平成30年12月15日(土)
9回目。坪川素晴、アラサー、独身、どこにでもいるサラリーマン。四国は伊予松山に出張し、大文豪漱石からあれこれ夢想(無双?無想?)する。
やっとこさ、出張先から帰ってきた。一泊二日で先方とのやりとりをチョイチョイと済ませ、午後は観光、豪遊。明治維新150年に若干ゃ便乗していなくもなかった伊予松山を堪能。
以前行ったとき、直前の大雨で倒壊した愚陀佛庵はまだ再建されていなかったのがちと残念(一応、正岡子規生誕150年事業として再建計画はあるとかないとか)。で、「愚陀佛」といえば夏目漱石(の俳号)なわけだが、実は俺が全集を全部持っている唯一の作家である(正確には俺のではなく、曽祖父のなのだが、一応生前に譲り受けた)。だからそれなりに親しみはあるが、漱石という人はまぁともかく「闇」が深い。寺田寅彦あたりともいい勝負だとは思うが、ともかく色んな意味で病んでいる(いた)。処女作の「我輩ハ猫デアル」からして結構キテいる。猫が人間を斜に構えた見方をした挙句のバットエンドだから、今のご時勢だと色々顰蹙を買う可能性もあるかもしれない。しかし、やはり古典の傑作たる所以はある。
最大のポイントはやはり「猫」というチョイスの絶妙さで(当時としてはこの設定、どれくらいトンがっていた設定だったのだろう。今のラノベ設定よりアレに思われたのだろうか)、これが同じ二文字でも「犬」とかだと印象も、展開もガラリと変わっただろう。実際、「犬」ならば人間を皮肉る視点の批評のシンボルにはなりえなかったはずである(「里美八犬伝」は王道モノだし)。逆に言えば、その間隙をついて『我輩は犬である』とかいうタイトルは二次創作だが、アリかもしれない。勿論ここでの「犬」は色んな意味を含意した「(意味深)」に用いるのだ。『我輩ハ犬デアル。名前ハモウアル(ぽち)。』的な感じの書き出しか。「犬」は社畜か、もう少しマシでも利根川先生的中間管理職的ポジションか。そういえば「課長バカ一代」でも八神課長がある日犬になってしまった(という設定にしてズル休みをした)という話があったっけ。ただ犬の場合、あえてデフォルメ、擬人化的要素を入れずに、物言わぬ犬のあるがままの描写が実は最適解な気もする。「忠犬ハチ公」はただ黙って上野先生を待っているから映えるのだ。そこに妙な人間の心理描写を入れてしまうのはヤボである。
このように擬人化(の前段?)は、生き物である動物ですら(あるいは生き物であるからこそ?)、かなりデリケートな扱いを要する設定、演出の類のように思う。節操無く乱発するのは厳に慎みたいものである。
10回目に続くのか?