第19話 キス好きアリアとの約束
その男には、悲願がある。
何世代にも渡る、唯一の悲願が。
執務机に着いた男は、魔蝕教の証でもあるフーデッドローブを身に纏い、延々と古びた書物を読み耽っている。
そこから感情は窺い知れず、何を思っているかわからない。
1つだけ確かなのは、何らかの強い意志を持っていること。
年齢は60歳を越えていそうだが、老いによる衰えは感じられなかった。
すると、書物を捲る音だけが聞こえていた書斎に、突如として声が聞こえる。
『ローレンさん』
「……へリウスか。 何の用だ?」
『いえいえ、報告しておこうと思ったまでですよ。 ミナーレ渓谷での襲撃は、失敗に終わりました。 シオン=ホワイトくんとアリア=クラークさんは消息不明ですが、生存していると考えている方がよろしいかと』
「そうか……。 同胞たちはどうした?」
『1人だけ生き残ったようですが、あとは全滅ですね。 いやはや、『輝光』たちの居場所を教えた身としては、申し訳ない限りです』
「形だけの謝罪はいらん。 それよりも、また奴らの所在を突き止めたら教えろ」
『敵わないと知りつつ、また挑むのですか?』
「当然だ。 我らは最後まで戦い続ける。 たとえ、わたし1人になろうともな」
『見上げた執念ですね。 わかりました、わたしに出来ることがあれば、今後もお手伝いしましょう』
「ふん、利用するの間違いだろう?」
『これは手厳しい。 ですが、魔蝕教に頑張ってもらわなければ困るのは確かです。 その為に力を貸すのは、決して出任せではありませんよ』
「物は言いようだな。 まぁ、良い。 我らも貴様たちを利用させてもらう」
『ご自由に。 それでは、失礼します』
それっきり、ローレンと言う男はまた1人になった。
中断していた書物を読む作業を再開し、暗記するほどになった文字の羅列を眺め続ける。
相変わらず無感情に見えるが、瞳の奥には怪しい光が宿っていた。
この書物の内容が世界に公表されれば、魔蝕教に対する風当たりも変わるかもしれない。
しかし、ローレンにそのつもりはなかった。
愚かな人間どもに、真実を教えてやる必要はないと考えている。
同胞たちが理解してくれていれば、それで充分だ。
こうしてローレンは暗い感情を、今日も胸に秘め続ける。
目が覚めて視界に飛び込んで来たのは、アリアの可愛らしい顔。
瞳を閉じており、ゆっくりと近付いて来ている。
何を意図しているのかわかったが、今回は止めに入った。
「お早う、アリア」
「へ……? きゃ! す、すみません……!」
素早い動きで後ろに下がったアリアは、壁を背にして座り込んだ。
その際にスカートの中が露になり、下着が丸見えになった。
今日は薄紫か。
そんなことを思いつつ起き上がった僕は、改めて声を掛ける。
「随分と早く起きたんだな。 ちゃんと寝られたか?」
「だ、大丈夫です。 わ、わたしもさっき起きたばかりなので」
「それなら良いんだが。 じゃあ、出発前に軽く何か食べておくか。 アリアの料理に比べたら、味気ない物だが仕方ない」
「……ふふ、そうですね」
嬉しそうに微笑んだアリアは立ち上がり、僕の隣に腰を下ろした。
ほとんど密着する距離で、彼女の体温を感じる。
少し動き難いが、アリアの様子を見ていると文句を言い辛い。
諦めた僕が魔箱から取り出したのは、パンのような簡易食料。
不味くはないが美味しいとも言えず、空腹を満たす為の補給程度の意味しかない。
どことなく気分が沈んでいる僕に気付いたのか、アリアが苦笑を浮かべて声を発した。
「お兄ちゃん、良ければこれをどうぞ」
「これは?」
「えぇと、わたしが作ったクリームです。 これを塗れば、少しは美味しくなるかもしれません」
「アリア……良くやった。 早速食べさせてくれ」
僕の反応がおかしかったようで、苦笑を深めたアリア。
しかし、次の瞬間には何かを思い付いた表情になり、少し顔を紅潮させながらクリームを自分の簡易食料に塗った。
てっきり次は、僕の番だと思っていたのだが――
「あ、あーん……」
アリアが恥ずかしがりながら、千切った簡易食料を僕の口元に持って来る。
