らしい少女。原作では、エリザベートの妨害を受け続けるはずのヒロイン。
その子が、なぜか満面の笑みで走ってきた。
「……どうして私に話しかけるの」
思わず本音が出た。アリアはきょとんとした顔をした。
「え? だって昨日、私が転んだとき、エリザベート様が――」
「転んだ?」
「馬車から降りるとき、ステップで躓いてしまって。誰かが支えてくれなければ顔から落ちて大惨事だったのに、あの場では誰も動けなくて……もう駄目って思ったとき、エリザベート様が助けてくださったじゃないですか」
澪は昨日の記憶を辿った。
――ああ。そういえば。
反射的に手を伸ばしたのだ。誰かが倒れそうになっていたから。エリザベートとしての矜持も、澪としての打算も、何もなく。ただ人間としての本能で。
「あれは……別に、大したことではないわ」
「大したことですよ! 本当に助かりました。ありがとうございます、エリザベート様」
アリアは深々と頭を下げた。そして顔を上げたとき、その目には純粋な感謝の色が宿っていた。嘘のない、まっすぐな瞳。
澪は内心で冷や汗をかいた。
まずい。これはまずい。
ヒロインに好感度を上げてしまった。良いフラグかもしれない。でも、予定外のフラグだ。予定外は、全部怖い。
その日を境に、アリアは毎朝澪に話しかけてくるようになった。
――三週間後。
「殿下、本日のお茶会は遠慮させていただけますか。少し体調が優れなくて」
「そうか、心配だ。屋敷まで送ろう」
「結構です! 一人で帰れます!」
「なぜそんなに頑ななんだ、エリザベート。君が心配だから言っているのに」
レオナルド王子、原作では婚約破棄イベントの主役――が、困惑した顔で澪を見ていた。
澪も困惑していた。
この人、原作と全然違う。
原作のレオナルドは、典型的な「ヒロインに即落ちる系王子」で、エリザベートのことは最初から政略結婚の相手としか思っていなかった。それがアリアと出会って恋に落ち、エリザベートを切り捨てる流れだった。
なのに今のレオナルドは、事あるごとに澪のことを気にかけてくる。体調、食事、勉強の進捗、友人関係。原作では一切なかった細やかな関心を、当然のように向けてくる。
「……殿下は、私のことがお好きなのですか」
思わず直球で聞いてしまった。
レオナルドは少し驚いたあと、真面目な顔で答えた。
「婚約者だからね。好きになろうと努力している」
「努力、しているのですか」
「当然だろう。君はどうなんだ」
「私は……」
澪は言葉に詰まった。
どうなんだろう。この人は、原作のレオナルド王子ではないのかもしれない。でも信じていいのか分からない。何しろこの世界は攻略本通りに動かないのだから。
「考えておきます」
それだけ言って、澪は逃げた。
廊下を歩きながら、心臓がうるさく鳴っていることに気づいた。
これもフラグだ。絶対にフラグだ。でも、どのフラグなのか分からない。
知識が武器にならない恐怖を、澪は改めて実感した。
***
入学から四ヶ月が経ったころ、澪はある考えに至る。
――攻略本は、もう無効だ。
原作にあったイベントは軒並み発生しない、もしくは発生してもまったく違う展開を辿る。エリザベートがアリアに意地悪をするシーンは一度もなかった。澪がそんな気になれなかったから。レオナルドがアリアに一目惚れするイベントも起きなかった。二人が話す機会自体を、澪が意図せず潰し続けていたから。
代わりに、まったく見知らぬシーンが次々と生まれていた。
アリアと澪が、こっそり夜の厨房でお菓子を作るシーン。
レオナルドが、澪の好きな花をさりげなく窓辺に飾るシーン。
幼馴染のクロードが、「最近のお前は昔と全然違う」と戸惑いながらも、どこか嬉しそうにするシーン。
「なんで……なんで、こうなってるの」
一人になった寝室で、澪は膝を抱えた。
嬉しい。嬉しいのに怖い。
