第1章 1 メイドは述懐する
スリルはない回になります。
私めの朝は日の登る前に始まります、たった二人の住む小さな御屋敷ではあれど、姫様に常に気分良く過ごしていただくためには本来ならば寝ている時間など惜しいだけではありますが、姫様は大変慈悲深く、従僕である私めなどに、夜になればお前も寝なさい、そう仰られます。
まずは一切の音を立てる事なく、掃除に始まり、朝食の準備、姫様の御召し物の支度、それらが済めば決まった時間に姫様にお目覚め頂きます。
先程、小さな御屋敷、とは申しましたが、商人如きが容易に手を出せるような品格の屋敷ではありませんので、それなりには掃除にも時間が掛かります、とは言え、姫様にお仕えさせて頂き早4年、慣れた仕事に御座いますれば、時間の配分を間違えるなどの粗相は致しません。
この世界、アースガルドに於いては、スキルを持つ職人が仕立てた服は通常、汚れや解れなどは致しませんので、そう言った部分に手間がかかる事が無い、と言うのも存分に助かっております。
さて、朝の食事には、これだけは外してはならない、と言う姫様のこだわりを持たれた逸品がございます、何故かは分かりませんが、姫様は余り召し上がらないにも関わらず、岩魚の塩焼きだけは絶対に用意せよ、と、3年と6ヶ月前からの決まりにございます。
姫様が治められるこの地、ヘイムダルは、豊かな自然と肥沃な大地、姫様を心から敬愛する領民の努力の甲斐もあり、米と麦、それらを使った味噌や醤油などの日本人が好む品々の一大産地であります。
姫様は基本的にパン食を好まれますが、何故か白米の準備もするように、と仰せになります、大概は姫様が手をつけずに、私めに下げ渡されます、これもまた3年と8ヶ月前、旅先にて稲作地帯に訪れて以降、かようにせよと姫様が厳命された所でございます。
やはり領地を持つ貴族たる者としての財力の表し方、とお見受けいたしますが、ならばやはり格式のために、と畏れながら進言させて頂いた、私めの以外の使用人を雇う事には頑として反対されております。
仕事のできないお飾りの有象無象を侍らせたとて、私めが全ての職務をこなしてみせます、そう何度も申し上げても渋面をお作りになられるので、3年と2ヶ月前からはそのような話題は当家では厳禁となりました。
そう言った事ごとを思い出しながらも、今日も姫様に尽くすため、掃除を完璧に終えました、客室20部屋、リビング50畳、ダイニング50畳 キッキン、トイレやバスルーム、使用人の私室10部屋、庭の薔薇園や、地下のプレイルームの手入れにも手抜かりはございません。
次に私めが取り掛かりますのは、姫様が召し上がられる朝食の支度にございます。
こうして言葉にするとありありと思い出すことができますのが、姫様が旅の途中、私めを拾ってくださったのちの、続く旅先での事ごとでございます。
当時の私めは、いわば野良犬、そう申し上げても差異はございませんでしょう、言葉遣い、所作、心構え、そう言った諸々が拙く、姫様にふさわしいメイドとは、思い上がることさえ出来ない有様でした。
姫様が語られたところによりますれば、姫様は第一陣のプレイヤー、それもベータテスターとして選ばれた各国から集められた50人のお一人だそうでございます。
そうなりますと、私めがプレイヤーとなりましたのがおおよそ4年前で御座いますので、お逢いできました時には既に15年以上のこの世界での経験がおありになったわけです。
その姫様にお仕えさせて頂けた幸運がありますればこそ、今の様な差し当たり一人前、と言えなくも無いメイドとなれたわけでございますね。
もちろん、現状に驕る事なく、常に姫様の御為にお仕えし、姫様にとって最高のメイドになる、その事を常に胸に刻んでおりますが。
さて、話が逸れましてございますが、旅の思い出、でございましたか? 続けさせて頂きましょう。
姫様が諸国を旅しておられたのは、従僕を探すため、などとご冗談を仰います、姫様はご冗談のセンスもおありになるとは思いませんか? それならば私めの様な不束者を側仕えにはなさらなかったでしょうに、ふふ。
そうですね、出逢いの後の旅路を思い返せば、姫様にとっては羽を伸ばすための漫遊ではございませんでしょうか。
私めを共に、雪山の山岳地帯、草原の広がる平野、海の上にも足をお運びになられました、成る程、こうして思い出すにつれ、姫様が求めていたものは、おおよそがこの領地の特産となるものでございましたので、領民のためだったのかもしれませんね、やはり慈悲深きお方です。
初めて姫様から頂いた川魚は、なんと言う名前だったのでしょう? 岩魚に勝るとも劣らない美味でございました。
初めて、といいますれば、白米を食べたのも初めてでございましたね、リアルワールドの頃のことは余り思い出したくはありませんが、本物の白米のなどと言う高価な嗜好品は一部の上流階級のもの、と言われていましたので。
味ですか? この領地で栽培しているものと比べれば劣りますが、初めて食べたあの白米も、また良き思い出でございます、はしたなくもおかわりなどして、姫様に見苦しい所をお見せしたのは未だ忘れられませんが。
姫様が次に向かわれたのはシルクロード、と今は呼ばれる運河を遡る旅路でございました。
時折吹き付ける熱波が、夜に忍び寄る寒気が、ありありと思い出せます。
聞き及びます所、今のシルクロードは砂漠ではなくなり、粗悪な絹も出回り始めたと聞きます、姫様が向かわれた際にその様な無様な土地ではなかった事は喜ばしいことでございます。
パーセル商会と言う店の絹を殊の外気に入られた様で、御屋敷のお抱えとして今も一年に一度は服を仕立て直しております、そうですね、畏れ多い事ではございますが、このメイド服もパーセル商会の絹を使ったスキル付与のお仕着せでございます。
冬ですか? 冬になりますと、今度はまた異なる生地にかわりまして、北方の氷山地帯にて飼育されております、羊、と言う獣の毛で編まれたカシミヤと言う織物で仕立てていただいております、こちらはバーリィ商会と言います。
どちらの生地も、仕入れた後に、当家お抱えの専属針子が手間をかけて縫い上げてくれるのですが、春夏用のこのシルク、秋冬用のカシミヤ、と、どちらも肌触りが良く、着る者が私め一人というのが勿体無い事でございます。
行く先々で美食を楽しまれた姫様は、3年と9か月前にこちらへ所領を移られまして、それよりはこの地の領主として、月に一度の視察以外は御屋敷で過ごしております。
はい? 旅先で危ない事、でございますか? まったくなかった、とは申せませんが、いずれも事なきを得ておりますので、ええ、今ここに姫様がおわします事が無事の詳細でしょう?
さて、食事の支度も整いましたので、姫様の朝支度を致しませんと、審問官様、申し訳ありませんが、今日のところはお引き取りを、またお越しの際にはお茶のご用意をさせて頂きますので、来月以降に、アポイントメントをお願いいたしますね?
この回のラストまでの狂言回し、審問官さんはおそらく来月の訪問はできないと思います。