仔犬侯爵の愛すべき嘘
久し振りの短編となります。
楽しんで頂けますよう。
「とりあえず、一ヶ月でいいから離婚して欲しいんだけど……いい?」
向かいに座る少々頼りない感じがするがそれもまた彼の魅力とばかりに、自分を上目遣いで見て了承を得ようとする彼がそう言い終えるや否や、飲みかけの紅茶を彼の顔に思わず掛けてしまった。
窓からの陽の光で輝いていた金色の彼の髪は、無残にもぽたぽたと滴を落とす、さながら掃除のモップの様である。
それでも彼の魅力は損なわれる事無く水ならぬ、紅茶が滴る美男子のそれだ。
「っぅわ!ジゼ!」
どうやら熱くはなかったらしい。
心の中で痛烈に舌打ちをするが、表に出さなかった自分を褒めたい。
彼は突然掛けられたお茶に驚き、濡れたことへの不満を向かいに座る私に言っている。
濡れた彼に無表情でハンカチを差し出しつつも(誰が見ているわけでもないがあくまで外面維持のために)、予想した火傷を負わなかったことに落胆する自分は彼の二ヶ月前からの妻だ。
例え、付き合いは家族ぐるみの産まれた時からで、本人同士の自我も芽生えない内からの親同士の口約束から本当に結婚に至ったとしてもだ。
そして当人同士に恋愛感情はない……はず。
まるで内緒の秘密を教えるような小声で、たった今彼は耳を疑うようなことを私に言った。
幼馴染として育った仲だから大抵の彼の所業は知っていて、今までも突拍子もないことや信じられないことを彼はしてきて、言ってもきているので今更どんなことが起きようが多少の事では驚かないと思っていたが、それでも人間まだまだ驚くことはあるのだと思った。
そんな彼の所業には驚かないと自負していた自分でも究極にびっくりすれば条件反射のように、信じられないような驚く行動を取ってしまった初めての経験だ。
その自分でもよく分からない条件反射は彼にお茶を掛けること。
それも的確冷静にカップから出たお茶を彼の顔面に命中させた。
お茶は彼の顔面追加余剰分を含め、彼を良い感じにずぶ濡れにしてくれた。
何なら多少熱ければ目も覚めるだろうと制裁の意味も込めたのだが、生憎それは叶わなかったのだが。
いい?も何も、「はい、分かりました」と笑って私が頷くとでも思っているのか?
向かいで渡された私のハンカチと自分の首から外したクラヴァットで濡れた顔や服を拭いている夫の名は、シャルダン・アルフレート。
幼馴染ではあるが、毎日遊んでいたとかいう親密さはない。
だが、うちの領地の隣が彼の家の避暑地で毎年夏の間はお互いの家を行き来するくらいには仲が良い。
年の内の決まった季節、年の三割程だけだがその三割を毎日顔を合わせれば会わない間の出来事も筒抜けだし、日々のあれこれを見ていればそれなりに彼の事は理解していた。
否、理解していたと間違っていた。
よもや、このようなとんでもないことを言う人とは流石の私も見抜けなかった。
とはいえ、お互い貴族の家に産まれた手前、結婚がお家の事情で成り立つことくらいは分かっている。
だからお互い恋愛感情があったかと聞かれれば私は確実にないし、私から見た彼にもないような気はする。
でも結婚はした。
それが貴族としてのしきたりであり、家を存続させる義務だからだ。
私が恋愛感情が持てなかった最大の理由は、彼は私より二歳年下で、お互い姉と弟感がどうしても否めず、私と彼、彼の弟、私の弟と四人で集まると全員弟としてしか扱ってこなかったからだ。
いや、弟としてしか見れなかった。
「ところで……これ」
ようやく髪や顔を拭き終えたシャディは、次に服をぽんぽんと叩き拭きをしながら濡れなかった右手を上着の左内ポケット入れ、出した封筒をそっとテーブルの濡れていないところへ置く。
