第二話 12月9日朝9時~
「例のもの、忘れてないよな」
そう言われて、私は無言で頷いた。私と、金髪の男……上田がいるのは、ボロくて狭いアパートの一室、ちゃぶ台の置かれた居間だった。畳が捲れ、壁のペンキが所々剝げている。天井にも穴が開いており、真っ黒な空洞が覗いている。とても人が住める部屋ではないが、なんとこの部屋以外には普通に人が住んでいるらしい。
私が持ってきたことを確認すると、上田は台所の方へと目を向けた。この男のことを、私はよく知らない。金髪であること以外は特に目立った特徴がなく、身長も顔も体型も普通。背は私と同じくらい。頭の色が派手でなければ、気配すら消えてしまいそうなほど存在感がない。性格についても、態度が悪いこと以外は……いや、普通とは言えない。
「あずま、三枚出せ」
名前を呼ばれた。私は肩にかけた鞄から、「例のもの」こと「小さな木箱」を取り出した。蓋を開けると、中には正方形の白い紙が数枚入っている。何か呪文や紋様など怪しげなものが書かれているわけでもなく、本当にただ白い紙である。初めて上田と会った時に渡されたもので、曰く「お前の所は土着神がなんちゃらだから預かってくれ」とのこと。何を言っているのか、当時も今もさっぱりだが、とにかく私の仕事の一つ目は、木箱を上田のもとに持って来て、謎の儀式(お祓い? のようなもの)を手伝うことである。
「おいボーっとすんな」
はっ、と慌てて紙を三枚、上田に渡す。すると、
「愚図が」
と吐き捨てるように言われた。ムッとした。が、言い返せる資格はない。上田は紙を三枚、自身の手のひらに置くと、そのまま台所の方へと歩いて行った。それきり、黙ってしまった。ぼろぼろの部屋に、気まずい沈黙が流れる。
ここからが、私の仕事の二つ目である。何があっても、この部屋から出てはいけない。
最初にそう言われた時は流石に面食らったし、「就活失敗したからって、こんな意味わかんない会社受けなきゃよかったなあ」と心底後悔した。闇バイト的なあれかとも思った。だが実際のところ、本当に立っているだけなのだ。見張りとかすることもなく、ただ突っ立っているだけ。これまで色々な家に行き、上田に「もういい」と言われるまで待機してきたが、これもまた奇妙なことに、何も起きない。憐れむような視線を感じることもなければ、幽霊も出てこないし、ラップ音かと思ったら上田が動いただけだったりした。つまり、私の二つ目の仕事は、ひたすらに暇することなのだ。
一応三つ目の仕事もあり、それは上田のオフィス……私と上田しかいないオフィスで、ひたすら謎の書類を要約して、ワードに書き起こすというものだが、今日はやらなくていいみたいだ。外回りの時は、仕事が終わり次第さっさと帰っていいことになっている。
……さて、その書類だが、どんなことが書いてあっただろうか。実をいうと、はっきりとは覚えていない。というか、思い出せない。私はつまらないことをすぐに忘れる性質だから、仕方がないと言えばそれきりなのだが、やはり奇妙である。うっすらと覚えているのは、「山と川とその境界線なんちゃら」といった具合である。以前あんまりにも覚えていないものだから、こっそりと内容をメモして、家まで持ち帰ったことがある。するとどうだろう。メモ用紙に書いてあったのは、ぐちゃぐちゃの線だったのだ。多分オカルトの類であり、するとこの会社もろくなものではないのであろう。が、実害がない以上、これしきのことで辞めるわけにはいかない。
瞼を閉じると、母の怒り狂った顔が思い浮かぶ。卒論が間に合わずに一留したあげく、就活もサボってふーたろーになりかけた私を見て、母は本気で殺そうとしてきた。映画の殺し屋みたいに、包丁をぶん投げてきたりもした。その時は運よく外れて、代わりに私の宝物であるフィギュアを粉砕したが、それ以来実家には帰れていない。おじさんに家に転がり込んで、さらに一年かけてなんとか就職できたとはいえ、しているのがこんな暇人だと知れば、母は今度こそ私を殺しにかかるだろう。
かといって、転職のために、もう一度あの辛い就活をするつもりもないので、ほとぼりが冷めるまで隠れるしかない。だからこそ、辞めるわけにはいかない。
……それにしても、この部屋の持ち主は、一体どうしたのだろうか。狭いとはいえ、このアパートの立地は最高だ。駅まで徒歩二分なうえ、自転車で行ける距離にスーパーもある。それでいて都内なのに、家賃はなんと月四万円。私なら見つけた瞬間に契約を結んで一生離さないと誓うような部屋である。にもかかわらず、最後の持ち主はこの部屋で大暴れして、このありさまにしたうえで、逃亡したという。大家も当然、弁償させるべく警察に被害届を出したらしいが、未だに見つかっていないとか。
警察に追われている以上、まともに生活することすら困難になるだろう。今後の生活を差し置いてまで、この素晴らしい部屋を破壊する理由があったのだろうか。駅から近くて、スーパーもある、この部屋を。見晴らしがよくて、子供の声が聞こえる、素晴らしい場所を。
夏には鳥が飛んでくるし、秋には紅葉が舞い込んできて、冬には雪を楽しめる土地を。毎年、春には満開の桜を仰いで、酒が飲めるというのに。なぜ出ていったのだろうか。
異常者の考えは、私には分からない。考えるだけ無駄だし、なんだかないものねだりしているようで、虚しくなってきた。私の住むアパートを思い浮かべてみる。鉄格子のはまった窓に、多分子供のタックルでもへこむ玄関の扉、ゴキブリが湧き出てくるトイレと台所。
……あまりにも違う。余計に虚しくなってきた。この部屋にいた男こそ、私の部屋に住むべきなのだ。代わりに私がここに住む。リフォームなんてしなくていい。このくらい、私一人で治せる。ちょうど今は冬だから、毎日窓辺で雪が降るのを楽しみに待とう。気が向いたら、この辺の社に挨拶に出向いて、酒を飲みかわそう。祭りも楽しそうだ。子供もいっぱいいる。考えれば考えるほど、その気になってきた。
「ここに住もう」
そう口にした瞬間、ぱんっと音がした。いつの間にか、目の前に上田がいる。窓の外に目を遣ると、夜になっていた。
「終わった。帰るぞ」
私はこくりと頷いた。腕時計を見ると、夜の九時半だった。朝九時からの出勤だったから、残業代を貰わないといけない。普段なら六時には帰れるのだが、今日は遅かった。
それにしても、今日も今日とて、何も起きなかった。




