第三話「容疑者」
肩を貸してくれてかつ慎重な足取りだったのは階段の途中までだった。
チャイムの音と共に岡野は浅井から離れ、一人でずんずん進んでいく。
二人は無言のまま階段を降りて二、三年生用の昇降口前の廊下の右手には部活動連絡用のホワイトボードがあり、その近くには校内で唯一の床置き型冷水機が設置されている。左手には二階へと続く階段がある。保健室の入り口はその廊下の先、避難用の非常口の横にある。
岡野がドアを押し開け、二人は保健室の中に足を踏み入れる。
左右にスライド式ではなくドアノブを回し押し開けるタイプのドアを使っているのはここくらいだ。
「もう授業始まってるよ」
出迎えてくれたのは若くて美人で理解のある保険室の先生。ではなく四十台半ばでふっくらしていて中々、保健室で休ませてくれない事で知られている眼鏡のおばちゃんだった。
「具合が悪いので保健室で休ませて欲しいのですが」
岡野がそう切り出すとおばちゃんは眼鏡を光らせて、浅井と岡野を順番に見る。
「二人一緒にかい? おかしな話だねぇ」
思いっきり怪しまれている。が、確かに二人一組で保健室に来れば怪しさ満点だ。
「いえ、僕らは偶然そこで会って……」
そこで岡野は激しく咳き込んだ。おおよそ演技とは到底思えない迫真の咳き込みだった。
「まぁ、熱でも測って」
おばちゃんは顎をクイっとしゃくらせ体温計を差す。自分で取れと言っているのだ。
あまりの冷酷さに遠い世界。詰る所、二次元の世界に必ず居る優しくて美人で若い保険室の先生をつい想像してしまう。巨乳だったりしたら尚更高得点だ。
近くの椅子に腰掛けて体温計を脇腹に入れる。肌に触れる部分が冷えていて浅井は肩をすくめた。
待つ事、数分。体温計の電子音が鳴り響き、浅井は脇から体温計を引き抜きデジタルで表示される体温を見た。
どうせ平熱に決まっているのだから発熱で休む事は諦めて、腹が痛いということでゴリ押しをしようと思っていた。が、実際に表示されていた体温は三十八度五分だった。
ちょっと待ておかしい、これは。
頭も痛くなければ気分が悪い訳ではない。加えて間接も痛くないし何より寒気もしない。しかし、体温計は高熱を表示している。
ふと馬鹿は風邪を引かないという言葉が思い浮かぶ。中学生にもなれば日本中の誰もが知っているであろう。だが、本来の意味は愚鈍な者は、風邪を引いたことに気が付かない。馬鹿は、それだけ鈍感であるということらしい。
簡単に言えば馬鹿は風邪を引いた事に気付かない。
これは浅井にとって少なからずショックだった。確かに数学の成績は壊滅的だが、社会や国語は九十点以下を取った事がないし、全教科合わせての順位は真ん中くらいだ。いや、学校の成績だけが全てではないのかもしれない。
自分が馬鹿だったとは誰でも認めたくないだろう。浅井も認めたくはなかった。
思いがけない所で失意のどん底に突き落とされた浅井は茫然自失のまま、おばちゃんに体温計を渡す。
岡野と浅井の体温計を交互に見比べた後、おばちゃんは保健カード入れを指差す。
「必要事項を保健カードに記入したら、ベットで休んでよし」
軍隊かここは。
馬鹿宣告のショックから少しは立ち直った浅井は内心で毒づきながらも二年二組の保健カードが置かれてる場所から自分のを持ち出し、ボールペンを持つ。
症状、熱、措置などを簡潔に記入して元の場所に戻す。
その際、ちらっと岡野の保健カードを見ると、熱の部分に三十九度と記載されていた。
ここで二つの可能性が挙げられる。
岡野も浅井と同じく馬鹿ということ。もう一つは何かしらのトリックを使って不正に体温計の温度を吊り上げた事。
前者なら仲間が出来て精神的に楽になるのだが、岡野に限ってそれはないという事を浅井が一番、良く知っている。恐らく何かトリックを使ったのだろう。