「なんですか?……これ」
「見ればわかるよ」
私の問いには答えずにまたとんとんと、濡れている服の箇所へハンカチを当てる作業に戻ってしまう。
私はため息を心で吐いて出された封筒に手を掛ける。
答えてくれないのであれば、言う通り見るしかない。
私は中身を見るため手に取った。
思わず悲鳴の為に息を吸ってしまった口を手で覆う。
中から出てきた紙を見て、その内容に絶句する。
私が知りうる限りの彼の最悪の所業の極みを見た。
今でも思い返せばよくあの時悲鳴を上げなかったと自分を誇れる気持ちになる。
体感では大きな悲鳴とともに気絶していたのだから。
その紙とは自分と目の前に笑顔で座る夫シャルダンと自分ジゼ・ロワールの名が書かれた婚姻届けだった。
式は二か月前に確かに挙げた。
その前に確か男性の家であるアルフレート家が責任を持って、王室預かり婚家取り纏めの部署に提出している代物である。
だが今私の手に紛れもない自分達の婚姻届がある。
王国指定の透かしはあるし、自分のサインを見間違うわけはない。
「……これ……どうされたのですか?」
「実はやらなきゃいけない事があって出さなかったんだ」
シャディに問質す自分の声は怒りなのか怖いもの見たさなのかは分からないが、微かに掠れ震えている。
語尾に音符でも付いていそうな「出さなかった」で済むはずがない。
彼の家は侯爵家、うちは伯爵家だ。
婚姻の有無は王家の了承を得て初めて成立するもので、挙式したのに届け出がないなどとばれたらどうなるのか分かっているのだろうか。
自分達が捕まるだけならいいが、親への被害を考えると最悪お家取り潰しか爵位の剥奪か。
前代未聞過ぎて罪刑の重さが計り知れない。
とにかく王家に結婚式詐欺したように思われたら事実上の社会的死ではないか。
「それで、最初の話に戻るんだけど。少しの間だけ離婚してて欲しいんだ」
手にする婚姻届の重さについ無実を訴える自分を想像していて、シャディの声に現実に戻る。
婚姻届を出さずに離婚して欲しいなど何を言っているのか。
まして一ヶ月とか期限付きで言われなかったか?
公には結婚していて、実質は未婚で、なのにこれから離婚をする?
「……やならければならない事って……何?」
「従妹のマーシーって覚えてる?」
次から次へと信じられないことばかり聞かされて、これ以上聞き漏らしがないように確認をすると今回の件以外の話になり少々苛立つ。
私なりに結婚を機にちゃんとした場では夫を敬う妻になるため、弟のようなシャディに対して敬語を使うように練習していたがその気力も続かない。
それでも記憶を辿りどんな子だったか思い出そうとする。
あぁ、赤毛の気の少々強い……失礼な子。
記憶の中にあるきつい目の女の子を思い出す。
いつだったかシャディ達が帰領していた時に一緒に来て、一、二週間程滞在した後帰った子だ。
シャディの家族はシャディ本人も弟もご両親も、何ならアルフレート家で働く者たちまで優しく朗らかな人達だ。
親戚と聞いて信じられないと思ったし、その子が来たのはそれ一度きりだったからよく覚えている。
その子がどうしたというのだ。
「そのマーシーがね今度結婚するんだけど……これから話すこと皆には内緒にしてくれる?」
一段声を潜め、話を始めたシャディは思い出したかのように改めて私に内緒の約束をさせる。
言われなくとも今、この状況を誰に言えるというのか。
私が手にしている紙がここにあることすら信じがたいというのに。
「どうやらマーシーがお付き合いしていた彼が、彼女の結婚が許せないらしくて、彼女だけじゃなく婚約者にまで危害を加えそうなんだって」
なるほど?
