第十八話 12月20日「逃げていく彼に 前編」
これだけの大怪我をしたにも関わらず、見舞いには誰も来ていない。ドラマで見る病室のイメージから、入院したら果物バスケットが送られてくるものとばかり思っていたが、現実はそう甘くないらしい。備え付けのカレンダー以外、私の病室にはこれといったものが特にない。
それだけに、私の横たわるベッドの隣に腰かけるお医者さんの存在がより際立って見える。妙に良い体格と、もじゃもじゃと言うよりぐちゃぐちゃしている髪の毛。ほとんど完璧な円を描いている顔の輪郭には、黒縁の丸眼鏡がちょんと乗っている。胸元には「藻蛇神 卓」と書かれたネームプレート。
「もう歩けるよ」
藻蛇神先生はそう言った。眼鏡の下から私に、気持ちの悪いものを見るような視線を向けてくる。その手にはついさっき撮ったレントゲン写真がある。
「まあギプスと松葉杖は必要だろうけど、ベッドで固定している必要はもうないね。むしろ、リハビリの為にも積極的に歩いたほうが良い」
藻蛇神先生は少し黙ると、こう付け加えた。
「ねえ、あずまさんが入院したの、一昨日だったよね」
「はい」
「それで、もう治りかけていると」
「……はい」
私はレントゲン写真に目を向けた。真っ白でまっすぐな私の足の骨。一昨日見た時はぼきぼきに折れていたのに、もう治りかけている。藻蛇神先生の目には恐怖の色が浮かんでいた。気持ち後ろに下がり、私から距離をとっているように見える。仕方のないことではあるし、理解もできる。当然の反応だ。瀕死の重傷負った奴が翌日にはほとんど回復しているなんて尋常じゃない。気味悪く思うのは当たり前だし、むしろそう感じない方がおかしい。
「あの、入院費用のことなんですけど」
「ああそれは受付で言って」
一秒たりともお前と一緒にいたくない。そういう態度だった。藻蛇神先生は短く「お大事に」とだけ呟いて、足早に病室から出ていった。
松葉杖をつき一歩一歩廊下を進む。進むたびに脚がじんじん痛む。一応は体のことがどうにかなっても、入院費用を私が払えない問題は何も解決していない。これだけあれこれ治療してもらった以上、おそらく私の貯金二十万では到底足りない。病院に相談する必要がある。
入り口前の受付が近づいてくる。それにつれて足取りも段々と重くなっていく。一歩づつ進むたびに脚が痛む。そして痛む度に嫌な想像がよぎる。分割やツケ払いはできるのだろうか。それか何かこう温情的なもので無料になったりはしないだろうか。それかせめて、奇跡的に割引をしてくれたりとか……。いやなってくれないと困る。刑務所は嫌だ。
「あの、すみませーん……」
受付に向けて、恐る恐る声をかける。少しでも同情を買いたい。可能な限り弱弱しく、さも困っているような声色を意識する。カウンターの向こうでは、大勢の人がせわしなく動き回っている。少しすると、「少々お待ちくださーい」と声がした。私の弱者アピールはおそらく失敗に終わった。
だが一方で、思いのほか待たされることもなかった。十秒と経たずに、カウンターの向こうからナース姿の女性が駆け寄ってきたのだ。私と同じくらいの年齢だろうか。綺麗系の美人だった。
「あ、あの、申し訳ございませんっ、お待たせしております……」
さっきの私に負けず劣らずのなよなよした声だった。ネームプレートには「研修中」の文字がある。その下には名前が……キノシタさん? だろうか。随分難しい漢字だ。
「も、申し訳ございません、人手が足りなくって……」
「いえいえ、そんな、気にしないでください」
謝られるような立場に私はいない。むしろ、しょっ引かれる立場だ。
「それで、どのようなご用件でしょうか……?」
内容がないようなだけに、私は一息で言おうとした。長々とは話したくない。気まずすぎる。
「ええっと……その、入院費用なんですががっ」
舌がちくりと痛む。焦りすぎて舌を噛んだ。
「……」
「……」
私はすっ、と息を吸いこんんだ。
「……入院費用を、払えなくて」
キノシタさんの顔を見ることができない。きっと卑下するような目で私を見ていることだろう。現状、私は無銭飲食ならぬ無銭入院をしている犯罪者なのだから。
「……」
「…………」
「………………」
「……………………」
返事がない。うんともすんとも言わない。よほど呆れているのだろうか。それとも、警察に電話しようとしているのか。私は無言のまま、俯き続けた。
ぴ、ぴ、ぴ、と電子音が聞こえる。電話のダイヤルをいじる音のようだ。
……電話?
「あ、あの、警察です、か……」




