第二十話 12月21日 「桜の絵描き」
少しグロテスクな表現が強い回となっております。
私は絵が上手い。自分で言うのもなんだとは思うが、稀に仕事を貰えているくらいには上手い。いつも私が怪異相手に七転八倒しながら取っ組み合いしているものと思ったら大間違いなのである。ただ、「絵が上手い」とは言っても色々ある。写実的な絵、個性的な絵、アニメ絵、などなど、一概に「上手い」の一言で表すことはできない。例えば、アニメ絵の「上手い」と写実的な絵の「上手い」が全く違うように。
そして私が得意なのは後者、写実的な方の絵だ。なぜ上手くなったのかというと、ひたすらに描きまくったから、と言えばそれまでだが、もう一つ理由もある。私自身で振り返ってみても、かなり変で不気味な理由だ。詳しくは、実際に描いている様子を見て貰えば分かると思う。
「本当にいいんですね」
巨大な桜の樹。私はその根元に立ち、見上げる。真冬のため花どころか芽すら出ていないが、春になればそれはもう壮観だろう。いや、壮観だったのだろう。
依頼者の鉢巻田さんが口を開いた。ぼーぼーに伸びた白髭がもさもさ動き、低い声で言う。
「はい。どうか、よろしくお願いいたします」
鉢巻さんは老化で丸まった背中をさらに折り曲げて頭を下げた。皺くちゃの手を合わせて、私に対し拝むような姿勢をとる。私も慌てて頭を下げ返した。お互いに頭を下げ合うという気まずい時間が流れた後、私はこう続けた。
「……鉢巻田さん、以前にもお伝えしましたが、来年に間に合う保証はできません」
目線を少しだけ上げ、皺くちゃの手を見つめる。
「そもそも、ご依頼をお受けしておいて無責任な話ですが、本当にやれるとも断言できません」
本当は断言できない所の話ではない。依頼を達成できる可能性は限りなく0に近い。
「まだご依頼に取り掛かる前なので、中止することも可能です。本当に大丈夫ですか」
徐々に顔を上げ、鉢巻田さんの顔を見据える。年長者とは到底思えないほどにモサモサの髭と髪の毛の隙間から、やや茶色がかった瞳が覗いている。
「はい。もしも、億分の一でも可能性があるのであれば、是非ともお願いいたします」
少しだけつっかえながらも、明瞭かつはっきりとした声だった。迷いがないのが分かる。
「……分かりました。では、取り掛からせていただきます」
そう返し、私は小脇に抱えてきたイーゼルを、桜から離れた位置、その全体像が見える所に設置した。鞄に手を突っ込む。画用紙と鉛筆、そして絵の具とパレットを取り出す。最後に、水筒の水をバケツに注いだ。仕事の始まりである。
先端が尖り輝く鉛筆を手に取り、その側面を画用紙の上部に押し当てる。否、紙を押し破らんとばかりに押し付ける。魂を筆圧に込める。そして、「やあっ」と一直線に引きおろした。それを、一度、二度、三度と行う。ただ力任せに書くのではない。一筆一筆、こめる力を微妙に変えつつ、桜の輪郭を捉えるのだ。鉛筆を立てる。卵の黄身を持つように、優しい持ち方へと変える。鉛筆の先端で、桜の全体像を、細部を埋めていく。
あとはこの繰り返し。ここからは体力との勝負だ。
写実的に書く、要はデッサンに近いものだが、私の場合本物そっくりに書くわけではない。つまり現実を画用紙に写す、ということではない。寧ろ、現実を画用紙に移す感じで、線の一本一本を、目の前の桜の樹から獲るような感覚で描きこんでいく。桜を構成する空間を剥ぎ取り、ペタペタと貼り付けていく。
まず、ある程度の形になったのは幹だった。色はまだだが、既に木目まで描くことが出来た。
それとなく、鉢巻田さんの方へと視線を向ける。いつの間にか、年に合わないふさふさの髪の毛は消え、つるつるの頭部が露出していた。今なら顔もよく見える。皺くちゃの肌が。少しだけ黒みがかかった肌が。
「……続けて大丈夫ですか」
そう尋ねる。鉢巻田さんはゲボッ、ゴボッ、と不可解な音を立てつつも、こう続けた。
「……お願いします」
……無言で画用紙に向き直る。本人が大丈夫と言っているのだから、こちらはどうにもできない。
次に取り掛かるのは桜の枝だ。黒くか細い、繊細な枝先を容赦なく、メリメリと剥がすイメージで、まるで魚の鱗を剥がすような感じで。
一方で、実際に鱗が剥がれるような音が、後ろの方からしていた。ベリベリベリ、ぐちゃぐちゃぐちゃ、ベチッ、と。
「大丈夫ですか」
少なくとも平気ではないだろうが、そしてそれでも大丈夫と言うのだろうが、形式的に尋ねる。
「だ、だ、大丈夫です、よ」
苦しそうな声だった。コポコポと何か鳴っている。いつか、私が大怪我した時に、喉から聞こえてきた音だ。喉に溢れた血から浮き出る気泡だ。
