【コミカライズ】美貌の伯爵令嬢が、嫌われ悪魔大公の花嫁候補に名乗りを上げた理由
帝国の真珠と名高い美貌の淑女、貴族男性の憧れの的エリナ・ルフランチェ伯爵令嬢が、サタンフォード大公殿下の花嫁候補に名乗りを上げたらしい。
その噂は瞬く間に帝都を駆け巡った。
完璧な礼儀作法と教養、誰もが見惚れる美貌、心優しい穏やかな性格、品位と知性を兼ね備えた理想の女性。伯爵令嬢であるエリナ・ルフランチェは、毎日のように縁談が舞い込む程のモテ女である。
片や、ルシフェル・サタンフォード大公はその名の通り、魔王のような性格で誰もが眉を顰める醜い怪物だと噂されていた。慈悲もなく敵を殺戮する戦場での姿から、付いた通り名は"悪魔大公"。近寄りたがる令嬢などおらず社交界では忌避される存在だった。
勿論そんな大公に縁談など来ようはずもなく。見兼ねた皇帝が妻を娶るよう強く命じたことにより、サタンフォード大公は公式に花嫁候補を募集した。
いったいどんな問題を抱えた令嬢が悪魔大公に嫁がされるのか。そもそも候補者などいないのではないか。人々の関心が集まる中、真っ先に手を挙げたのが社交界の高嶺の花エリナ・ルフランチェだったことで、帝都には激震が走った。
「エリナ、本気なの?あの大公殿下に嫁ぎたいだなんて……」
「考え直す気はないのか。お前と結婚したい令息は大勢いるんだ。大公殿下でなくとも……」
「お父様、お母様。私はもう決めましたの。それに、我がルフランチェにとっても良いお話だと思いますわ。大公殿下は皇帝陛下の甥にあたるお方。ご縁ができれば家門の名誉となります」
恭しく頭を下げて、決して引かない姿勢を取ると。両親は深い深い溜息を吐き出してエリナの決意を尊重してくれた。
「あなたが、そう言うのなら……でもね、エリナ。これだけは約束して頂戴。あなたは必ず幸せにならなければダメよ」
「そうだぞ。私達がどれ程お前を大切に育てたことか。全てはお前の幸福を願った為だ。幸せになれないと思ったら、いつでも帰って来なさい。出戻りだとて、お前に求婚する令息は後を絶たないのだから」
「はい。我儘な娘で申し訳ございません。ですが、ご心配なさらずとも大丈夫です。私はきっと、あのお方と幸せになってみせますわ」
結局、エリナの他に悪魔大公の花嫁に立候補する者はおらず。エリナは必然的に最終候補者として大公領へ花嫁修行に赴くこととなった。
このエリナの決断は様々な憶測を呼び、中にはエリナの気が触れただとか、大公の財産目当てだなどと心無いことを言う者もいた。しかしエリナは気にも留めず嫁入りの準備を進め、相変わらず凛とした美しい姿を目にした貴族の令息は、失恋の痛みに咽び泣いた。
そうしてエリナは、数多の憶測と令息の涙、両親の慈愛に見送られつつ、辺境にあるサタンフォード大公領へと旅立ったのだった。
「お初にお目にかかります。エリナ・ルフランチェと申します」
出迎えた大公に淑女の礼で挨拶をするエリナ。軍の総司令官でもある大公は、真っ黒な軍服に黒いマント、黒い手袋、顔を隠す黒いマスクを着けて、その紅い瞳をエリナに向けた。
「…………」
無言の主人を見兼ねてか、家令がエリナの前に出る。
「おほん。ルフランチェ伯爵令嬢、遠い所をお越しくださりありがとうございます。我が主人は貴女様のお越しを心待ちにしておりました。長旅でお疲れでしょう。ゆっくりお休み頂く為のお部屋をご用意しております」
イクリスと名乗ったその家令に促され、エリナはサタンフォード城に足を踏み入れた。どこもかしこも真っ黒。悪魔大公の居城に相応しい、とても不気味な建物だった。
「ご主人様、ほら、何をしているのです。レディをエスコートなさいませ」
家令にせっつかれた大公が、ぎこちなくエリナに手を差し伸べる。エリナは微笑んでその手を取った。
「まあ、お気遣いをありがとうございます」
礼儀作法に則った触れ合いであっても、分厚い手袋に阻まれていようとも。エリナはそれだけで天に昇るほど幸せだった。
「……私が不快ではないのか」
漸く聞けた大公の第一声は、それはそれはもう不思議そうな声だった。
「不快なわけがございません。未来の旦那様ですもの。何故そのようなことを仰るのですか?」
「いや……」
大公が戸惑っているのは解ったが、エリナは知らないふりをした。代わりに彼の手に添えた手にそっと力を込める。気付いた大公は物言いたげにエリナを見たが、結局は何も言わずに無言のままエリナを部屋へと案内した。
「必要なものがあれば、イクリスに。……帰りたくなれば、いつでも帰って構わない」
大公は部屋の前で手を離すと、淡々とそう言った。彼の後ろで家令がヤレヤレと首を振る。しかしエリナは冷たくも聞こえる大公の言葉に笑顔を返した。
「ご配慮くださりありがとうございます。大公殿下に相応しい妻となれるよう、精一杯修行させて頂きます」
大公は数秒固まった後、何も言わず逃げるように行ってしまった。残念だけれど仕方ない。花嫁修行は3ヶ月。問題なければエリナはそのまま大公妃となる。謂わばこれはお試し期間。大公の心を開く機会はたくさんある。
気を取り直したエリナは、客人用に整えられた部屋で荷解きを始めたのだった。
「どうだ、美しい花嫁との新婚生活は?」
エリナがサタンフォード城に滞在してから1ヶ月、任務で帝都に訪れたサタンフォード大公のルシフェルは、皇帝に呼び出されていた。
