その件は既に解決済みです
『……はあ? 気にせんでええって、いったいどういうことや?』
イシュベルは紅い瞳を僅かに細めて、アシュタルテの隣にいるエリカに対してそう問いかけた。
フローヴァと何やら小声で話をしたかと思ったら、アシュタルテの元まで戻り、自分たちと友好を深めたい。
その証として、何か協力できることがあれば言って欲しいという。
もちろん、エリカの提案を断る者は誰もいなかった。
元々エリカにお願いするつもりだったのだから、むしろ好都合と言っていい。
何度か接触していたアシュタルテはそもそもエリカと敵対する気などなかったし、イシュベルとフローヴァもエリカを目の当たりにして、アシュタルテと同じ気持ちになっていた。
エリカを刺激すべきではない、と。
それからアシュタルテが代表して、3人で話していたことをエリカに伝える。
――亜人を監視していただけないでしょうか?
女神とは思えぬへりくだったものの言い方だった。
そのお願いに対するエリカの返事が「気にすることはありませんわ」だったのだ。
「亜人の国でしたら既に協力者がおります」
「えっ!? ど、どういうことですかっ!」
隣で叫ぶアシュタルテに、エリカは頷きを返す。
血色のよい唇が艶やかに微笑んだ。
「実際にお会いになっていただいた方が早いですね」
エリカがそう言って一度姿を消す。
次に姿を現したときには大きな鏡と一緒だった。
エリカが鏡に触れる。
「この鏡をよく見ていてください。ユーグ」
エリカを映していた鏡が淡い光を放つ。
すると、鏡には長身の男の姿が映し出される。
男はエリカに気が付くとすぐさま膝を突き、頭を垂れた。
『――エリカ様、如何なさいましたか』
「いきなりごめんなさいね。今は大丈夫かしら」
『自室におりますので問題ございません。仮に問題があろうとも貴女の命令が最も優先されます』
「そう、よかった」
にっこりと笑うエリカだが、男は頭を下げたままで一向に上げようとしない。
特徴的な尖った耳も、心なしか垂れ下がっているように見える。
「あの、エリカさん?」
「なんでしょう?」
「もしかして、そちらの方はエルフではありませんか?」
「よくご存知ですね。その通りですわ」
エリカの言葉に、質問したアシュタルテはもちろん、イシュベルとフローヴァも少なくない驚きを覚えていた。
鏡に映る人物がエルフということは、亜人であるということだ。
その亜人が、エリカを前にして最大限の敬意を払っている。
「彼の名前はユーグ。エルフでナンバー2の地位にいる者です。いろいろあって今は私に協力していただいています。ユーグ、顔を上げてちょうだい。こちらは女神アシュタルテ様よ」
ユーグはゆっくりと頭を上げた。
その瞬間、アシュタルテは「ひっ!」と短い悲鳴をあげた。
なぜならその眼差しは女神であるアシュタルテをして、戦慄を覚えてしまうほど鋭いものだった。
『……ユーグだ』
怒りや憎悪を無理やり押し殺した低い声で、己の名前のみ告げる。
その間も視線はずっとアシュタルテに注がれていた。
亜人であるユーグにとって崇めているのは邪神であって、邪神を封じている女神は忌むべき対象でしかない。
そんなユーグに、エリカは宥めるように声をかけた。
「ユーグ、思うところはあるでしょうけど落ち着いてちょうだい」
『……御身の前で失礼いたしました』
ユーグはアシュタルテからスッと視線を外し、再びエリカに頭を下げた。
「いいのよ。最近はどう? リブルグランツで動きはあった?」
『魔王の弟に呪いをかける作戦が失敗して以降、これといって大きな動きはございません』
「そう」
『ただ、ドラゴニュートの長が人間に総攻撃を仕掛けようと主張しているようです』
「まあ、それは怖いわね」
『ご冗談を。貴女の前ではどんな存在も障害にはなり得ないでしょう』
その言葉に、エリカは肯定も否定もしなかった。
別に自分が最強だとは思っていない。
しかし、レボルやアルベルト、勇者である駿駿にユーグたちと戦った結果、この世界の実力者がどの程度の強さを持っているのかは理解したつもりだ。
少なくともベルガストに自分を脅かす存在はいないだろう、そう感じていた。
「ユーグ、貴重な情報をありがとう。何か分かったらいつでも連絡してちょうだい」
『はっ、承知いたしました』
ユーグの姿が消え、鏡はまた美しい少女の姿を映し出す。
「――というわけです」
女神たちは唖然とするほかなかった。
エリカにはすでに亜人の協力者がいた。
しかもかなり上の地位の者だ。
先ほどの会話から察するに、エリカを裏切るような素振りもなかった。
『ちらっと聞こえた魔王の弟に呪いをかけるっちゅう作戦が失敗したとかいうのもエリカがやったんか?』
イシュベルの問いに、エリカは頷いた。
「ええ、呪いをかけて殺そうとしていたものですから。ユーグとはその時に知り合ったのです。誠意をもってお願いしたら快く協力を引き受けてくださったんですよ」
『誠意ね……』
フローヴァが眉間に皺を寄せて、ポツリと呟いた。
無意識のうちに己の首筋を撫でる。
言葉通りの意味ではないだろう、フローヴァはそう考えていた。
いや、フローヴァだけではない。
アシュタルテもイシュベルも、エリカの言葉を真に受けてはいなかった。
エルフは亜人の中でも特に自尊心が高い。
そのエルフがあそこまで従順な態度を示していたのだ。
いったいどんな仕打ちを受けたというのか、考えるだけで恐ろしかった。
3人は自然とお互いの顔を見合わせ、小さく頷き合った。
――これ以上、この話には触れないでおこう、と。
アシュタルテはエリカに微笑んだ。
「亜人の動向が把握できるのは助かります」
「喜んでいただけてよかったですわ。ユーグから連絡があれば、お三方にもお知らせしますので」
エリカはそう告げると、優雅に一礼した後、姿を消した。
「私が言っていた意味が分かったでしょう?」
『嫌っちゅうほどな』
『そうね』
自由に動ける分、邪神よりもよほど厄介だ。
だが、誰がいったい彼女を止められるというのか。
「亜人の件は何とかなりそうだし、とりあえず静観ということでどう?」
『賛成や』
『私も賛成よ』
女神たちは問題を後回しにする事にした。