幸せになればなるほど、その分だけ転落したときが怖い。原作を知っているからこそ、「このゲームは必ず悪役令嬢を不幸にする」という確信が消えない。表面が変わっても、世界の根っこにある「物語の強制力」は変わっていないのではないか。
ふと、奇妙なことに気づいた。
最近、日本にいたころの記憶が、少しぼやけている。
職場の同僚の顔。住んでいたアパートの間取り。好きだったコンビニスイーツの味。細部がじわじわと滲んで、霞んでいく。
気のせいだ。そう思おうとして、できなかった。
***
その夜、夢を見た。
真っ白な空間に、ひとつの椅子があった。澪がそこに座ると、向かいに誰かが立った。顔のない、輪郭だけの人影。
「調子はどう?」
声は若い女のものだった。軽い、まるでゲームの進捗を聞くような気軽さだった。
「あなたが転生させたんですね」
「そうだよ。せっかくあのゲームをコンプリートするくらい好きだったみたいだから、本物の世界に入れてあげようと思って」
「好意のつもり?」
「もちろん」
「悪役令嬢に転生させておいて?」
「エリザベートって、実に面白いキャラクターだと思わない? 主人公より優雅で知識があって、でも物語に囚われていて。どう足掻くか見てみたかったんだよね」
澪は、この「人影」が心底腹立たしかった。
「教えてください。私はこれからどうなるんですか。原作通りじゃない展開なの。どのルートに向かってるんですか」
「さあ」
「さあって」
「あなたが変えたんだもの。私にも分からないよ。台本はもう存在しない」
沈黙が落ちた。
「……でも」と神様は続けた。
「ひとつだけ言えること。エリザベートは、最後にはひとつになる」
「ひとつに?」
「あなたがいる限り、エリザベートは中途半端なの。だって中に澪がいるから」
「意味が分かりません」
「霧島澪は、もう終わっているの」
「……え?」
「向こうで死んだでしょう。事故か、災難か、細かいことはどうでもいいけど。あなたの命は、あの時点でちゃんと終わってる」
「……何を、言って」
「本来なら、何も残らなかった。けど、少しだけ残り火があったの」
「残り火……?」
「蝋燭って、消える前に最後に少しだけ強く灯ることがあるでしょう。今のあなたは、ああいうもの。終わったはずの命の、最後の輝き」
「そんなの……」
「だからこれは、少し長めのロスタイム。神様の気まぐれで与えられた、おまけの時間」
「そんなの、認められるわけない」
「でも、悪くないでしょう?」
「……」
「好きだった世界の中で、最後の時間を過ごせる。ずいぶん贅沢な終わり方だと思うけどな」
「私は、まだ生きてる」
「うん。そう思ってるうちは、それでいいよ」
神様はそこで、少しだけ声を和らげた。
「でも最後には、ちゃんとひとつになる」
「……それって、私が」
「徐々に、ね。自然に。痛くないよ。むしろ気持ちいいくらい。気がついたら溶けてるの。もうすぐそうなるよ」
「嫌だ」
「でもエリザベートは幸せになれる」
「嫌だって言ってるじゃん!」
澪は叫んだ。白い空間に声が響いて、消えた。
しばらく沈黙が続いた。澪は拳を握ったまま、唇を震わせた。
「……せめて、せめて教えてください。私は、最後まで残れますか」
「さあ」
神様は、今度は少しだけ優しい声で言った。
「楽しんでね」
そして消えた。
***
その夜から、澪は必死に「澪であること」にしがみついた。
日本語で日記をつけた。霧島澪の記憶を、毎晩声に出して確認した。自分が転生者であること。元は会社員だったこと。ゲームオタクだったこと。
でも。
一週間後、同僚の名前がひとつ消えた。
二週間後、アパートの住所が思い出せなくなった。
三週間後、日記を書こうとしたら、漢字が三文字出てこなかった。
だめだ。このままじゃ消える。
でも不思議なことに、消えていくのと並行して、毎日がどんどん豊かになっていった。
アリアと笑い合う時間が、かけがえなく思えた。
レオナルドが「エリザベート」と名前を呼ぶとき、胸が温かくなった。