「……花嫁ではなく花嫁候補ですし、まだ結婚したわけではありません」
「帝国の真珠、社交界の高嶺の花を手折っておきながら、なんだその言い草は。ルフランチェ伯爵令嬢ほどの美しい令嬢が花嫁となるのだ。普通の男なら毎日顔がニヤけて止まらないだろう。未だに帝都の令息達はルフランチェ嬢への未練を捨て切れず枕を濡らしていると言うのに。もっと嬉しそうにしたらどうだ」
「……私には、彼女が分かりません」
それは、初めて聞いた甥の弱音だった。皇帝は目を見開き、見たことのない甥の情けない姿にこの上なく驚愕した。
「いったい何があった!? お前がそんな顔をするなど、只事ではなかろう。 私も令嬢のことは調べたが、伯爵家は資金繰りにも困っておらず、令嬢は社交界の華と言われる程に完璧な淑女。嫁ぎ先など引く手数多な上に財産目当てでもなさそうなので此度の縁談は純粋なお前への好意かと安心していたのだ! と言うのに、まさか令嬢には何か企みがありお前に近付いたのか?」
「いえ、……そう言うわけではないと思います。ただ……」
ルシフェルは重い溜息を吐き出した後、この1ヶ月のことを話し始めた。普段口数の少ない男が自身のことを話すだけでも驚きだが、何よりも皇帝が驚いたのは、その内容だった。
「まず、彼女は美し過ぎます。初めて見た時は息が止まりました。見ているだけで眩しく目が焼き切れそうになります。しかし、彼女が最も輝くのは笑顔の時です。その笑顔が、信じられない事に私に向けられるのです。彼女はよく笑いますが、私に向ける笑顔は他者へ向けるものと明らかに違うのです。蕩けるように綺麗で慈しみ深く優しく、まるで……まるで私を……愛しているかのように」
それを皮切りに、ルシフェルはこれまで抱えていた何かを発散させるかのように、次々と吐露した。
「それだけではありません。私がどんなに冷たく接しても、毎日必ず温かい言葉の書かれたカードを花と共に届けてくれるのです。誰にも言ったことは無いのに、私の甘党を見抜いてデザートを手作りしてくれたり、事あるごとに掛けられる労いの言葉、怪物である私に躊躇わず触れてくれる優しい手、花嫁修行の為に日々努力する姿、何もかもが私への好意にしか見えず、私はもう彼女が分かりません」
顔を両手で覆った大公の姿に、皇帝は真顔になって答えた。
「ただの惚気ではないか」
「何を言ってるのです! あんなに美しい人が、私のような者を好きになるはずないじゃないですか!」
突然のルシフェルの大声に、皇帝は飛び上がった。何度も言うが、ルシフェルは普段は物静かな男なのだ。それはもう、まるで年老いた隠居爺であるかの如く、黙して語らず淡々と日々を送るだけだった彼からは想像もできない程、年相応に狼狽える甥の姿を見て。皇帝は、驚愕と同時に安堵した。
「まったく……恋は人を変えると言うが、まさかここまでとは」
「恋?」
自覚のないらしい甥に、皇帝は堂々と告げた。
「その人のことが頭から離れず、一挙手一投足に胸が高鳴り、より深く知りたいと焦がれる。それが恋と言わずして、何と言う?」
悪魔大公と言われ、倦厭され、それでもその重圧を物ともしない強靭な心を持つ男が。令嬢一人にここまで取り乱している姿は、なんとも可愛げがあった。
その表情の大半はマスクで隠れていて見えないが、徐々に赤くなっていく甥の目元や耳先を見て、皇帝は満足げに頷く。
今まで散々辛い目に遭ってきたこの甥にも、漸く春が来たのだ。それも、この上なく美しく幸福な春が。しかし、喜ぶ皇帝とは裏腹に、ルシフェルは震え出した。
「私のような者に好意を寄せられて、令嬢は不快ではないでしょうか?この想いは隠し通すべきでは?そもそも令嬢は何故私のような者の所に……? やはり何か事情があるのでは? いつかは私の元から逃げ出したいと思っているに決まっています。その時絶望するくらいなら、最初から結婚などしない方がいい。大公領に戻り次第、花嫁候補の件は破談にして……」
「待て。待て待て待て。どうしてそうなる」
普段の冷静さを欠いて暴走し出した甥に、皇帝は頭が痛くなった。それもこれも、原因は甥の自己肯定感の低さ。そしてその要因となったのは、皇室の呪いだった。皇帝の甥であるルシフェル・サタンフォード大公の体には、皇室の血の呪いが発現した証である呪詛紋が浮き出している。
数世代に1人、皇家の血統に発現するこの呪いは、皇家に受け継がれる始祖の血の罪の代償であり、呪いを発現させた者は多大なる力を皇家に授ける為の、謂わば生贄のようなものだった。全身に刺青のような呪詛紋が広がり、寿命は短いが代わりに強靭な肉体と莫大な魔力を持つ呪われし者。歴代の呪われし者は、いずれも帝国の為に戦場に立ち、その命を捧げた。
皇帝は、そんな重責を一身に担う甥に負い目のようなものを抱いていたが、ルシフェルの体は今や呪詛紋に覆い尽くされていた。マスクや手袋を外せばその呪詛紋が顕になる。そんな身体の為、異性からの好意など受けたこともない甥が不憫でならず、だからこそ皇帝は、甥の遅い初恋を応援したかった。
「とにかく、お前からこの話を破談にすることは禁ずる。ルフランチェ嬢にどのような事情があろうと、自らお前の元に留まっているのは事実。令嬢の事情も鑑みず、一方的に破談し令嬢を困らせるのは、お前も本意ではないだろう?」
「それは……そうですが」
