男爵閣下と訳アリの使用人
あの時に似ている。
安堵から意識は朦朧としていて、音はほとんど聞こえなかった。なのに視神経は昂っていて、世界が美しく輝いて見える。水飴の中にいるように、時間はゆっくり緩慢に流れていく。
そこにある、とだけ知覚していた氷。
海中で、その先端が左手に当たった。
長大な氷塊の道が、密度の違いで押し戻せないほどの浮力を得て上昇。
凪
い
だ
海
原
を
豪
快
に
左
右
に
割
っ
て
分
断
し
て
い
く
│
│
その先。
陽の光を受けて青黒くのた打ち回る、シーサーペント。
漁船に吊るしたままの網に、複雑に絡め捕られている。
「やー、どってんこいた。海に、氷の橋がかかったべや」
「さして驚いてないだろ」
「いや? なんもなんも」
「ちょっと届いてないな……濡れずに行って戻れるか?」
細い眉がピクリと反応した。
「そらぁみったくねぇもんな」
「見られたら、困るからなぁ」
「なっ」
「え?!」
「半人半魚の使用人、みったくないってが!」
数秒、間があって。
外套をバサリと脱ぎ捨てた。
港に集まっていた漁師の皆さんは唐突に浮上してきた氷塊に唖然としていたが、真っ青なメイド服を纏った見覚えのある顔、その瞳からポロポロ零れ落ちる涙には、騒然となった。
そして冷ややかな視線は俺の背中に集中していた!
「みったく……え? それ、どういう意味?」
「知らね」
「黙秘?!」
そのうち一人が慌ててザブザブ近づいてきて、「みったくなし、体裁が悪ぃって意味だべや」と耳打ちして、「ひゃっこいなー!」と叫びながら戻っていく。
この重要局面で、言葉の壁。
会話のテンポが最低だった。
「唯一無二のメイドさん、絵的にも完璧だけど」
「は? どーだか」
「個人的な、趣味嗜好かもしれないけれど……」
「弱気でねぇが!」
困った、ヘソ曲げた。
動き出す気配が無い。
どうにかしなくては。
そもそも、どうして怒り出した?
「あのぉ」
「なんさ」
「人魚を探し出せと命令されてきたんだ」
「前にも話してたべさ」
「蘇生魔法で命拾いした。たぶん、人魚のしたことだ」
「……かもしんねぇな」
「いわば命の恩人だろ? 男爵なんて柄じゃないけど、探しに来て……」
「探して、どうすんだ」
そこだ。
「嘘の報告をしようかと」
「うそ?」
「のらりくらりと、見つかってませんと、噓の報告を」
「なして」
「だって、また捕まったら同じことの繰り返しだから」
エリスさんは、ぽかんと口を開けた。
その後「んあ?」と変な声を出した。
「あの、はっちゃきこいて書いてた、書類」
「あぁそれ、嘘の報告書。毎日提出してて」
「なして」
エリスさんをしげしげと眺めた。
「探す前に、屋敷に来ちゃったもんだから」
エリスさんは自分の着ているメイド服を二度見した。
「したらさ、こったら恰好さしてたら……」
これ以上なく、目立っている。
それは重々承知しているのだ。
俺は、誘惑に抗えなかった――
「それで貯金を使い果たしちゃって、着替えが用意できないの。改めて聞くけど。そのメイド服、濡らさずに行って戻ってこれるかな?」
「あだしより一張羅の心配してたってが!」
何故。
正直に告白したら、かえって怒り出した。
が。
不満気に口を尖らせてから沖を見据えた。
大きく傾いた船、かろうじて浮いている。
沈没寸前だった。
「あったらニョロニョロ、イチコロっしょ」
しまった。
肝心な打ち合わせをしていなかったのか。
「あっ……いや、殺すなよ?」
「はァ?!」
「網を切って、逃がしてくれ」
「なして」
「シーサーペントは大切な観光資源だから」
「そったら理由でガッツリ難易度上げんな」
「ここは危ないって噂になったら、困るよ」
「海蛇の好感度より、先に直すとこあるべ」
直すとこ、どこ?
「とにかく、よろしく頼む」
「ざっくりした指示だべや」
「くれぐれも、気を付けて」
「一張羅? 海蛇のほう?」
「まずは意思疎通か。これは、エリスさん」
少し驚いた表情。
そして、皮肉っぽい笑みを浮かべて呟いた。
「……はんかくせ」
再び沖合いの船を見据えると、こちらへ向かって大きく跳躍。頭上を飛び越え、一回転してトンと背後に着氷。一気に加速していく!
人魚なのに、早い。
いや、人魚だから?
氷の橋の先端、あっという間だった。
勢いもそのまま、さらに大きな跳躍。
巨大な大海蛇の、その上へ昇っていく小さな人影。
それでも重力にあらがえず次第に失速して、静止。
落下をはじめた。
シュッ!
シュシュッ!
ピシュ
シュ
シュ
シュン!
しなやかに屈曲して何度も回転し、下降していく。
踊るような動きの最中、何度か煌めいた右腕の鰭。
プツリ、プツリ拘束を解かれ自由を取り戻すシーサーペント、大繩を下すように海中へ巨体を沈めるたびに水柱が立った。棘や突起で飾られた部分には漁網が少し残っているが、生活には支障がない程度だと見て取れる。
鮮やかな展開に、背後でドッと歓声が沸きあがる。
限界まで傾いていた漁船も船体を揺らして安定、かろうじて沈没をまぬがれた。救助に駆けつけ、手をこまねいて見るしかなかった仲間の船が一斉に動き出す。
パシャ――ン
最後。
海面に叩きつけられて沈んでいく、ひとつの人影。
それで良かった。
エリスさんは人魚なのだ。
元の世界に戻っていった。
ただ、それだけ。
二度目の安堵に、ゆるやかに包まれた。
冷え切った体が、限界を迎えたらしい。
目の前が、ゆっくりと暗くなっていく。
これは、あの時と同じ結末。
押し寄せてくる、黒い静寂。
死の影が、じわりと伸びてくる――――