第十九話 12月20日「逃げていく彼に 後編」
つまり、私は口先だけだったのである。
さも「警察にパクられて当然」のような面をしておきながら、内心「まあ大目に見てくれるだろう」と甘えた考えをしていたのだ。
だから今、こんなことをしている。
「ひぃぃぃぃっ! こっ、こっち来ないで、おま、おまわりさん、早く来てぇぇぇぇぇ」
「待って! 誤解だから! そんなつもりなかったの! いつか払うから!」
別に追いかけっこしているわけではない。私がカウンターから身を乗り出して、キノシタさんの携帯を奪おうとしているのだ。
ヤバいことをしているのは分かる。大学生だった頃、コンビニでレジ打ちをしている時に出会した迷惑客が思い出される。あのクソガキ、商品を読み取るのに三秒でもかかったらブチギレて、いつもカウンターに身を乗り出していたっけ。
こんな気持ちだったのかな。そして私も今や、立派な迷惑客である。いや、もはやカスハラだ。万引きが見つかって、「警察だけは辞めてください」とごねているガキだ。
犯罪者のそれである。
「あっ」
一瞬の隙をつき、というかほぼ力づくで、携帯を取り上げる。犯罪者のそれだと自覚して内省しても、私の身体は正直である。
背後の待合室に座る、患者さんたちの視線が痛い。見ていなくても感じる。異常者に向けるのと、同じものを感じる。
「か、返してくださいぃぃ!」
「いや、あの、その前にですよ。もう一度、もう一度、お話ししましょうよ!」
だめだ、焦りすぎている。私は息を深く吸い込み、ながーく吐き出した。冷静に。落ち着かないと。キノシタさんがパニックになっているのは、私がこんな暴挙に出ているからに他ならない。警察を呼ぼうとしているのも、それが原因だろう。
……あれ? キノシタさん、私が暴れる前に、通報してなかったっけ?
じゃあ、私が冷静になったところで、駄目じゃん。
「……と、とりあえず、携帯返してください」
……私は、自分でもあっさりしていてびっくりするくらい、素直に携帯を返した。ちょっとだけ落ち着いたことで、今自分のしていることの方が通報案件だと気づいたから、だと思う。加えて、涙目で唇をわなわな震わせるキノシタさんに、とてつもない罪悪感を覚えたのだ。
「……う、上のものに確認してきます。少々お待ちください……」
そう言って、キノシタさんはカウンターの奥に引っ込んだ。
病院でも「上のもの」とか言うのか。
カウンターの先、パソコンやらホワイトボードのある、全体のオペレーションをしているような見た目の場所では、大勢の人がものすごい勢いで動き回っていた。それでいて、機械音、話し声、電子音、などなど雑多な音が、病院とは思えないくらいに鳴り響いている。それに混じって、「もう少々お待ちください」との声も聞こえた。この様子だと、さっきのキノシタさんとのやりとりは聞こえてなさそうだ。
さて、私は次にどのような手を打てばいいのだろうか。先程の暴走で、まず信用は完全に失った。では、 私が本当に入院費用を分割払いできることを証明するしかない。分割できる前提だが。
一方で、所在がなくなると、背後の視線がより痛々しく感じられた。私はゆっくりと振り向く。騒いだことを、何か詫びるべきだと思ってのことだ。
そして、私はそれに気がついた。
私のいるカウンターと、待合室の間の長い廊下。男の子が走っている。私の太ももくらいしか背丈のない、怪獣のイラストがプリントされた服を着ている、小さい男の子だ。問題はその後ろである。黒いものが後を追っている。靄というか、霧というか、煙というか。その形容し難いものの中央に、人の顔がついている。女の顔だ。焦点の定まらない目と、固く結ばれた口。眉間には皺が寄っている。
男の子が怪異に追いかけられている。
反射的に怪異に手を伸ばした、その時。
「お、お待たせしてます……」
キノシタさんが戻ってきた。
「どうか、な、なさいましたか?」
間が悪い。
「……あの、ちょっとトイレ行ってきてもいいですか……?」
嘘である。言い訳に過ぎない。散々迷惑をかけたキノシタさんには失礼だが、流石にあれは見過ごせない。……この病院、いくらなんでも怪異が居すぎではないだろうか。
「……そ、そうですか」
キノシタさんはそう言うないなや、携帯を再び取り出した。今度は、私から結構距離を置いて。
「ちょっ!」
「ト、トイレとか言って、と、とんずらこく気ですね……!?」
「そんなことしませんって!」
……携帯強奪するような奴なら、そう思われても仕方がないか。
「あの本当に、一刻を争う便意なんです!」
横目で後ろを確認する。男の子も人面煙も消えている。
「じゃ、じゃあ交番のトイレに行けばいいじゃあないですか!」
は?