「それにだな、令嬢がお前の呪いを解いてくれるかもしれん」
皇室の血の呪いには、一つだけ呪いを解く方法があった。それは真実の愛を手に入れること。あまりにも古典的で普遍的な、たった一つの方法。
それを聞いたルシフェルは、自嘲気味に笑った。
「陛下……伯父上。どうか私をこれ以上、惨めにさせないで下さい。このような怪物を、あんなに美しい令嬢が愛してくれると?」
「……可能性はあるだろう。実際に、お前の話では上手くやっているようではないか。令嬢も好意のない者にそこまで尽くすことはあるまい。お前は誤解されやすいが、心根の真っ直ぐな優しい男だ。お前の本質を見抜き、愛してくれる女性はきっといる。それがルフランチェ嬢である可能性は大いにある」
「あまり期待を持たせないで下さい。どうやら私は令嬢のこととなると、冷静ではいられない。期待して裏切られた時、何をしでかすか分かりません。万が一、この力で令嬢を傷付けてしまったら……私はそれが恐いのです」
自分の手を見つめる甥の姿は痛々しく、皇帝は恋の一つすら真面にできない甥が憐れでならなかった。
「では、花嫁修行の間だけで良い。互いを知り、歩み寄ってみよ。それでも令嬢の愛が得られなければ、お前の好きなようにするがいい。私はもうそれ以上口を出さないと誓おう」
「……はい」
小さく頷いたルシフェルは、エリナに会える喜びと恐怖を胸に、大公領への帰路に就いたのだった。
「おかえりなさいませ」
夜分遅くの到着にも関わらず、玄関先で出迎えたエリナの姿を見て、ルシフェルは心臓が破裂するかと思った。いつもの優しい笑み、就寝前だからか下ろされた髪、解いたマントを受け取ろうとする指先。
恋心を自覚したばかりのルシフェルには耐え難いものがあった。
「こんな時間まで待っていなくていい」
暴れ出す鼓動を隠すようにルシフェルが冷たく言うと、エリナは笑みを少しだけ苦笑に変えた。
「殿下ならそう仰ると思っておりました。ですが……久しぶりに殿下にお会いできると思ったら、胸が高鳴って眠れなかったのです。蹄の音が聞こえて居ても立っても居られず、降りてきてしまいました」
ルシフェルは、気を抜けば膝から崩れ落ちてしまいそうだった。自分がどうかしていると分かっていても、彼女の言葉や仕草全てが、まるで自分を好きだと言っているような気がしてならない。そんな奇跡が、あるわけないのに。
「私はお邪魔ですね……イクリスに湯を用意して貰ってます。どうぞ、ごゆっくりお休みください」
固まったルシフェルを見て誤解したエリナは、すぐに行ってしまった。このままでは何をしでかすか分からないのでその方がいいのだが、ルシフェルは去っていくその華奢な背中が名残惜しくて仕方なかった。
家令のイクリスが、情けないとでも言うかのような目を向けながらも主人の就寝の準備を手伝おうと手を出す。
「私のことはいい。ノアールに何か食べ物を用意してくれ」
帝都まで共にした愛馬のことを頼もうとしたルシフェルに、イクリスは待ってましたとばかりのドヤ顔を向けた。
「既にエリナ様のご指示でご用意しております。ご主人様はお気付きではないようですが、エリナ様が今向かわれたのは馬小屋の方向です」
「なに?」
そう言われてルシフェルは、確かにエリナの向かった先が彼女の部屋とは真逆であると気付いた。慌てて追いかけると、確かにエリナは馬小屋に居た。物陰に隠れながら、ルシフェルはヒヤヒヤとエリナの様子を伺った。と言うのも、ルシフェルの愛馬ノアールは名馬ではあるが気性が荒く、ルシフェル以外には懐かないのだ。もしエリナの身に何かあれば……とルシフェルは気が気ではなかった。
しかし、ルシフェルの心配を他所に。ノアールは、大人しくエリナの手から野菜を食べている。
「今回も殿下を無事に帰らせてくれてありがとう」
ノアールの鼻先を撫でながら語り掛けるエリナの優しい声音とその言葉に、ルシフェルは言葉を失う。
「ご主人様が遠出からお帰りになる度に、エリナ様はノアールのお世話をしておられます。ノアールも不思議とエリナ様にだけは懐いているようです」
部屋に戻ってからイクリスにそう聞かされ、エリナの指示で用意されたという湯で身体を洗い、エリナが厨房に準備させたという軽い食事を摂って、ベッドに入ろうとした所で、ルシフェルは枕元に置かれたサシェに気が付いた。
繊細な刺繍の施されたその小袋からは、ラベンダーを基調としたとても良い香りがした。まるでエリナのように上品で優しい香り。サシェの下にはカードがあり、『あなたの見る夢が今宵も良いものでありますように』と書かれていた。
ルシフェルは、ベッドの中で身悶えた。
彼女は自分をどうする気なのか。とてもじゃないが、こんなことをされ続ければ勘違いしてしまう。いつかこの腕に、彼女を抱ける日が来るのではないか、と。
「このままではダメだ……」
戦場では恐いものなしの悪魔大公。しかし今、その手は震えていた。初恋の切なさに、震える程の喜びと恐怖が混じり合う。
ルシフェルはこの時まだ気付いていなかった。サシェを大切に握り締めた指先、手袋に隠されたその部分の呪詛紋が、少しだけ薄くなっていることに……
サタンフォード城に来客があったのは、ある日の午後のことだった。
「ランブリック侯爵だと? いったい何の用件だ?」
訪問者の名を聞いたルシフェルは、首を傾げながらイクリスに問い掛けた。