クロードが昔話をするとき、懐かしさで目頭が熱くなった。
これはエリザベートの感情だ。私の感情じゃない。
そう思おうとするのに、どこまでが澪で、どこからがエリザベートなのか、もう分からなくなってきていた。
ある朝のことだった。
レオナルドが珍しく早い時間に訪ねてきた。庭の薔薇が一輪、手の中にあった。
「誕生日、おめでとう」
「……ありがとうございます」
「今年は何が欲しい?」
澪は、少し考えた。
「殿下の、隣にいられること」
言ってから、自分でも驚いた。
計算じゃなかった。フラグ管理でもなかった。ただ、そう思ったから言った。
レオナルドは目を細めて、「それなら叶えられる」と言った。
その日の夕方、澪は日記帳を開いた。
ペンを走らせようとして、止まった。
今日の日付を、西暦で書こうとして――西暦が思い出せなかった。
令和何年だったか。平成から変わったのはいつだったか。
「……あ」
そうか。もう、そこまで来たんだ。
澪は震える手で、それでも日記を書こうとした。
私はキリシマミオ。二十六さい、にほんじん、ゲーム好き。推しは――
推しの名前が出てこなかった。
推しは……確か、黒髪の……
駄目だ。顔が浮かばない。
澪はペンを置いて、しばらく窓の外を見た。夕焼けが庭の薔薇を赤く染めていた。綺麗だと思った。本心から。
私はまだ、ここにいる。
でも、それがいつまでなのかは分からなかった。
***
季節が変わった。
学院の中庭に、白い花が咲き始めていた。
朝食の席には四人がいた。レオナルド、アリア、クロード、そして――エリザベート。
「エリザベート様、このスコーン、頑張って早起きして作ったんです! 一緒に食べましょう!」
アリアが弾んだ声で言った。エリザベートは受け取って、ひとくち食べた。
「美味しい。バターがちょうどいいわ」
「よかった! 砂糖の分量が難しくて……」
「次は少しだけ減らしても良いかも。あと焼き時間をもう二分」
「覚えておきます!」
アリアが笑う。クロードが紅茶のおかわりを注いでくれる。レオナルドが「そのスコーン、私にもくれ」と手を伸ばしてくる。
穏やかな朝だった。
エリザベートは、ふとした拍子に――なにかを思い出そうとした。
白いビニールクロスの天井。
コンビニのビニール袋の音。
スマホの画面に広がる、ゲームのタイトル画面。
何かがあったような気がする。ずっと前に。別の場所で。
でも、それが何だったのか、もう分からなかった。
内側で、ひどく小さな声が呟いた。
――ああ。もう終わりか。私の番は、ここまでかな。
エリザベートは少しだけ目を伏せた。
「どうかしたか」
レオナルドが覗き込んできた。
「いいえ」
エリザベートは顔を上げた。窓から光が差し込んでいた。アリアがまた笑っていた。クロードが呆れたようにぼやいていた。レオナルドが自分を見つめていた。
胸の奥のどこかが、ちり、と痛んだ。
けれどそれが何の痛みなのか、もう分からなかった。
それでもエリザベートは微笑んだ。
……まあ、悪くない、か
誰にも届かない声は、静かに消えた。
***
机の引き出しには、一冊の日記帳が残されていた。
開けば、読めない文字が几帳面に並んでいる。
誰が、いつ書いたものなのかも分からない。
けれど最後の頁に触れたときだけ、何か大切なものを失くしたような気がした。
エリザベートは、その文字をなぞるように指を這わせた。
なぜだか分からないまま、気がつくと、ひとすじの涙がこぼれていた。
窓の外では、黄色い薔薇が揺れていた。
幸せな朝が、続いていた。
これが、悪役令嬢のデッドエンド。
失われたものがあった。でも残ったものも、確かにあった。
それを幸せと呼ぶのか、悲劇と呼ぶのか――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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