「と、とにかくっ、あなたがそんな態度撮るなら、ほ、本当に警察呼びますからね!」
この女、私の命と子供の命を天秤にかけろと言っているのか。
こんな時、私が迷わず子供の命を優先できるような聖人であればどれほど良かっただろう。残念ながら、現実はそうではない。数日前の怪異現象から生還できたのも、ただ自分可愛さが限界突破して奇跡が起きただけなのだから。こうして言葉にしてみると意味不明な内容だが、とにかくそうなのだ。
私は自分以外大切にできない。
そして私よ、何を冷静ぶっているのか。
「分かりました。トイレには行きません」
ただし、早く話し合いが終わらないとここで漏らす。口には出さず、目でそう圧をかける。それが伝わったのかそうでないのか、キノシタさんは携帯をしまった。
「……じょ、上司に確認してみたところ、あ、あなたの収入次第では分割できる……と」
おい、分割できるのかよ。警察呼ぶ意味なかったじゃん。
「収入……月収ですか?」
「年収です」
ふと思ったが、病院ってこういうことを聞くのか。なんだか詐欺手口で似たようなのを耳にしたきもする。が、まあそれどころではないか。
「○○○万です」
「!?」
キノシタさんがすごい顔をしている。目を見開き、口をぽかんと開けて、化物を見るような表情で私を見ている。少しして、頭が情報に追いついたのか、口元がごにょごにょしだした。
このアマ、笑うのを堪えてやがる。
「へ、へえ……そんな給料で、命張っちゃってんですか……?」
もはや堪えようとすらしていない。口が笑っている。
「何が可笑しいんですか」
「い、いえ、別になにも」
嘘つけ。
言い返そうとも思ったが、キノシタさんは今携帯という私の命を握っている。下手なことを言うと、今度こそ警察を呼ばれる。
その時、再び私の後ろで、たったった、と走る音がした。目だけ動かして確認する。
さっきの男の子、とさっきの人面煙だった。変わらず追いかけっこをしている。どうやらこの廊下、私のいるカウンターを囲むようにして円環状になっているらしい。この病院、私以外に見える奴がいないのか。助けてやれよ。
「い、いえ、本当になにも」
キノシタさんが言う。視線を戻す。
「た、ただ本当に、やっぱりあずまさん、かわいそうだなって」
……? 今、何て言った?
「かわいそうだなって」
そう、念を押すように、キノシタさんは言った。再び、男の子の方へと目を向ける。その顔を、よく見る。笑みを浮かべているその顔を。
こうなるともう、カウンターに向き直る気にもなれなかった。なぜ私が、待合室の患者さんから痛々しい視線を向けられていたのか。私がキノシタさんに迷惑ムーブをかましていたから、と思っていたが、少し違った。彼らには、私が一人で暴れているように見えていたのだ。
つまりだ。つまり、私は怪異たちにおちょくられていたのだ。現に、もうキノシタさんも、多分走り去ったのであろう男の子と、あの人面煙もいない。三体合わせてグルだったわけだ。糞。
結果として、私の性格の悪さが露呈しただけになった。自分可愛さに暴力に出る悪癖も、子供の命より自分の命を優先する倫理観の無さと、大勢の前で醜態を晒す常識の無さ。最悪だ。
入院費どうこうについては、もう今日はいいや。病室に戻って寝よう。
「走っちゃダメでしょ!」
廊下を引き返していた私は、脚を止めた。
「走ってないもん、早歩きだもん!」
廊下の先に、さっきの男の子がいる。母親らしき人に腕を掴まれて半泣きになっている。
……怪異じゃない。人だ。
なら、さっきのはなんだ。本当にあの男の子が、怪異に追いかけられていたのか。じゃあ、あのキノシタと名乗った奴は、いったいなんだ。
男の子の後ろから、人面煙が出現する。もうしかめっ面ではなく、顔が割れんばかりの笑みを浮かべている。
…………キノシタの茶番。あれは、私を遠ざけるためか。あの子から。
人面煙が、男の子に接近する。私は駆けだそうとしたが、脚が言うことを聞かない。あの子は、人面煙が見えていない。何があったのかは知らないが、おそらく運悪く怪異に目をつけられたのだろう。そして、逆に運よく走り回っていたことで、捕まらずに済んでいたんだ。
人面煙が、男の子を飲み込んでいく。包み込んでいく。
「駄目だ、逃げて!」
ありったけの声で叫ぶ。だが、それに応える人はいなかった。皆、ただ迷惑そうな、憐れむような視線を向けてくるだけだった。