「それが……エリナ様にご用があるとしか」
「令嬢に?」
言いようのない感情が胸の奥で暴れ出しそうな気配を感じながら、ルシフェルはランブリック侯爵を応接間に通すよう指示した。
「令嬢はこの時間、どこにいる?」
「マルシア夫人と中庭でティータイムをなさっておいでです」
中庭に向かったルシフェルは、厳格と名高いマルシア夫人と談笑するエリナを見つけて歩を止めた。花嫁修行の一環でもあるはずだが、和やかなその雰囲気からは既に打ち解けた空気が漂っている。マルシア夫人だけでなく、花嫁修行の為に出入りしている講師や貴婦人は、揃いも揃ってエリナを絶賛した。
そして皆、口を揃えてエリナに教える事はない、今すぐにでも大公妃として立派に務めを果たせると言うのだ。
ルシフェルのような悪魔大公に嫁ごうとする令嬢は、性格や能力に問題があり貰い手のない令嬢か、行き遅れや出戻りの婦人ぐらいだろうと思われていた為、花嫁修行に3ヶ月もの期間を設けたのだが。
社交界の華として一目置かれるエリナには、そんな教育は必要なかったようだ。エリナは充分大公妃の素質を持っている。それが分かっても結婚に至っていないのは、ルシフェルの迷いのせいだった。
自分のような怪物を、彼女が愛するはずはない。
こんなに美しく、心優しく、完璧なエリナが、自分のような男に嫁いでいいのだろうか……と。彼女にはもっとハンサムで名声もあり、人から後ろ指を差される事がないような、相応しい相手がいるのではないか。その方が彼女は幸せになれるのではないか。そう思えばこそ、ルシフェルは結婚を急ぐことができなかった。
「殿下……?」
いち早くルシフェルに気付いたのは、エリナだった。ルシフェルの姿を見るや否や、いつもの……ルシフェルにだけ向けるあの美しい笑顔を浮かべる。それを見たルシフェルは、止めていた足を再び動かしテーブルまでやってくると、マルシア夫人に挨拶をしてエリナに向き直った。
「令嬢に客人が来ている」
「私にですか? 心当たりがないのですが、どなたでしょうか?」
「ランブリック侯爵だ」
ガチャン―――エリナの手にしていたカップが、音を立てて割れた。
「令嬢! 大丈夫か?」
「エリナ様!?」
いつものエリナからは想像もできない失態に、ルシフェルとマルシア夫人が驚くも、2人はエリナの顔を見て更に目を見開いた。
「エリナ様! 真っ青ですわ、どうされたのですか!?」
エリナは目に見えるほど怯えていた。顔を青くし、小刻みに震え、美しい顔は恐怖に凍り付いていた。それどころか、呼吸を乱し上手く息ができないようだった。ルシフェルが戦場でたまに見る、兵士の過呼吸の症状に似ている。
「令嬢、落ち着くんだ。ゆっくり息を吐け」
嫌がられるかもしれないと戸惑う暇もなく、ルシフェルはエリナの背に手を当てた。途端にエリナはルシフェルの腕に縋り付いた。
「……殿下、」
懇願するような、助けを求めるような濡れた瞳を見て。ルシフェルの鼓動が速まる。自分が触れた手を拒絶するのではなく、頼るように縋ってくれる。そんな令嬢が、他にいるだろうか。
恐る恐るエリナを抱き寄せたルシフェルは、自ら身を寄せてくるエリナを見て言い知れぬ喜びに打ち震えた。そしてルシフェルに包まれたエリナは、徐々に呼吸を落ち着かせていった。
「どうやら私の思い違いだったらしい。例の客人は私の客だ。君には関係ないからゆっくりしているといい」
「殿下、ですが……ご迷惑をお掛けするわけには……」
エリナが落ち着いたところでルシフェルがそう言えば、エリナは青白い顔のまま首を振る。しかし、ルシフェルが聞き入れる事はなかった。
「マルシア夫人、すまないが令嬢の介抱を頼めるだろうか」
「殿下の仰せのままに。エリナ様、まだ震えていらっしゃいます。横になられた方がよろしいわ。行きましょう」
気にする素振りを見せつつも弱々しく去っていくエリナの背中を見送り。ルシフェルは、拳を握り締めた。名前を聞いただけであれ程までに怯えるとは、ランブリック侯爵はエリナにいったい何をしたのか。想像しただけで腹の底から怒りが湧き上がってくるようだった。
「……私はエリナ嬢に用があったのですが」
応接間にて、やって来た悪魔大公を見たランブリック侯爵は不満そうに眉を寄せた。一見すればハンサムで、帝都での評判も申し分ない男だが、前触れもなく突然大公領にやってきて、大公の花嫁候補に会わせろと言う彼はどう考えても普通ではなかった。
「令嬢は体調が悪く休んでいる。代わりに用件を聞こう」
ルシフェルが淡々と答えると、ランブリック侯爵は爵位も立場も上の大公に向けて鼻を鳴らした。
「大公殿下、では失礼を承知で申し上げますが、そのようにエリナ嬢を縛り付けるのは如何なものかと思います」
「……なに?」
「帝都では話題になってますよ。あなたが可憐なエリナ嬢を手篭めにし、脅して花嫁候補にしたと。今すぐ彼女を自由にして下さい。こう言ってはなんですが、私は彼女と将来を約束しているのです。言うなれば殿下は間男、邪魔者です。本来であれば今すぐにでもエリナを連れ帰りたいところですが、殿下に免じて別れの機会をあげましょう」
「……」
ルシフェルには、ランブリック侯爵の言っている事が理解できなかった。
エリナは自ら望んでここにいる。何故かは分からないが、それがエリナの意思であることに間違いはない。そして、この男とエリナが将来を約束した仲なのであれば、エリナがあれ程までにこの男を怖がっていた事と辻褄が合わない。
