毒は浸透する
末の娘は悩みました。ここまで王子にのめり込んだのは、画面越しのアイドルを推している感覚に近いものでした。絶対に届かないからこそこれほど舞い上がることが出来たのです。冷静になってみると自分の行動に引きました。
「何してんだろ…… 私」
全てを捨てる。それは家族を捨て、故郷を捨てるということ。そこまでの覚悟であの王子にのめり込むことは出来ませんでした。
ようやく周りを見る余裕が出来た末の娘は、今まで沢山心配をかけたことを自覚しました。どこか腫れ物を触るかのような家族の様子に気づいたのです。それに自分自身がやつれていることにも気がつきました。自慢のさらさらの髪はバサバサになり、肌は荒れ、鱗もくすんでいます。
「いやぁぁ。こんな姿をさらしていたなんて死にたい……」
末の娘はそれから、栄養がとれる食事をして、エステに通いました。そして元の姿に戻りました。いいえ、恋を知ったおかげで末の娘に色気が加わり、人魚の男たちから大人気になりました。
「あの時の王子には感謝しているわ! 恋を知ることが出来たのだもの」
末の娘は、イケメンの人魚と腕を組むと話題のデートスポットへ泳いでいきました。
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そうなったらどれほど良かったでしょう。しかし残念ながら末の娘は悩むこともなく魔女に会いに行くことにしました。
もう彼女の頭の中には王子のことしかありません。幸いにもその日は舞踏会が開かれていました。皆は舞踏会に出席していて末の娘を止める者は居なかったのです。
「皆、ごめんなさい。でも、もうこの気持ちは抑えることが出来ないの」
夢見る末の娘は、自身が暮らしていた城から背を向けると、もっと深い渦の方へ泳いでいきました。
渦は末の娘を歓迎するかのように、進む先は弱くなり通りやすくなり、通った後は強くなり帰さないという強い意志を伝えてきました。
しかしそんなことをしなくても、末の娘に戻るという選択肢はありませんでした。
「まってて、王子様」
もう末の娘は、人間になって王子の腕の中に抱きしめられているという想像で頭の中はいっぱいだったからです。
ようやく渦が終わり、気味が悪いほど静かな空間に出ました。白い珊瑚の死体が積もった地面に、ウネウネと動くタコの脚のような生き物が生えています。
「初めて見るわ」
末の娘はキョロキョロと辺りを見回しながら進んでいきます。しばらく進んでいくと、こじんまりとしたまるで人間の家のような家が見えてきました。
「あれかしら?」
近づくと標識には、『エスパーニャ』と書かれていました。
「エスパーニャ? えっと魔女さんの名前かしら」
末の娘が家の周りをくるくると回っていると、家から低い声が響きました。
「アルテナだね? 遠慮なんていらない。入っておいで」
急に名前を呼ばれて驚いた末の娘でしたが、言われるまま恐る恐る家の中に入りました。
「お邪魔します。エスパーニャさん」
家の中は外から見た時とは異なり、驚くほど広い空間でした。しかし色んな物が無造作に置かれているせいで狭く感じます。
「アルテナ。良く来たね。君のことはよく知っている。王子に恋をしてしまったんだろ。ここに来たということは、人間になりたいんだね」
その声が聞こえる所を見ると、ぼろきれのようなコートを着て、フードを目深に被っている大きな物体がありました。
「あなたがエスパーニャさん?」
「ああ」
末の娘はあまりにも怪しいので、少し顔を顰めました。しかしすぐに笑顔を作ると言いました。
「私を人間にして」
末の娘の様子に、魔女はクックッと笑うと自身の目の前の台に座るように言いました。
「お前さんは代償が必要なのを知っているかい」
「ええ、知っているわ。何を代償にするの?」
「話が早い子は好きだ。代償はその綺麗な声だよ」
魔女はニタリと笑った雰囲気がしました。その瞬間、末の娘はサメを目の前にしたかのような恐怖に襲われました。
「声?」
「ああ、お前さんはとても綺麗な声だろう? それに対して私はあまりにも醜い声をしていると思わないか?」
末の娘は言葉に詰まりました。実際、末の娘も醜い声だと思っていたのです。