初めてのぬくもり
末の娘はずっと眺めていました。気がつくとすっかり辺りは暗くなり、日の代わりに月が昇っていました。
月は海の底で見るよりは小さいですが、その優しい光は末の娘にとっては眩しいものでした。
末の娘はようやく年若い男から視線をそらすと、近くの岩場に座りました。そして船から聞こえる楽しげな音楽に合わせて瞳を閉じると歌いだしました。
歌詞はなく、でも今の末の娘の気持ちを表すかのような、希望に満ちた力強い音が空気を震わせます。
末の娘は歌いながら思い出していました。それはずいぶん前から大切にしている、大理石で出来た少年の像のこと。その像が海の底に流れ着いたからこそ、末の娘は人間と、上の世界に興味を持ったのです。
しばらく歌っていた末の娘は、気づいていませんでした。彼女が歌うのと同時に、先ほどまで晴れていた空が真っ黒の雲に覆われて海も荒れ始めたことを。むしろ彼女は風が強くなると、よろこびました。
荒れる海を見るのも初めてでしたから、それすら面白かったのでしょう。
それがどれほど年若い男を危険にさらしているなんて考えもしませんでした。
突然、末の娘に大きな波がかかりました。びっくりした末の娘は辺りを見渡します。その風景は彼女が上ってきた時とはまるで違うものでした。
黒く淀んだ海、荒い波、風が轟々と吹き荒れ、今にも全てを呑み込み海の底に沈めようとしていました。
末の娘は慌てます。なぜなら目の前にある年若い男が乗った船が轟音を響かせながら倒れたからです。
「まあ、人間って海に放り出されたら死んでしまうのよね」
末の娘は荒れた海に飛び込むと、船の近くに泳ぎました。船の残骸が浮かぶ海で悲鳴が響きます。末の娘は慌てて年若い男をさがします。
「どこかしら、もう底に沈んでしまった?」
キョロキョロと見回すと、彼が着ていた豪華な布が目に入りました。
「見つけた」
末の娘は男に近づくと、彼を抱き上げました。男は美しい瞳を隠して、真っ青な顔をしています。末の娘が見つけなければ死んでしまっていたでしょう。
「綺麗」
末の娘は思わず声を出していました。鱗のない滑らかな肌に、温かな体温をもつ男の頬をなでます。
どんどん熱を失う男の変化に末の娘は、このままこの手の中に収めておきたい気持ちと死んでほしくないという気持ちで迷います。
「いいえ、私は彼の声を聞いていないわ。それには生きていないと」
末の娘は男を連れて泳ぎ出しました。
そして奥まっている入り江に連れてきました。そこで男の姿を眺めます。しばらくすればここに、人間が来るはずです。陸に近いときに人間に近づいてはいけない。
末の娘は、男の頬に口づけを落とすと、男を忘れないように彼の手に輝いていた指輪を抜き取りました。
その指輪は真珠よりもとろりとした白い石が嵌まっていましたがそれは月の光を集めたかのような柔らかい色でした。
「また会いに来ます。だから元気になってね」
人間の話し声が近づいてきました。末の娘は、名残惜しそうに男の髪を撫でると海の底に帰っていきます。
もう末の娘の頭の中には、あの年若い男のことだけです。
「やっぱり、上の世界は素晴らしいわ」
男の熱が伝わった時から、末の娘は波に浮いているかのようにふわふわとした気持ちのまま、海の底に潜っていきました。