もし、先程のエリナの様子を見ていなければ、ルシフェルはランブリック侯爵の言う通りにエリナを帝都に帰したかもしれない。しかし、それがエリナの本意でないとすれば、話は別だ。
「悪いがお引き取り願おう」
少しもブレることのない悪魔大公の低い声に、それまで余裕そうだったランブリック侯爵は初めて焦った様子を見せた。
「な、何を……? 聞こえなかったのですかな、私はエリナと」
「彼女は私との婚姻を望んでいる。これは紛れも無い事実だ。貴殿の入り込む余地はない」
ルシフェルは、長い脚を組んだ。全身黒尽くめのルシフェルはその異様さに目を奪われがちだが、よく見るとその身体は均整が取れ美しい。そしてルシフェルから醸し出される高貴さは並大抵の男では敵うはずもない圧を伴っている。
「そ、そんなわけ、……嘘です! いくら大公殿下と言えど、女性の気持ちを無視する非道な行為は……」
「くどい。嘘だと思うのなら正式に皇室を通して抗議文を送ることだ。私の領地に押し掛け、私の花嫁を誑かそうとした暴挙については貴殿の顔に免じて不問としてやろう。私の気が変わらぬうちに我が領地から即刻立ち去れ」
ガン、とテーブルを叩き割ったルシフェルの腕力に恐れ慄き、ランブリック侯爵は脚を震わせた。しかし、それでもなおその場から動かなかった。
「違う、認めない、いやだ、エリナは僕のものだ! エリナを返せ! この悪魔め!」
恐怖に慄きながらもランブリック侯爵は懐から取り出したピストルをルシフェルに向けた。その目は血走り、最早正気ではなかった。面倒臭いと思いつつも、ルシフェルはランブリック侯爵がピストルを撃つより素早く身を翻した。一拍遅れて放たれた銃弾が革張りの椅子を掠める。ルシフェルはそのままランブリック侯爵を制圧し、危なげなく踏み付けた。
「うっ!!」
「帝国の大公であり、皇室の血筋を引く私に対する攻撃。覚悟はできているのだろうな」
ルシフェルがイクリスに命じてランブリック侯爵を捕縛しようとした所で、応接間の扉が勢いよく開いた。
「ルシフェル様っ!」
「なっ……!?」
そこに立っていたのは、黒一色のドレスに身を包んだエリナだった。先程より青白い顔で、真っ直ぐにルシフェルを見詰めている。
「エリナ! 僕だよ、君を迎えに来たんだ! 会いたかった! ぶへっ」
抑え付けられながらも気が狂ったように叫ぶランブリック侯爵を無視して……どころか踏み付けて、エリナはルシフェルに駆け寄った。
「銃声が聞こえましたわ。大事ありませんか? どこかお怪我をされたりとかっ」
心配そうにルシフェルの手を取り、あちこちと撫で回す取り乱した様子のエリナに、ルシフェルは混乱しつつも応えた。
「問題ない。あれしきの者に遅れを取るような事はないから安心しろ」
「あぁ、良かった! ……ルシフェル様に何かあったらと思うと私……、 あっ!」
そこまで言ってエリナは慌てて口を塞いだ。しかし、もう遅い。ルシフェルの耳には二度も、エリナがルシフェルの名を呼ぶ声が届いていた。これまでは"殿下"と敬称のみで呼んでいたエリナが、咄嗟に呼んだのは誰もが忌み嫌い口にするのを避けるルシフェルの名だった。更にはエリナの纏うドレスがルシフェルとまるで揃いのような漆黒で、エリナがルシフェルの色に染まっているかのようにすら錯覚してしまう。ルシフェルがその姿から目が離せず見詰めていると、顔を真っ赤にしたエリナと目が合い、ルシフェルの頰もマスクの下で熱を持つ。
「エリナ! 僕を見てくれ! どうしてその男の元に行くんだっ」
水面下で恥じらい合う二人の空気を読まず、しつこく叫ぶランブリック侯爵の声にビクリと反応したエリナは、震える手でルシフェルの手を取った。
「ルシフェル様、どうか手を握っていて下さいませんか」
切羽詰まったようなエリナの声に、ルシフェルは訳が分からないながらも頷いた。
「君が望むのならば」
エリナは嬉しそうに大切そうに両手でルシフェルの手を握り締めると、ルシフェルも応えるように手に力を込めた。一度目を閉じたエリナが目を開け、床に伏して捕縛されたランブリック侯爵に向き直る。
「ランブリック侯爵閣下。とても無様なお姿ですわね」
え、とその場にいた誰もが驚いた。淑女と名高いエリナからはとても想像できない、憎悪に塗れた冷たい声音だったからだ。
「え、エリナ……? ぐっ!?」
高いヒールの先で、エリナはランブリック侯爵を踏み付けた。
「閣下からの求婚状には何度もお断りのお返事を出しているはずです。ご理解力が乏しく何度も送り付けてくる閣下の為に、13通全てに一言一句同じ文面でお断りしておりましたのに、何をどう勘違いされてここまでいらしたのです?」
「くぅ、!」
踏み付けたヒールをグリグリしながら、エリナはルシフェルと繋いだ手に力を込めた。
「更には私の愛するルシフェル様に銃口を向けたですって!? 恥をお知りなさい! あなたのような小者が私のルシフェル様に敵うとでも思っているの!?」
ガンガンとランブリック侯爵を踏み付けながら罵倒するエリナに、ルシフェルを始めその場にいた者は開いた口が塞がらなくなった。中でもルシフェルは、エリナの言葉に目を白黒させて困惑した。
(あ、愛する……? 私の……? 令嬢は、いったい何の話をしているんだ!?)