「まだ耐えられそうですか」
「へ、へ、大丈夫で、す。どうか、こ、こ、このまま」
保存してください。
その言葉が発せられることはなかったが、言おうとしていたことは伝わった。保存。絵に封じ込める。
グギッ、ボキッ、バリッ、バチャッバチャッ、「ぐふっ」「がっ」「ぎぃ」。
陰鬱な気持ちで書き進めること、体感六時間。雨が降らなかったのは幸運だった。いや、途中でやめる口実が出来なかったのだから寧ろ不幸だったのかもしれない。そうこうしている内に、桜の絵の八割は完成していた。色もある程度塗ることができた。
あとは少し、粗いところを埋めていくだけである。二時間もかかりはしないだろう。だが、微かに漂う血の臭いが、私の筆を止めた。あの不可解な音は消えたが、もはや振り返る気にすらなれない。再び、形だけの確認を行う。
「大丈夫ですか。続けますか」
……返事はない。耳を澄ますと、どこからか消え入りそうなほどに弱々しい、掠れた呼吸音がした。くひゅー、くひゅー、ひゅっ、くひゅー。
「まだ間に合いますよ。戻しますか」
鞄をまさぐる。硬いものが手に当たる。手のひらサイズの長方形、ライターだ。
「この絵を燃やせば、戻りますよ」
……くひゅー、ひゅー……
「鉢巻田さ」
突如、私の顔ががしっと掴まれた。強引にぎゅるりんっ、と身体ごと回される。次に目にしたのは、三つの黒い空洞と、赤い線だった。黒い肌を無数に走る、黒い線。それが何かはすぐにわかった。肌が割れて、肉が露出しているのだ。ビクンビクンと痙攣している。そして、三つの黒い空洞は、中身を失った両目と口だった。
「が、あや、つ。ぐふぅっ、ば、らびゃぁっ」
もはや声とすら言えない、動物の鳴き声じみた音がした。
「……続けて、いいんですね」
沈黙。ひゅーひゅーと呼吸音だけがする。鉢巻田さんは、もはや見る影もなくなっていた。かろうじて人の形をしているだけだ。黒く、ひび割れた肌の下で肉が痙攣する様は、さながら泥を着た胎児だった。そんなもの見たことないからただのイメージだが。
「が、も、がじゃ、ら、や、ならば、し、し、しね、ぎ」
今死ねと言ったか。やめろ、と言おうとしているのか。目玉が消えたせいで、目で訴えるということすら出来なくなっている。私の肩を掴み、前後に揺することで、あれこれ伝えようとしているのは分かる。そして、もう耳も聞こえなくなっていることもわかった。もはや鉢巻田さんとコミュニケーションをとる術はない。
痛いが故に中止を申し出ているのなら、間違っても進めてはいけない。予想外の苦痛に耐えられなくなるのはよくあることだし、しかも稀に事前に説明していてもなお逆ギレしだす奴がいるためだ。無理に進めると何をされるか分からない。
だが、かと言って依頼者とコミュニケーションがとれなくなったらすぐに中断するべきかというと、そうでもない。理由は全く同じ。逆ギレしだすケースがあるからだ。「せっかく耐えていたのに、俺の努力を無駄にする気か」と。なら前もって、嫌な時の合図を決めておけばいいじゃないか、とか思うかもしれないが、全くの無駄である。例えば、「やめてほしくなったら私の頭を叩け」と伝えてと、書いている内に腕が消し飛ぶこともあるのだ。
ならば、どうするのが正解なのか。伊達に絵で金を稼いでいるわけではない。つまりは、己の直感を信じるのだ。
この場合はどうだろう。鉢巻田さんは私の体を強く掴み、何か訴えようとしている。絵を描き続けて欲しいのなら邪魔はしないはずだ。わざわざその作業を止めてまで何か言おうとしているのだから、やめてほしいのだろう、と初心者なら思う。だが違う。私が思うに今の鉢巻田さんはやや錯乱状態にあるのだと思う。苦痛と暗闇の恐怖のなか、狂いそうな意思を必死に抑え込んで、自分は大丈夫だと伝えようとしているのだ、と勘がそう言っている。何の根拠もない当てずっぽうにしか見えないだろうが、結構当たるのだこれが。
「描きますね」
頭を掴む鉢巻田さんの手を振り解き、画用紙に向き直る。相変わらず後ろでは何か叫んでいるが、無視する。
最後の仕上げになるため、丁寧に丁寧に描いていく。線の歪みを直し、樹の輪郭をよりはっきりさせていく。ベリベリベリベリベリ、ぐちゃっ。
力を込めすぎないように、殺してしまわないように、集中する。
「ぐがぁぁぁぁ……ぁぁぁぁ」
か細い声。やがてそれすらも、どこかへと消えていった。もはや断末魔とすら言えない、意思を感じさせない声だった。
絵は、完成した。
読んでくださり、本当にありがとうございます。