聞けばまぁ想像の範囲というか、要するに従妹のマーシーとやらが別れ話に失敗をして困っているということなのは分かった。
それで何で我が夫、(仮)だと発覚したばかりのシャディにやることが出来て、私達は未婚で離婚しなくてはならないのかが分からない。
「で。マーシーから頼まれたんだよ。本当の婚約者に話すわけにはいかないし、自分だけではなく彼にまで迷惑を掛けたくないって」
「……それで?」
「従妹の泣いての頼みだし、助けてやらないとって思ってね。彼女が立てた作戦なんだけど、僕がその婚約者の代わりに彼女の婚約者になって彼氏に一言物申してやろうとね」
えへん、とばかりに少々胸を張っているが……
想像するに実に簡単なまぁまぁ分からなくもない作戦だけど、このほんわりしたシャディに頼んで解決するようには思えないが、それは言わずに話の先を促す。
「だから、偽とはいえ婚約者のふりをするならジゼと結婚してたら重婚みたくなっちゃうじゃない?決まってた結婚式は変更出来ないけど、書類に不備があって婚姻してなかったら嘘にはならないかなぁってさ」
ん?んん??
待て。
私達の結婚式の方がその相談より遅かったのか?
そんなはずはない。一年も前からお互いの家を行き来して結婚の準備は進めてきたのだ。
彼女の強かな策略に舌を巻くが、のこのこと騙されて本当に提出を怠ったシャディもシャディだ。
それで、見せ掛けでも婚約者を演じるなら妻帯者では不倫になるが、婚姻はまだでしたとすればマーシーとやらの婚約者を演じても平気だとでも考えたってこと?
「だからさ、ジゼ!婚姻届は必ず一ヶ月後にちゃんと提出するから、その間少しだけ離婚しておこう?何ならジゼがその婚姻届を持ってて提出してくれてもいいよ。この通り!マーシーを助けると思って!」
「大馬鹿者!」と怒鳴りはしなかった。
怒りに任せて婚姻届けを破ることも、びちょびちょに濡れたテーブルの上に置いていっそ書いてある名前を滲ませ読めなくすることもしなかった。
向かいで両手を合わせこの通りと頭を下げるシャディの金のつむじを眺める。
どうしてくれようか。
一息大きな溜息を吐き、とりあえずお茶を静かにカップに注ぐ。
彼にあれこれ言うのはもう少し後でもいいだろう。
彼女に対する小言もこれからでよい。
叶うならこのティーポットから注いだお茶が彼の目を覚ます程の熱さが今度こそ残っていればいいのだが。
なみなみと注いだカップのお茶を零さぬようにゆっくり手に取る。
二杯目のお茶は彼のつむじが飲むことになったのは言うまでもない。
◆ ◆ ◆
この馬鹿げた話を最後まで聞いたが、やはりどうしようもない話だった。
頭が痛い。
だが話を裏付けるように未提出の婚姻届けは、現在私の私室の机の中だ。
彼女がシャディに未練たらたらなのは一目瞭然だし、婚約者が本当にいるのかも怪しい。
ただ、百歩……いや、万歩譲って、マーシーだかの従妹の別れ話をシャディが手伝うのはよしとしよう。
だけど私達の結婚を台無しにした挙句、親兄弟、一族郎党路頭に迷うような危険を犯す意味が全く分からない。
その一族郎党には自分の家も十分に入ると分からないのか。
シャディもどうせ彼女の口車に乗せられたというのは分かるが、こんなに簡単に彼女に手を貸して自覚がないとはいえ大罪に手を染められてもこれから夫婦としてやっていけるか大いなる疑問が残る。
結論。
シャディが手伝うのは筋が違うのではないか?