「いい機会です。丁重なお断り文書ではご理解できないようなので、ハッキリと言わせて頂きます。私はあなたのその蛇のような気持ち悪い視線が大嫌いなの。二度とその汚らわしい顔面を私の前に晒さないで頂戴」
最後にお見舞いされた飛び切りの蹴りと言葉に、ランブリック侯爵は泡を吹いて白目を剥きながら気を失った。
「……あの、ルシフェル様。お話をさせて頂けませんでしょうか」
ランブリック侯爵を警備隊に引き渡し、一部始終を書いた皇帝への手紙と共に帝都へ送り付けた後。エリナからおずおずと切り出されたルシフェルは、エリナとティータイムを取ることにした。
とは言っても、ルシフェルは基本的に人前でマスクを外す事がない。茶も菓子も食事も、1人の時にのみ口にする。そのためエリナの前にだけ置かれたお茶を見て、エリナは美しい所作で新たなお茶を淹れ直し、ルシフェルの前へ置いた。
「悪いが私は茶は……」
ルシフェルが断りを入れようとしたところで、エリナは微笑みを浮かべる。
「お体の呪詛紋のことでしたら、存じ上げております。私の前で隠す必要はございません」
「何故それを……!」
ルシフェルは驚愕に目を見開いた。皇室の呪いのことは、皇室の中でしか伝わっていない。対外的にはルシフェルの身体は病で醜く爛れ、人に見せる事ができないとされている。
「以前、たまたま拝見してしまい、その時に教えて頂きました」
「な、なんだって? いったい誰に……?」
「ルシフェル様にです」
ルシフェルは、何が何だか全く分からなかった。勿論、そんな記憶は一切ない。しかし、エリナがそんな意味の無い嘘を吐くとも思えない。
「君はいったい……」
「信じて頂けるかは分かりませんが、全てお話しします。 実は私は………… 一度死んでいるのです」
エリナから聞かされた話は、衝撃的なものだった。
「死んでいるだと? 君はここに生きているじゃないか」
「はい。どう説明していいか、私にも分からないのですが……どうやら私は前の人生で命を落とし、死んだ後に10歳まで時を戻って二度目の人生を生き直しているようなのです」
「…………は?」
絶句するルシフェルに、エリナは自嘲めいた苦笑を浮かべた。
「到底信じられる話ではありませんよね。ですが、私はルシフェル様に全てをお話したいのです。気が触れたと切り捨てられても仕方ないと思っております。それでも私は……」
「信じよう」
「え?」
「君の話を信じる。だから、聞かせてくれないか。君は何故、命を落とした?」
「……っ!」
ルシフェルは一点の曇りもない瞳をエリナに向け、その視線を受けたエリナは息を詰まらせた。まさか、ルシフェルが信じてくれるとは思っていなかった。頭がおかしいと思われ、サタンフォードを追い出されると覚悟していた。
それなのに、優しい彼はエリナのことを微塵も疑わず、真っ直ぐに見てくれる。前世からずっとずっとルシフェルだけを一途に想ってきたエリナにとって、これほどの喜びは無かった。
「前の人生で、私の両親は私が12歳の年に亡くなりました。突然の事故でした。その後私は家門を守ろうとしましたが、家門の力は徐々に衰えていき……今の私と同じ歳の頃、財産を親戚に持ち逃げされて一文無しになりました。そんな中、今世と同じように大公殿下が花嫁候補を探していらっしゃると耳にし、私は名乗りを上げました」
「では君は、前世でも私の花嫁候補に?」
ルシフェルが驚くと、エリナは懐かしむような瞳で頷いた。
「そうです。ですが、前世の私は崩壊寸前の家門の貧乏令嬢。ボロボロの身なりで、とても大公妃が務まるような状態ではありませんでした。にも関わらずルシフェル様は、私の事情を聞くと他に候補がいないからと私を受け入れて下さり、行く宛のない私を拾って下さいました。私はルシフェル様への恩を返す為、必死に花嫁修行に励み、完璧な淑女としての礼儀作法や教養を身に付けました」
「道理で……」
この話を聞いて、ルシフェルは納得した。エリナが既に前世で花嫁修行を終えているのなら、今世で既に教育が必要ないのは当然だった。講師や貴婦人達が口を揃えてエリナを完璧だと評したのは、そう言う訳だったのだ。
「ルシフェル様は、他に行き場もなく必死な私に優しくして下さいました。ノアールと一緒に遠出をした事もあります」
「なに? 私が、君をノアールに乗せたのか?」
「ふふ、前世の私は本当にボロボロで、痩せていてドレスも着れず、髪も短かったですし、何より本当に何もできませんでした。きっと今世とは違い、ルシフェル様は私を憐れに思って息抜きに連れ出して下さったのでしょう」
ルシフェルは想像してみた。確かに、今とは全く違う、行き場のない少女であるエリナが来たとして。ルシフェルは、今世のエリナのように警戒も緊張もしなかっただろう。それも、今のエリナと同じように真面目で心優しくルシフェルに触れることを厭わないのであれば、人としての好感を持ち、気安く接していたかもしれない。
「そうかもしれないな」
