上の世界へ
今日は末の娘が成人する日。末の娘はわくわくしながら、身支度を調えます。
海に差し込む月光のような淡い色の長い髪をとかし、薔薇のような淡い桃色の鱗を磨き、深い海の底のような碧い瞳をキラキラさせて末の娘は外に飛び出しました。
その様子はいつもの大人しい性格からは、考えられないぐらい大胆な行動です。
「ふふ、今日ね。じゃあ、お化粧をしてあげる。楽しんでおいで」
外に出るとお母様が待っていて、お化粧を施してくれました。末の娘はお化粧をするよりも、すぐに上の世界に行きたくて仕方がありませんでしたが、ぐっとこらえてお母様に尋ねます。
「お母様、人魚はどうして人間に話しかけてはいけないのですか?」
「どうして、そんなことを聞くの? 人間はね、怖い生き物なのよ」
お母様は末の娘の頭を優しく撫でながら言い聞かせます。
「深い海に入ってしまえば無力だというのに、この世界はまるで自分たちのモノのように人間の都合で他の命を玩具のように扱うの。それは人魚に対しても同じよ。長寿の私たちの肉を食べれば不老不死になれるなんて、噂を流して同族を狩ったのよ? そんな恐ろしい人間に陸の近くで近づくなんて」
「私も食べられちゃうのですか?」
末の娘は、お母様の恐ろしい声に震えます。今までお姉様たちに聞いた話の人間との印象と真逆な、残酷な一面を持つことを聞いた末の娘は、ますます人間に興味を持ってしまいます。
「そうよ。だから人間にはけして近づいてはいけませんよ」
その言葉と同時に、お母様は末の娘のお化粧を終えました。
「じゃあ、行って来ます」
「ええ、くれぐれも人間には近づいては駄目よ」
末の娘はお母様の忠告を背に、上の世界に向かって泳ぎ出しました。今までぼんやりとした日の光がどんどん強烈な光になっていきます。末の娘は、あまりの眩しさに目をつむりながら海面から顔を出しました。
その瞬間、今まで感じたことがない開放感に包まれました。波とはまた違う流れが末の娘の頬を撫でます。それが末の娘が初めて感じた風でした。
「全てが強烈に感じることができるわ! 海の底とはまるで違う」
末の娘は感動のあまり叫びました。それは末の娘にとっては初めての大声。いつもなら響く声もすぐに風に攫われてしまいます。
感動のあまり頬を染めて、うっとりと辺りを見回すと、大きな船が停泊しているのを見つけました。その船は大きく、立派で、豪華にも金が貼られているので日の光を浴びてキラキラと光っています。その船からは楽しげな笑い声と音楽が聞こえてきました。
末の娘はお母様の言葉を思い出しました。
「ここは陸の近くじゃないわ。それに見つかったらすぐに海の底に潜れば良いんだわ。ちょっと覗くだけよ」
末の娘はふらふらと船に近づきます。そして窓の外から中を覗き込みました。そこでは音楽に合わせて沢山の色が入り乱れるように踊っていました。その踊りに末の娘は目を奪われましたが、すぐに別のものを食い入るように見つめます。
末の娘が目を奪われたものは、一番奥で座っている年若い男でした。末の娘はこんなに綺麗な男を見たことがありません。夜の色のさらさらな髪に、まるで夜の月光を集めたかのような瞳、そして豪華な布をまとう逞しい体。
「なんて素敵な方でしょう。きっと声も綺麗なんだわ。あの人と喋りたい。でも……」
末の娘は自身の躰を見下ろしました。キラキラと日の光を弾く淡い桃色の鱗をもつ自分の下半身。これでは踊ることも、近づくことも出来ません。
末の娘は胸を抑えます。今まで感じたことがない痛みを感じたからです。
「私はどうしてしまったの」
末の娘は、首をコテンとかしげながらただじっと男を見つめていました。