何が悲しくて……悲しいというより情けなさと、婚姻届未届けという事実が親たちに発覚した後が怖ろしい。
それで何がどうして私まで彼女に会うことになるのよ。
あの日、再びお茶を浴びたシャディは文句を言ってはいたが、私を怒ることなく話を最後まで続けた。
そして翌朝何事もなかったかのように、私への行ってきますのキスも忘れず仕事へ出掛けたのだった。
お茶を零した後片付けに来たメイドのカーチャの方が驚いて、お茶を掛ける事になった経緯を問い詰められ、シャディからの話を言うと事の重大さに彼女の方が気を失う騒動になった。
だから話はカーチャだけではなく彼女の夫で、アルフレート家の第三執事だったこともある現この家の執事ヨクサムにも知れることとなった。
彼女達は夫婦でこの家に勤めてくれ、シャディの予想外の行動にも目を光らせていたはずだったのだが、彼はその隙をついたのだ。
ヨクサムから詳しい話を求められたシャディは私に話したことと同じことを彼にも説明をした。
いつも冷静沈着なヨクサムも事の顛末を聞いて、私同様お茶を掛けるか?と思ったが、そこはやはり分をわきまえた執事の鑑、一言。
「お館様にご報告致します」
と残して部屋を後にした。
それから二日後。
ヨクサムが本邸から戻ると私にシャディと共に人と会うよう予定を告げた。
そして今、シャディと座る私の向かいにマーシーとやらが座りその両隣に元彼と婚約者が座っている。
まさに死の国の茶会絵図だ。
一応しおらしく座っているマーシーはちらちらシャディを伺っている。
久し振りに会った彼女は豊かな赤髪を高い位置から流し、少々胸が開き過ぎたドレスを着ていた。
自分に自信があるという見本のような出で立ちだ。
シャディの家から連絡がいっているなら、彼女の家でも今回の件は大事になっているはずで、それを彼女本人が知っているかはしらないが、随分と……堂々としたものだ。
もしかして何も知らないのか?とふと頭に過ぎる。
ちなみに予想はしていたが彼女から私に対しての謝罪などは一切ない。
「あのシャーディ?一体これは……どういうことなのかしら?」
「叔父様達から聞いてないの?」
シナを作り精一杯の猫なで声なのだろう。
マーシーは口元に拳を添えて、上目遣いでシャディに話し掛ける。
それを分かっているのにとぼけた振りをした彼女を空気を読まないシャディがピシャリと黙らせる。
地味に彼女のシャディを呼ぶ呼び方が他と違うことに小さく苛立つ。
そんな苛立った自分の胸の内に少しだけ驚く。
「酷いわ!私を守ってくれるって約束したのに!」
彼女も状況が何となく悪いのは分かっているのだろう、悲劇の主人公のごとくか弱い悲鳴を突然大げさに上げる。
その彼女の言葉を聞いて元彼とやらがテーブルに乱暴に手をつく。
突然隣から聞こえた大きな音にマーシーがびくりと怯え、左に座る婚約者とやらにしがみついた。
元彼はそれを憎らしそうに見て、シャディに視線を戻す。
「……俺が手袋を投げる奴はどっちだ?一人でも二人でも構わないぞ」
シャディはすごんでくる元彼に視線も合わせず、目を瞑り優雅にお茶を飲んでいる。
そんな呑気にお茶を飲んでいる場合?
完全にではないが一番の部外者である私でさえもシャディの態度に目を瞠る。
大体、シャディが集めたこの面子で集まろうというのが土台無理な話なのだ。
それが集まったということはアルフレート家が動いたということで、マーシーの画策は婚約者に知れることになっているし、婚約者の振りをするはずのシャディも私を伴っている。
私がこの場に同席するのも理解が出来かねるが、どう伝えられているか、シャディと私が同席したために一番意味不明なのは婚約者殿だろう。
その彼を見れば、彼もまた目を瞑り静かにお茶を飲んでいるだけである。
腕にマーシーを付けてはいるがまるで彼女の存在がないもののような静けさだ。
そんな無言の婚約者にシャディが声を掛ける。
「クレバ卿はどうしますか?このままマーシーとの婚約を続けます?」
クレバと言えば侯爵家ではないか。