三つベットは並んでいて、浅井は右側のベットにもぐりこみ周囲をカーテンで遮った。岡野は一番左を使ったらしく、真ん中がぽっかり空いている。
これからどうするかは全く打ち合わせしていないので、取り合えず横になる。
仮病を使って保健室で休む事と盗難事件がどう結び付くのかは浅井には到底、考えも及ばない。ただ、岡野を信じて付き合うだけだ。
どれくらいの時間が過ぎただろう。いい加減、うとうとし始めていると控え目なノックの音が聞こえた。
「すいません。少し職員室まで宜しいですか?」
石垣の声が聞こえた。小言でおばちゃんと何かを話しながら保健室から出て行く。
「おい、ユキ。ちゃんと起きているか?」
ユキというのは浅井の仇名で由来は名前の下二文字。あまり男らしくはないのでそう読んで欲しくはないというのが浅井の本音だ。
「起きてるけど?」
言うが早いか岡野がカーテンを開けるのが早いか微妙なタイミングだった。
カーテンを開けた岡野はメモ用紙を浅井に手渡す。
「石垣が時間を稼いでいる間に保健カードを手分けしてチェックするぞ」
と言う事は石垣がおばちゃんを連れ出したのは事前の打ち合わせだったのか。
「チェックって何を?」
「そのメモに書かれている時間帯に保健室を利用した生徒が居るかどうかだ。学年は問わない」
メモを見ると、日付の横に時間が書かれていた。
一つの仮定を浅井は閃いた。
「これ、もしかして盗難事件があった時間か?」
六月六日。十一時四十五分から十二時三十五分。
犯行時間は四時限目の開始から終了の間。つまりメモ用紙に書かれている時間と言う事だ。
「犯行は六回。その全てを保健室で過ごしているとは限らない。一回でも一致する奴が居たらピックアップしておけ」
「だけど、犯人が一回も保健室を使っていなかったら?」
「その可能性も大いにあるが、授業中に抜け出すと言ったら保健室くらいしか行き場がないだろう。トイレに隠れるにしても見回りの先生とぶつからないとは言い切れないし、もし見つかって問い詰められたらその場で御用だ。犯行の後、保健室に駆け込むのが一番安全だからな。それに、今は情報が少なすぎる。どんなに可能性が低くても思いつく限りのことはする。それが俺達だろ?」
最初から出来ない、無理だ、そんなこと有り得ないと勝手に決め付けるのは簡単だ。だが、決め付けてどうなる。何を得られる。
そうやって屁理屈を捏ねて何も行動しないよりは、どんなに可能性が低い事でも行動する方が何かを掴めるに決まっていると浅井は思った。
岡野は既に一年の保健カードをチェックしている。浅井は二学年の保健カードを取り出すと一組から順に目を通して行く。
情報保護法のこの時代に他人のプライベートを覗くような行為はかなり法に触れてしまっているような気がしないでもない。
罪悪感はある。しかし、それ以上に焦燥感が強い。いつ保健のおばちゃんが戻ってきて背中に怒声を浴びせられるかと思うとひやひやする。
一組には該当者は居なかった。
続いて二組の出席番号一番、浅井直之という名前が目に入った。
初めての記入は今日の日付で数十分前だった。
速攻でめくり二番、三番と見ていく。
見ていく内に案外、保健室の利用者は少ないということは分かった。
健康一番と言えば聞こえはいい。まぁ、あんなおばちゃんが居座っている保健室で仮病を使って休むという猛者はあまり居ないだろう。
余計な事を考えながら保健カードをめくろうとした手を浅井は止めた。
六月六日の四時限、六月十日の二時限、六月十二日の五時限、六月十五日の一時限に保健室を利用している男子生徒が居た。
四回の利用とも犯行があったと思われる時間帯。利用者は二年二組出席番号十番。高宮進一。一年の頃から同じクラスで浅井も良く知る生徒だった。