はんかくさい男爵閣下
釣瓶落としの夕間暮れの草むら。
自身の置かれた状況が、今ひとつ飲み込めない。
荒く繰り返す呼気が白く煙る先。
目の前に転がった、4つの死体。
裸足で霜柱を踏みしめる、痛み。
ザクッ、ザクッと、耳障りな音。
驚愕の表情を凍り付かせた男を、引っくり返す。
急激に頭が冷えていく。
「なして?」
粗末な恰好をした、敵国の雑兵。
数合わせに徴集された平民か……
「なして、こったらこと」
手を触れると氷のように冷たい。
碌に訓練も受けていないだろう。
不意打ちにしたって3対1、当然の結果だった。
「……はんかくせ」
徴兵されて安手の革鎧を渡され、この地に攻め込むと聞いた時は仰天した。
なんでも国王が珍しい魔物を手に入れた、それらしい者を発見したら奪い取れ、地位と名誉を約束しようというので周囲は気炎をあげていたが、親父のやっている居酒屋が魚の干物を仕入れている地域だし、兎にも角にも、御迷惑をかけるようなことがあってはならないと控え目に行動していたのに。
どうして、こうなったんだ?
まだ家具も揃えていないから無駄に広いだけの書斎で、慣れない書類に四苦八苦していると、コンコン扉をノックする乾いた音に続いて「旦那様」と澄んだ女性の声が響いた。
キョロキョロと左右を見る。
部屋に人影は無い。
ここで旦那様と呼ばれる人物がいるとしたら、先日の小競り合いで奇妙な偶然が重なった末に一番の功労者になってしまい、爵位を授かり男爵として領地にあった古城に住んでいる元・居酒屋の息子の、俺のことだろうか?
「な、なんでしょう」
大きな扉が開き、メイドが一人、入ってきた。
「エリスさん?!」
瑠璃色のメイド服を包み込む、かわいいエプロン。パニエで膨らませた膝丈のスカート。そのフリルだらけの裾からガーターベルトで固定したレースのソックスが伸びている。各所へあしらった、大胆な碧いリボン。
見れば見るほど完璧な衣装だ……が。
氷柱のように、鋭利で、冷たい視線。
「ったりめぇだ、使用人は1人っきりっしょ」
「あのぉ……どのような御用件でしょうか?」
チラリとエリスさんの顔色を窺う。
細い眉が、ヒクヒクと二度動いた。
凍てつく視線が突き刺さる。
「雑巾片手にメイドがすんのは、掃除」
「あ、掃除ですか」
「決まってるべや」
心底軽蔑した瞳で見下ろしている。
それが瞼に遮られ、緊張から解放。
溜息が漏れた。
つい半年前まで、この古城を攻める敵国の兵士だった。
豪快な城壁破壊を遠望しつつ、草むらで休憩していたら、薄暗がりの中で人目を避けるように先を急ぐ三人組が近づいてきた。
先頭の男は遅い急げと口汚く後続を罵り、一人は麻袋を担いでいて、その麻袋がモゾモゾ動く。人さらいにしか見えなかった。
人助けと思って、一思いにブスリ。
次々と断末魔が響き渡った。
「ギャー!」
「陛下、お逃げください!」
「えぇい忌々しい、余が平民に化けていると見破るとは! この田舎者の魔物さえ使い倒せば、何度でも国など再建できたものをッ!!」
「う、ぬぅ」
「ウゲェ!」
ビシュ――ッ!
「む、無念……
シュ…… パ!!
あっれ――ぇ?
王様、殺っちまった?!
そう、思った。
手遅れだった。
書類に目を落として「お願いしまぁす」と超小声で委任すると、ガッコンと音を立てて乱暴にバケツを置き、黙々と拭き掃除をはじめた。
針のむしろだ。
窓辺から、硝子一枚を挟んだ世界。
猫の額ほどしかない領地を眺めた。
絶景のオーシャンビュー。
今日も、港は活気にあふれている。
つい先日、侵略してきた隣国との小競り合いに巻き込まれ大迷惑を被ったのは、荒くれ物の漁師の皆さん。荒海へ漕ぎ出せば大漁旗を掲げて戻ってくる。
「あっ、大海蛇。 ……凄いなぁ」
シーサーペントやクラーケン、巨大クジラとの遭遇率が高く、人魚が棲んでいたという伝説まである。海の魔物を間近に見物できると、閑漁期はファンタジックな出逢いを求めてネイチャークルーズに訪れる人も多いそうだ。
漁業に疎くて操船技術すら無く自給自足できない殺人犯と、一つ屋根の下で同じ釜の飯を召し上がってくださる人材など、見つかるわけがなかった。
この、エリスさんを除いては。
新参者の俺に、潮風は身を切るように冷たい。