どうりでマーシーが元彼と別れてでも嫁ぎたくなる理由が見えた。
そしてそのクレバ卿に結果だけを聞くということは、この婚約者も今回の騒動の全容を知っているということが確定した。
自分の台詞が無視されたかたちになった元彼は「おい!」と身を乗り出し荒い声を上げる。
それを手を上げただけでシャディが制した。
まさか元彼だけが知らないなんてことはないだろうが、マーシーが企てたとはいえまだ実行された訳ではないけれど、シャディの態度も十分に失礼となっているのは確かだ。
ただしそれも理由がある気がする。
多分、マーシー本人だけが分かっていないだけなのか、いや、知っていてシラを切り通すつもりなのかが分からないが。
一同クレバ卿なる婚約者の返事を待っていたが、彼が返事をする前にその静けさを破ったのはまたもこの勘違い娘マーシーだ。
「皆様、これ以上私の為に言い争いをしないで!ガイロック、ごめんなさい。私やっぱりお父様達を悲しませることは出来ないわ!クレバ様との事応援して頂戴!」
うわー……。
私からすればただのヒロイン病なのだが、その言葉にガイロックと呼ばれた元彼が息を吞んでいる。
ただし、精神的部外者の私と違って、ガイロック卿は彼女の健気さに騙されてる風だ。
悲劇の世界にいる彼女は目元を潤ませ、掴んでいた婚約者の腕に両腕を絡ませ身を寄せた。
そんな彼女に対して今まで無言を貫いていた婚約者のクレバ卿が飲んでいたカップを静かに戻すと、マーシーへ視線を移しふわりと優しげな微笑みとともに口を開く。
「私も過去に恋人がいたかと問われればやぶさかではないが、一応婚約をすると決めた時には身辺をきれいにしたものだよ。……残念だが最初に正直に頼ってくれていたら考えも違っていたが、どうやら私は君の物語の登場人物ではないらしい。君には他に頼るべき男がいたのだからね。あぁ、ガイロック君と言ったかな?君の矜持に掛けた手袋は私は辞退をするよ。それからアルフレート家には後で正式に御礼差し上げる」
元彼の彼の顔を見てはっきりとマーシーとの婚約継続を断つと暗に伝え、静かに自分の腕にまとわりつく彼女の手を外す。
その間一切彼女を見ることはなく席を立つと、シルクハットを被りシャディに帽子での会釈を残しその場を立ち去った。
その背にマーシーからの悲鳴のような「待って!」が何度も掛けられたがクレバ卿が振り返ることはなかった。
クレバ卿の座っていたところへ項垂れるマーシーの顔は、髪が邪魔して彼女の表情を伺い知ることは出来ない。
本人が招いたこととはいえ少しだけ可哀想になる。
「じゃ、僕たちも失礼しようか?」
えぇ?!
あまりにも空気を読まないシャディに、礼儀を忘れて勢いよく振りかぶる。
私ににこにこと笑顔を向ける前にこの場を終息させる努力は捨て去ったのかと、正直本気で心配になる。
真面目に一言物申さなければと口を開こうとしたところへ、マーシーの低く掠れた声が被った。
「……待って。……どうしてこうなるのよ!シャーディは私の味方でしょう?!何でこの女を連れて来た上に婚約もダメにするのよ?!協力するって言ったじゃない!」
きっとシャディを睨みつけ金切り声をマーシーが上げる。
そのマーシーの剣幕に、もはや元彼は黙って事の成り行きを見守っている。
睨まれたシャディは笑顔は崩さず、しかし先程までの呑気な様子を消し、剣呑な気配を滲ませマーシーに告げる。
「…この女?僕の妻に、相変わらず失礼だね。そもそもこの話も僕が結婚相手に君を選ばなかった当てつけに当て馬にしたんだろうけど、僕は君のこういうところが小さい頃から大嫌いでね。僕とジゼを離婚させようとか、ガイロック君に誠意もみせずちゃっかりクレバ卿の奥方に収まろうとか……不愉快極まりないね」
最後の一言のおよそ聞いたことのない彼の低い声に関係ない私まで身が縮む。
シャディのわざとらしい程の大きな溜息とともに始まった自白めいた告白は、先程まで私に向けていた仔犬のような可愛い笑顔の代わりに軽蔑とも嘲笑ともとれる冷たい笑みを張り付かせ、マーシーを薄目で捉えていた。
だ、誰っ?!