内心で若干呆れながら、サーシャ姉さんで耐性が付いている僕は、特に躊躇うことなく口を開けた。
「あーん」
「ど、どうですか……?」
「……美味しい。 やはり、アリアは凄いな」
「そ、そんな……大したことありませんよ」
「謙遜の下には?」
「あ……ひ、卑屈になっちゃいけませんよね。 有難うございます」
「それで良い」
恥ずかしそうなアリアの頭を撫でた僕は、クリームを受け取って自分の簡易食料に塗った。
そうして食べようとしたのだが……視線を感じる。
無言でジッと見て来るアリアが何を望んでいるか察した僕は、簡易食料を千切って彼女に差し出した。
「あーん」
「あ、あーん……」
小さく開けたアリアの口に、簡易食料を放り込む。
モグモグと口を動かす彼女を苦笑を浮かべて見つめ、再び頭を撫でながら聞いた。
「美味しいだろう?」
「はい……。 今まで食べた物の中で、1番です」
「それは言い過ぎじゃないか?」
「そんなことありません!」
「わかったから、落ち着け」
何やらムキになっているアリアを宥めつつ、それ以降は互いに自分で食事を進める。
大して時間も掛けずに食べ終わった僕たちは、合流地点に出発するべく荷物を纏めたのだが――
「アリア、どうした?」
「いえ……」
急に悲しそうな顔になったアリア。
不思議に思った僕は身を屈め、彼女と視線を合わせて尋ね掛けた。
「今更遠慮するな。 何かあるんだろう?」
「……はい」
「そうか。 どうしたんだ?」
「……お兄ちゃんと2人きりなのも、これで最後かもしれないって思ったら……寂しくて。 あ! も、勿論、ソフィア様たちにも会いたいです! でも、その、何と言いますか……複雑なんです」
「……なるほど」
アリアの気持ちを知って、僕はどうするべきかわからなくなった。
いや、姫様たちと合流するのは決まっている。
ただ、アリアを元気付ける方法が思い付かない。
僕たちの間に気まずい空気が流れ、いよいよ困り果てた僕は、禁断の手段を取った。
「アリア」
「はい……」
「キスしよう」
「へ?」
「今朝、しようとしていただろう? したいんじゃないのか?」
「そ、それは……そうですけど……」
モジモジと視線を彷徨わせているアリアの顎に手を添えて、軽く上を向かせる。
彼女の瞳は潤んでいたが、期待しているのは明らか。
それを悟った僕は、優しく口付けてすぐに離す。
アリアは物足りなさそうだったが、これは敢えてだ。
「次に2人きりになるのがいつになるかはわからないが、またしよう」
「良いんですか……?」
「自分から言っておいて何だが、むしろアリアこそ良いのか? もうわかっているかもしれないが、僕にそう言うことは期待出来ないぞ?」
「……はい。 これは、わたしの問題です。 お兄ちゃんが何と言おうが、わたしは自分の気持ちを大事にしたいです」
「……そうか」
ゲイツさんに決め付けるなと言われたとは言え、僕が恋愛を出来ない可能性は非常に高い。
いや、厳密に言えばするべきじゃない。
しかし、アリアの固い決意を止めることは出来なかった。
将来彼女が傷付くかもしれないと思ったら心苦しいが、その要因は間違いなく僕にある。
根本的な解決にはならないとしても、出来る限りアリアの望みを叶えたい。
手痛いしっぺ返しが来る覚悟を決めて、彼女の頭を撫でながら告げた。
「アリアの気持ちに応えることは出来ないと思う。 その上で、キミの希望にはなるべく添えるようにしたい」
「……有難うございます」
「お礼どころか、罵られても仕方ないと思うが」
「滅相もありません。 お兄ちゃんが優しいのは、充分に知っていますから」
「……有難う」
「それこそ、お礼を言われることじゃないです。 これからも、よろしくお願いしますね」
「あぁ……こちらこそ、よろしく頼む」
花のような笑みを咲かせるアリアを、僕は直視出来なかった。
だが、すぐに顔を戻して苦笑を浮かべる。
彼女だって無理をしているだろうから、僕だけ逃げる訳には行かない。
こうして様々な問題を抱えつつも、準備が出来た僕たちは洞穴を出ようとしたが、その前に言っておくことがあった。
「アリア」
「はい、どうしましたか?」
