缶コーヒーを共に
きっかけが何だったのかは憶えていない。きっと大したことではなかったのだろう。気がつけば、彼とは立ち話をする仲になっていた。
大学の講義と講義の間の時間、一息入れようとふらりと立ち寄る自動販売機の前で時たま出会う。そうすると、缶コーヒーを一本飲む間だけ話をした。互いに名前も知らない間柄で、友達とはおろか、知り合いとさえ言えない仲だった。
缶コーヒーだけで繋がっているその希薄な関係性が妙に心地が良くて、結局、大学を卒業するまで付き合いは続いた。
互いに就職して社会人になり、これで関係は終わるのだろうと思っていたが、彼との縁は思っていたよりも深かったらしい。街中でばったりと出会すことがあり、そういう時は、近くの自動販売機を探して缶コーヒーを飲んだ。彼とはこのまま続いていくものだと思っていた。
その日の彼は、口が重かった。こちらの話に相槌を打つだけで、むっつりと黙り込んでいる。そうして話が途切れたタイミングで、ぽつりとこぼした。
「俺、癌なんだよね」
もう末期で、すでに手の施しようが無いのだという。
「俺さ、死ぬのが怖いんだ。自分が死ぬのが怖くて仕方ないんだけどさ、それ以上にさ、家族を残していくことが怖いんだ。嫁は気が強いから大丈夫だと思うんだが、あいつ意外と泣き虫だからなぁ。娘とは酒を一緒に飲みに行こうと思ってたんだけどさ、それも無理だなぁ」
彼は残っていたコーヒーを呷るようにして飲み干して、空き缶をゴミ箱に捨てた。
「ごめんな、こんな話して。こんなこと、お前以外には誰にも言えなかったからさ」
さよなら、と去っていく彼の背中に、思わず声をかけていた。
「おい、娘の名前を教えろ。どこかで会ったら、力にはなれないかもしれないが、話し相手くらいにはなってやれるから」
自分でも何を言っているのか分からなかった。ただ、それくらいしかかけてやれる言葉がなかった。
娘の名前を聞いたっきり、彼とは会っていない。
だから、新しく配属されてくる新人の名前を見た時に、名字を聞いていなかったことを後悔した。緊張しながら挨拶するその顔は、確かに懐かしい面影がある。
年甲斐もなく心が躍る。ああ、まずはどうしようか。いや、そんなことは決まっている。缶コーヒーを共に飲もう。そして、名前も知らない彼の話をしよう。