こんなの小さい頃から知ってるシャディじゃない!
衝撃の彼の変貌に隣を盗み見る。
今まできちんと座っていたのに、今隣で座る彼は紳士の礼に欠く姿勢を崩して片肘をつき顎を乗せている。
シャディの纏う不遜な態度にも初めて見る姿で驚きが追い付かない。
「何よそれ!……そんな気に入らなかったのなら初めから断ればよかったじゃない!」
自分をないがしろにされた怒りで興奮気味のマーシーは、シャディの気配が変わったことに気付いていないのか、なおも声を上げている。
ぎりりと彼女の歯軋りが聞こえてきそうな台詞に、またも冷笑でシャディが返す。
「いい機会だと思ったんだよ。一途に想う男を爵位の優劣で袖にして、妻帯者の従兄弟に詐欺の片棒を担がせて自分だけ侯爵家の奥方になろうなんて浅はかな君へのお仕置きに。あぁ、勿論君のお父上、バーデス卿もご存知の事だよ」
自分の父親にこの目論見がバレていたのに衝撃を受けたのかマーシーの息を吞む声が響く。
やっぱりと思った。
この集まりの大元はマーシーである。
その彼女が困った風でもなく現れた時点で、やはり彼女はこの件を穏便に収めようとしている大人達のことを分かっていなかったのだ。
シャディはここぞとばかりに彼女への攻撃の手を緩めず言い募る。
「そうだ。気付いていないだろうから教えてあげるけど。君、僕らの離婚偽装をさせようとした時点でうちとクレバの二侯爵家、ジゼと君のとこの二伯爵家の顔に泥を塗って、結婚の約束をしていたのに偽装から身を引かせようとしたガイロック君の男爵家への違約と、五家をたばかろうとしたんだよ。それを各家はもちろん、……王宮が見過ごすと思う?」
「そんな……」とマーシーから小さな声が聞こえた。
私とて同じ気持ちだ。
確かに別れ話に私達夫婦を巻き込んだことは浅はかだったけれど、何もそこまで大きな詐欺を働いたように伝わったら彼女の今後に関わる。
「……ただ私は……」
「そうだね。『自分だけ』幸せになろうとしたんだろ?君らしいおめでたい頭だ。」
笑っていない瞳で拍手でもしそうな笑顔である。
本当に隣にいるのは自分の知っているシャディなのかと思う。
口の悪さも態度もまるで別人のようで幻を見ているようだ。
彼女から漏れ聞こえ始めたすすり泣きに心中を察し、ここは自分が取りなさねばとシャディに声を掛けようとした瞬間、またもや違う声にかき消される。
「いい加減にしてくれないか!俺はマーシーに騙されてなどいないし、婚約破棄も自分から言い出したんだ。彼女を責めるのはやめてくれ!」
先程まで机に拳を叩きつけて荒々しさを出していたガイロック卿は、その怒りを自身で収めマーシーの擁護に回ったようだ。
ならばそれに便乗せねばなるまい。
声高に彼の言葉の後を追う。
「私も!我がロワール家も今回の件を表にすることはないわ、安心して」
「えー……ジゼ、マーシーのこと許しちゃうの?」
「えーじゃないわ。王宮だ五家だなんておおごとにしなくてもいいって言ってるのよ」
「やれやれ、我が妻は随分とお優しい。……反省、しなくてもいいけど、うちと君の御父上がどう判断するか見届けさせて貰うよ。最悪、修道院預かりなんてことにならないといいね」
今まで我慢していたのか、わっと声を上げて泣き崩れてしまったマーシーを見て、直ちに隣に居るシャディの腕を組む。
その勢いそのままに、離席の挨拶を失礼して早足でその場を後にする。
シャディが私に腕を組まれたまま後ろ歩きになっても、そのせいで転びそうになって焦った声を上げていても、私は歩む速度を落とすことはしなかった。
店を出る前に後ろを少し振り返って見れば、ガイロック卿がマーシーを労わっているのが見られてほっとした。
◆ ◆ ◆
「で?どこからどこまでが嘘なの?」
「嘘って?」
白々しいと、シャディに当て擦るようにわざと大きな溜息を吐く。
マーシーの件を問い詰めようとしたら、馬車に乗る頃にはいつものシャディに戻ってしまっていて、のらりくらりと話をかわされてしまった。
だから今、帰宅後まっすぐ部屋へと向かい、とことん聞き出そうと思っているのだ。
それなのにまだちゃんと話す気がないのか、シャディの会話は要領を得ない。
「何をそんなに怒っているの?」
怒ってる?
