泡沫夢幻
あの時に似ている。
遠く、波涛の砕ける音が聞こえる。
ほかには、耳元の水面を雫が叩く、リズミカルな拍子。
手狭な空間に反響して、それよりも大きく響いていた。
ピシャン ピシャン ピシャン ピシャン……
視界は、もやがかかったように白んでいて、不明瞭だ。
しかし、覚えがあった。
ギシギシ悲鳴を上げる手足を無理矢理に曲げて、どうにか体を起こしてみると、ぼんやり見えてきたのは、確かに、記憶にある景色と同じもの。
使われなくなって久しい、昆布取小屋らしき建物の中。
そして、なんらかの儀式を行った痕跡だろう。
床に描かれた奇妙な図形と、供物らしき海幸。
この状況は、2度目。
つまるところ。
「また……死に損なったのか」
「なした? ごもくそ言って」
独り言に返事があったので、仰天した。
声のしたほうへ目を凝らす。
部屋の隅に、人影というには微妙な姿が、ひとつ。
「エッ……エリスさん?!」
「んだから、なしたのさ」
「どうしたも、こうしたも……その恰好」
「へんな服さ、びしょ濡れだったもんな」
「その、胸のホタテじゃなくて、それは」
血管の浮いた白い肌、干物のような鰭があちこち貼り付いていた。
ぐったり横たえていた体をゴソリと動かしたが、ごろんと転がる。
どこか悔しそうな顔で、力無く笑った。
当然だ、足が無い。
魚のように鱗を纏い、その先に、大きな尾鰭が広がっている――
ピシャン
近くで聞こえていた、雨垂れに似た音。
不吉な違和感に釣られて、視線で探す。
ピシャン
右の手首にできた、真新しい、深い傷。
こびりついた血と、床の、奇妙な紋様。
色が、一致している。
この、床一面の図形。
これを、この短期間で、2度も描いた?
自 分 の 『 血 』 で 描 い た ――――
「なんて……馬鹿なことを!」
近寄ろうとして、ヌルリと足を滑らせ、たたらを踏んだ。
バランスを失って、尻餅をつきながら、細い手首を握る。
逃げようと弱々しくひねる身体を、後ろから抱き上げた。
「やめれっ! やめれって!」
「暴れると出血がひどいから」
なんとか動かせる尾鰭をビタビタ動かして身をよじる、なんだか大きすぎる魚を釣り上げて、なんとか取り込んだ釣り人のような恰好だな、と……にぶった頭を、滑稽な連想が通り過ぎていく。
こちらも本調子とは程遠い状態。
力任せに抑えることはできない。
抱えたまま、移動して、壁にもたれるのがやっとだった。
「よしかかってると、いずいべや」
「初めての単語すぎると、意味が」
「ちょすな!」
「ちょ……?」
「あっちぇーって言ってるっしょ」
「あっつ……熱い?」
「んだよ、あっちい」
「体が冷えて、そう感じるだけだ」
そんな抵抗も、数秒で力尽きて、動かなくなった。
静かな時間が、しばらく流れた。
「死人を生き返らせる、黄泉還りの魔法。 ……これが?」
かさかさの唇が割れて、「んだ」と、がさがさ乾いた声。
「蘇生魔法、か……逆に、死にかけてるだろ」
「こったら恰好、見られたぐねがったしょや」
「だなぁ。目のやり場に困ってる、というか」
「ホタテの話、してねぇべ」
エリスさんは、ゆっくりと、諦めたように紺碧の瞳を閉じた。
呼吸は浅く、今にも消え入りそうだ。
薄いくちびるが、僅かに震えている。
気のせいか声吐のような動きに「なにか言った?」と尋ねた。
少し、間があって――
小さな声で、囁くように、「ったく、はんかくせ」と呟いた。
「えっ? なに?」
「2回もさ、こっぱずかしいっしょ」
「聞き漏らしちゃった……なんて?」
溜め息混じりに「どんくさいなぁ」と言った声音は、やや落胆していて、くたりと細い身体から力が抜けていくのを肌を通して感じた。
多量の出血のせいだろう。
玉の汗が吹き出している。
酸素を求めて胸が大きく上下するたびに、流れ落ちていった。
その姿が不安をあおった。
消えてしまいそうな泡沫人の背中を、ぎゅっと抱きかかえる。
すっかり冷えきっている身体が、心地良く体温を奪っていく。
蘇生魔法の残渣だろうか?
この空間には、現実か、夢なのか、彼岸か此岸かすらも曖昧に漂っている。
そのうち。
微睡みの中「ぬっくいなぁ」と、甘ったるい響きが、遠く聞こえた――――