ルシフェルが頷くと、エリナはいつもの笑みをルシフェルに向けた。
「甘いものがお好きなのも、その時に知りました。それから、たまたま捲れた袖口から呪詛紋が見えてしまったことがあり……ルシフェル様は戸惑われてましたが、私は全く気になりませんでした。あの頃の私にとっては、あなたが本当に怪物だろうと悪魔だろうと既に関係なかったのです。呪詛紋に直接触れた私に、ルシフェル様は皇室の血の呪いの話を教えて下さいました」
「なに? この呪詛紋に、触れたのか?」
ルシフェルが目を見開くと、エリナは何の気負いもなく頷いた。
「はい。そういえば、あの時のルシフェル様も今と同じ目をなさってました。信じられない、という目です」
大したことではないとでも言うようなエリナの物言いに、ルシフェルは、エリナの回帰前の自分が何故皇家の秘話を話したのか理解した。
ルシフェルはきっと、今世と同じように、エリナに恋をしたのだ。
ルシフェルの呪詛紋は、血族はおろか、実の両親でさえ気持ち悪がり直接触れた事が無かった。ルシフェル自身、他者との触れ合いなどとうの昔に諦めていた。手袋越しでの触れ合いさえ、奇跡のようなのだ。それが、この肌に直接触れようと思う令嬢がいるなど、夢にも思っていなかった。
名実共に妻となってくれるであろうエリナに、婚姻前に皇家の血の呪いの話をしたのが何よりの証拠。しかし、そうだとしたらルシフェルは、愛を誓おうとした前世の彼女を守れなかったと言うことになる。
「それで……どうして君は、死んだんだ?」
本題に入ると、エリナはピクリと体を震わせた。
「花嫁修行を終えた、婚姻の前日の事でした。始まりは、ノアールの怪我です」
「ノアールが、怪我をしたのか?」
ルシフェルが身を乗り出すと、エリナは辛そうに眉を寄せた。
「何者かが馬小屋に侵入して、故意にノアールを狙ったのです。馬にとって大事な脚が切り付けられ、命に別状は無かったものの、人を乗せ走るのはもう……ルシフェル様は、酷く落ち込まれました。そのお姿を見て、私は……犯人の手掛かりを掴もうと単独で外に出たのです」
「なんて危険なことを」
「本当に愚かでした。敷地内に侵入してノアールを傷付けた犯人が、まだ潜伏しているかもしれないのに。そんな中、非力な私が余計な事をすれば、皆さんの足手纏いにしかならない。それでも、ルシフェル様の為に何かしたかったのです。ですが結局私は、1人でいた所を狙われて拉致されました」
「……!」
その話を聞いて、ルシフェルは堪らず立ち上がった。ガタンと椅子が倒れたのも気にせず、エリナの側へと跪く。
「犯人は、ランブリック侯爵でした。あの男は、幼い頃から気持ち悪い目で私を見ていました。両親の事故も、親戚の持ち逃げも、全てあの男が私を手に入れる為に仕掛けた事でした。困窮した私に手を差し伸べるフリをして、私を支配しようとしたのです。しかし、私はその前に自らの足でルシフェル様に助けを求めた。あの男はそれが気に入らなかったと言っていました。だからわざと婚姻の前日を狙い、ルシフェル様が大切にされているノアールにも手を出したのだと」
エリナの肩は小刻みに震えていた。ルシフェルは、躊躇いつつも彼女の手を取り握る。エリナはその手を握り返すと、続きを話した。
「……私は組み敷かれ、押さえ付けられて、……いっそ舌を噛んで死のうとした時、ルシフェル様が助けに来て下さいました」
「……っ……!」
一瞬息を呑んだルシフェルは、その時の自分が間に合ったことに胸を撫で下ろしつつも。その後の不穏な展開を想像して握った手に力を込めた。
「私を助けたルシフェル様が、油断した一瞬の隙をついて。あの男は、懐に忍ばせておいたピストルをルシフェル様へ向けました。私は咄嗟に前に出て……」
「私を庇い、命を落としたのか」
頷いたエリナを見て、ルシフェルは一度目を閉じた。その胸中には、さまざまな想いが渦巻いていた。
「私はルシフェル様の為なら自分がどうなろうとどうでも良かった。ですが、最期に見たルシフェル様の涙に悔いが残りました。優しいあなたと、幸せになりたかった。孤独なあなたを、私が幸せにして差しあげたかった。そんな想いが通じたのかもしれません。目を覚ますと、10歳の自分に戻っていたのです」
そこからエリナは、両親の死を回避させ、完璧な淑女となり再びルシフェルの花嫁になれるよう努力を重ねたと語った。
「私の花嫁になるためだと?」
「はい。私の評判が良ければ、嫁いだ後にルシフェル様やサタンフォードの評判が良くなるでしょう? だから頑張ったんです。苦手だった社交界に積極的に参加して、いつしか帝国の真珠とまで言って頂けるようになりました。何もかも、全てはルシフェル様……あなたの花嫁になりたかったからです」
どこまでも健気なエリナに、ルシフェルは天を仰いだ。
まるで、目の前の美貌の令嬢が、ルシフェルの為だけに存在する運命の片割れのような気がしてならなかった。
「ランブリック侯爵のことは……いつか決着をつけなければと思っていました。ですが、あの男の事を考えるだけで、組み敷かれた時の悍ましい記憶が蘇って……」
