第四話 12月11日 神様編その1
全ての始まりは、一本の電話だった。上田は留守にしており、事務所には私一人だけ。まあ、事務所と言っても、雑居ビルの二階を借りて、物置き代わりにしているだけなのだが。壁一面書類やらファイルやらで埋め尽くされており、床もかろうじて歩けるスペースと作業用のちゃぶ台のスペースが確保されているだけで、そのほとんどが書類の山になっている。
そして、私はそんな最悪の環境で働かされている。労働基準法とかに引っかかっている気もするが、それでこの事務所が潰れて無職になるのはごめんだった。怒り狂った母に襲撃されるのだけは、絶対に避けたい。
事務所の入り口前に設置された固定電話が鳴った。いつものように謎の文献を模写していた私は、ペンを持ったまま子機で出た。親機をこっちに持ってこいと思うかもしれないが、上田に何故か止められている。扉の前に置いておく意味があるそうだ。よく知らないが。
「お電話ありがとうございます。上田事務所、あずまが承ります」
普通、法律とか探偵とか事務所の前に何かつけるものだが、上田事務所には何故かそれがない。
「……」
「……もしもし? 聞こえていらっしゃいますでしょうか」
「……」
応答なし。いたずら電話か幽霊だろう。怪しげなことを生業にしているせいか、こういうのは少なくない。時間の無駄なので、切るに限る。それを実行に移そうとした時、
「……な……」
ざざざ、というノイズに混じって、か細い声が聞こえた。
「……もしもし?」
「……し……な……」
「申し訳ございません、もう一度お願いします」
ざざざ、とノイズ音が強くなった。こうなってくると、いたずら電話かどうか微妙なところだった。人間か幽霊か、対応を誤ると、この前のようにとんでもないことになる。
「もしも」
「失礼な奴だな」
男の声だった。抑揚のない、機械音声のような声がした。私は電話を切った。これがもし人間だった場合、当然怒りのクレームが入るので、してはいけない禁忌にあたる。だが、幽霊だった場合、長く話を聞くだけ碌なことにならない。最悪祟られかねない。
気持ちを切り替え、私は再び模写の作業に移った。その直後、また子機が鳴った。手に取ると、さっきと同じ番号だった。無視を決め込み、作業を続ける。だが、呼び出し音は長く続き、ついに留守電に切り替わった。
「あの、すみません、お仕事を、依頼したくって」
女性の、聞いた限りは人間の声だった。あの幽霊がまた掛けて来たものとばかり思っていた私は、慌てて子機を掴み、電話に出た。
「申し訳ありません、お待たせしております。上田事務所、あずまが承ります」
「あ、あずまさん、上田事務所さん、で間違いないですか」
「はい、どのようなご用件でしょうか」
そう言いながら席を立ち、座っていた机の向かいにある棚の前へと移動する。
「あの、えっと、依頼したくって」
「はい」
「その、あの、移させてほしいんです」
私は棚から赤いファイルを取り出し、今日の日付が書かれているページを開いた。依頼内容が意味不明なのはいつものことだった。ただ、別に理解しなくていい。なるべく詳細に内容を聞き取って、それでもチンプンカンプンなのだが、とにかくメモに起こして、このファイルに貼り付ければいい。それで上田には伝わる。
「移させるとは、何でしょうか」
「えっと、私からあなたに、移させるんです」
「何が移るんでしょうか」
「あの、神様です。その、より悪い方を優先するんです。引き受けていただけますか」
神様。頭の隅っこで、何かが引っかかった。今朝、連絡帳を見た時に、「神様」と書かれていた気がする。私はファイルを小脇に挟み、事務所の入り口に移動した。
「……神様ですか」
入り口前の、小さな棚を漁る。連絡帳はここにあるはずだった。だが、見当たらない。
「え、はい、えっと、引き受けていただけますか」
弱った。電話の相手は、明らかに急いでいる。だが、こちらも懸念点がある以上、迂闊に依頼は受けられない。
「申し訳ありませんが、ただいま上田が外出しているため、後ほど折り返しお電話差し上げてもよろしいでしょうか」
「……えっと……」
「はい」
「あのごめんなさい、もう行っていると思います。でも、帰ってくるんですよこのままだと」
「はあ」
「で、あの、だから、一言、了解してほしいんです」
「はあ?」
「……」
無言になった。連絡帳は見つからない。私もいよいよまいってきた。これまで対応してきた人たちは、内容が意味不明でも、まだ会話が成立していた。でもこれは、なんというか、本当におかしい人を相手にしている気がして、なんならさっきの幽霊よりも不気味だった。
「申し訳ございませんが、上田が帰ってくるまで……」
「してます」
電話越しに声の主が言った。
「している、というと」
「よやく? してます」
私は額に手を遣った。この女性、予約済みだと言いやがった。厄介なことを。上田から予約に関する話は聞いていない。少なくとも、口では。そう、口で伝えられていない場合、そういうことは、すべて連絡帳に書かれる。なぜこんな時に限って、ないのだ。
「あの、引き受けていただけますか」
「……」
言葉が出なくなった。万が一にでも上田のお得意様だった場合、これを断れば間違いなく首を切られる。でも、引き受けたとして、それが、予約したというのが噓だったら、上田に何をされるか分からない。
その時、脳裏に母の姿がよぎった。気づいた時には、私は受話器を置いていた。はっとして手元を見ると、「神様 移させる 了承 予約済み」と書かれたメモがあった。