「昨夜のことと今朝のことを、忘れろとは言わない。 だが、ここを出たら切り替えろ」
「……! かしこまりました、シオン様」
戦闘モードの冷酷な表情を浮かべたアリアに、僕は無言で頷く。
そうして、それまでの空気を一変させた僕たちは、姫様たちの元に急いだ。
途中、サハギンや他の水棲モンスターの邪魔が入ったが、特に問題はない。
手加減をやめた僕たちにとっては、ただの路銀稼ぎでしかなかった。
その後、暫く川沿いに歩みを進めると、間もなくして待ち合わせ場所に到着する。
アリアは僅かに緊張していたが、何があっても受け入れるつもりらしい。
そんな彼女を優しく促し、更に歩みを進めると――
「アリア!」
必死な形相の姫様が駆け寄って来た。
それを見たアリアは、叱られることも視野に入れていたようだが、僕はそうならないと確信している。
彼女と向き合った姫様は1つ息をつき――
「ごめんなさい」
深々と頭を下げた。
対するアリアは呆然としていたが、すぐさま我を取り戻して声を上げる。
「ソ、ソフィア様が謝ることなんて、何もありません! 全て、わたしの責任です!」
「でも、わたしが油断したせいで、貴女に無茶をさせてしまったわ。 そのせいで川に……」
「で、ですからそれは、わたしの反応が遅かったからで……」
責任の所在について争う、美少女たち。
気持ちはわからなくもないが、不毛なやり取りは困る。
「そこまでにして下さい。 あれに関して今更何を言っても、仕方ないです」
「シオンさん……」
「シオン様……」
「結果は全員無事でした。 少し予定はズレましたけど、それも含めて勉強だったと思いましょう」
「そうですね……」
「わたしは今回のことを、一生忘れないと思います」
アリアの言い様には別の意味も含まれていそうだが、気付かぬふりをした。
実のところ、今は他に気になっていることがある。
落ち着きを取り戻した姫様とアリアが談笑している隙に、その事柄に着手した。
「リルム、ルナ、サーシャ姉さん……大丈夫か?」
川辺に座り込んでぐったりしている3人に、僕は恐る恐る問い掛けた。
しかし彼女たちから返事はなく、ますます心配していると、のろのろと顔を上げたリルムがやっと声を発する。
「シオン……今朝、何か食べた……?」
「今朝? 簡易食料に、アリア特製のクリームを塗って食べたが」
「良いわね……ご馳走じゃない……」
「……もしかして、そう言うことか?」
「そう言うことよ……」
淀んだ瞳で姫様を見るリルムを追って、僕も何とも言えない顔を向ける。
相変わらず2人は楽しそうに話しており、そこだけ見れば和気藹々としたシーン。
ところが僕は、起きたであろう惨劇を想像して、気の毒に思いつつ問い掛けた。
「どうしてそうなったんだ? 姫様の料理がまだ不味いことは、知っていただろう?」
「仕方ないじゃない……。 あたしたちが起きたらもう準備してあって、しかもあのお姫様、自分が作ったとは一言も言わなかったのよ……。 オマケに見た目は普通じゃない……? そりゃ、食べちゃうって……」
「リルム……キミはもう少し、食事の席では落ち着いた方が良い」
「うっさいわね……」
言い返して来たリルムだが、悄然とした今の彼女には欠片も迫力がない。
溜息をついた僕は、ひとまずリルムを放置して、ルナとサーシャ姉さんに目を向けた。
2人とも今のやり取りを聞いていたはずだが、口を開くことはない。
初めて姫様の料理を食べたのなら、その衝撃は計り知れないだろうからな。
暫くそっとしておくことに決めた僕は、その場を去ろうとしたが――ガッと。
それまでの様子が嘘のような俊敏さでルナに手を掴まれて、阻止されてしまう。
嫌な予感を抱いた僕は逃げの一手を打とうとしつつ、最早手遅れだと確信していた。
「お早う、シオン。 朝ご飯を取ってあるから、食べなさい」
「いや、僕はもう食べたから……」
「食べなさい」
「……わかった」
おどろおどろしい笑みを浮かべたルナに突き付けられた、惣菜パン……に見える物体。
今回も見た目は悪くないが、3人の反応を見る限りそんな訳はない。
盛大に嘆息した僕は意を決して口を開け――思い切り顔を顰めることになった。