震え出したエリナに、ルシフェルは腹の底から怒りが込み上げた。縛り上げただけでは生温かった。四肢を切り落として二度とエリナを見る事ができぬよう、目をくり抜いてしまえば良かったと後悔する。
「でも、ルシフェル様のおかげで恐怖に打ち勝ち、あの男に言いたいことを言うことができました。ルシフェル様があの時手を繋いでいて下さったからです。このドレスも、私があなたのものである証です」
キラキラと自分を見つめる澄んだエリナの瞳と甘い微笑みに、ルシフェルは心臓を押さえた。
「私は……私はいったい、君に何をあげられる? こんなにも私を想ってくれる君に、何を返せばいい?」
ルシフェルが持っているのは、広大な荒れた領地と軍事権、呪いにより得られた強靭な肉体と莫大な魔力。エリナの為なら何を捧げても惜しくはないが、ルシフェルの持っているものではエリナの想いに釣り合わない気がした。
「何もいりません。ただ、ずっとお側に居させて下さい」
エリナの真っ直ぐな瞳が、痛い程にルシフェルの胸を直撃した。それでもルシフェルは、彼女を喜ばせたかった。何でもいいから、彼女に捧げたかった。
「……何でもいいから言ってくれ。君に何かをしてあげたいんだ」
ルシフェルが真剣にそう言うと、エリナは遠慮がちに言った。
「では1つだけ、お願いをしてもいいですか?」
「なんだ?」
「……その、ルシフェル様のお顔を見せて頂けませんか?」
「顔だと? この、醜い呪詛紋に覆われた顔をか?」
「前世では、婚姻の日にお顔を見せて下さると約束していたのです。だから結局、私はお顔を拝見できず死んでしまいました」
「……わかった。その代わり、君がマスクを外してくれ」
愛しい人に醜い顔を自ら晒すのは、流石のルシフェルでも勇気がいる。なのでそう言えば、エリナは嬉しそうにルシフェルの顔へと手を伸ばした。
はらり、とマスクが落ち、頬に外気が触れる感触を感じながら。この醜い顔のせいで最愛の人に嫌われてしまったらどうしようかと不安が過ぎる。しかし、ルシフェルの不安に反して、目が合ったエリナは変わらずに微笑んでいた。それどころか、エリナの細い指先がルシフェルの頬に直接触れた。
「私の旦那様は、思った通り優しいお顔をなさっておいでですね」
「……っ」
ルシフェルは、堪らずエリナの体を抱き寄せた。こんなにも愛おしい存在が、他にいるだろうか。二度と……二度と誰にも奪われたくない。手放したくはない。いつまでも大切に、ひたすら大切にしていたい。これを愛と言わずして、何を愛と言うのだろう。
すると、腕の中のエリナが不思議そうにルシフェルを見た。
「ルシフェル様? 呪詛紋が、消えてますわ!」
「なに?」
エリナの言葉に驚き、ルシフェルは慌てて手袋を外した。指先まで伸びていた呪詛紋が、確かに薄くなり端から消えていっている。
ルシフェルは思い出した。先日、皇帝に言われた言葉を。
『令嬢がお前の呪いを解いてくれるかもしれん』
ハッとしてエリナを見たルシフェルに、エリナが心配そうに視線を返す。ルシフェルだけに向けられるその瞳が愛しくて愛しくて、どうにかなりそうだった。
「……愛している。エリナ」
自然とそう伝えていたルシフェルは、息を呑むエリナを引き寄せて、素手でその頬に触れた。
「私も、……心から愛しております、ルシフェル様」
涙を浮かべながら微笑んでくれたエリナに優しく口付けをして、ルシフェルは目を閉じた。
エリナもまた、前世からずっと愛し焦がれ続けたルシフェルの想いを受け止めて目を閉じる。
次に二人が目を開けた時、ルシフェルの体を覆い尽くしていた呪詛紋は、完全に消えていた。
サタンフォード大公領はその日、これまでにないほど賑やかだった。
辺境の荒れた土地にはあまり人が寄り付かない。しかし、この日ばかりは違った。
領主のサタンフォード大公が、帝国の真珠と名高い美貌の伯爵令嬢エリナ・ルフランチェを妻にする日。帝国一の美女の花嫁姿を一目見ようと、大公領には人が押し寄せていた。
更には皇帝陛下まで甥の結婚を祝いに行幸したこともあり、黒一色のサタンフォード城は華やかな空気に覆われていた。
エリナの花嫁姿だけを楽しみに式に参列した者達はしかし。新郎新婦の入場で度肝を抜かれた。
何故ならば、この世のものとは思えぬ程美しいエリナの隣には、エリナの隣に在っても見劣りしない程の美男子が立っていたのだ。それも揃いの漆黒の盛装姿で。
誰がどう見ても、その場所は新郎のいるべき場所。美しいエリナの甘い微笑みが、その男に向けられる。微笑み返した男の顔は、とても優しげだった。
悪魔大公ルシフェル・サタンフォード。魔王の名を持つ、残虐非道な醜い怪物と噂されていた彼は、微笑み一つで帝国中を魅了する美男子だったのだ。
美貌の伯爵令嬢が、嫌われ悪魔大公の花嫁候補に名乗りを上げた理由 完
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