確かに私は怒っている。
何に?と考え込む。
シャディが離婚を偽装してまで厄介事に首を突っ込もうとしていたことは、先程片がついた。
マーシーが今後少しでも反省をすれば大事には至らず事は終息するだろう。
だから私達が離婚する必要はなくなったわけだから……
「そうよ!婚姻届け!出してなかったじゃない!初めから彼女の件をこうして解決するなら何で私達のことは本当にしたの?」
「……それを怒ってるの?」
「当たり前じゃない!式を挙げたのに未婚でしたって誰が聞いたって私達の方が王宮行きよ」
「……怒ってるのは僕と結婚してなかったから?それとも王宮に怒られるから?」
「違うわ!私と離婚するって一人で決めて、その上結婚すらしてなくて……!」
自分の言おうとした事の辻褄に気付いて、慌てて口を閉じる。
両手で頬を包み、熱を持ち始めた顔をシャディに見られないよう隠す。
「……それって、僕と結婚していたいって事だよね?」
数歩ほど離れていた二人の距離を縮めたシャディに、ふわりと後ろから抱きしめられた。
小さな笑いを含んだ甘い声は私のうなじに吐息を掛けながら、言葉を紡ぐ。
「よかった。……僕を男として見てないジゼを少し試したんだ」
試したという台詞を聞いて、振り返りシャディに顔を向けると、間近にある彼の顔は極上の笑みを浮かべていた。
「……婚姻届の本物は王宮だよ。だから僕らは最初からずっと夫婦のまま」
いつもとは違う落ち着いた低い声が耳を撫でていく。
語尾にまた音符でもついてそうなご機嫌な様子のシャディだが、言われた事実の衝撃に逆に少しだけ冷静さを取り戻す。
やはり全容を聞かねばと気を引き締める。
始めから未婚だったことが嘘で、離婚をする云々も嘘。
結局私だけがシャディに振り回されているだけだ。
「ひゃっ!」
問質そうとした言葉は、シャディにいきなり鼻先を舐められ驚きに変わってしまい、また顔に熱が戻ってきて言葉を飲み込む。
今回の件は意見を言おうとすると毎度邪魔が入るが、ここで挫けちゃ駄目だとシャディを睨む。
ますます赤くなる顔の熱はこの至近距離で隠しようがないが、両手で包むのを忘れない。
「可愛い……ね、これからは僕のことをちゃんと夫として見てね」
「今までも見ている」と告げようとした口は、開き掛けのままシャディによって塞がれた。
夫婦だから別にキスくらいおかしいことではないが、今日のシャディは何か……いつもとは違う。
すぐに離れたシャディと目が合う。
だから一体、誰なのよっ?!
いつもの年下の甘えた仔犬な笑みの中に潜むあやしい瞳に背中が緊張する。
そんなシャディの態度に、こっちの態度も変に意識してしまっておかしくなってしまう。
「僕の作戦は成功だね。奥さん」
どこからどこまでが、どういった作戦なのかをすべて聞き出すには苦労しそうだと直感が告げている。
そしてこれから私の中でのシャディの位置が変わっていくことも。
抱きしめられているシャディの中で、私の背に回された彼の手がドレスのボタンに掛かっていることは知る由もない。
だから今から私が想像する以上の愛情が彼から注がれることは、想像もつかない。
彼の被った毛皮が仔犬だったと知るのは、明日の朝になる。
お読み頂きありがとうございます。
またお会い出来ますよう。