平成30年12月13日(木)
7回目。坪川素晴、アラサー、独身、どこにでもいるサラリーマン。同期の輝かしい仕事を前に、アンノに嫉妬するホノオモユルが如く、ギリギリ言うだけで一話費やす。やめろ!M!俺より面白いものを書くんじゃねぇ!
明日から出張だというのに、休みの合間に昨日送られてきたMの「論文」の頭の方を読んでしまった。内容は措いて、とりあえず読んで気付いたことをlistすると、
・聞こえは悪いが「作文がうまい」というか、ものの本でよくみるような種々の「定型文」を使いこなせている。
・それでいて、この手の「論文」にしばしばある意味不明な「ポエム」の羅列ではなく、考えながら読めばちゃんと整合性がある文章になっている。
どれも「当たり前」だが、この「当たり前」がちゃんとできない癖に世で幅を利かせている文章家(文章を書いて食っている人間)なんて吐いて捨てるほどいる。最悪の場合、意味不明な「ポエム」を、「定型分」やレトリックで誤魔化して、さも高尚そうなことを書いているようにみせる輩だっている。なので「当たり前」をみるだけで何故かそれだけで「ホッ」としてしまった。
そしてMの「論文」を読んでみて改めて思うけど、俺「小説」よりも、「論文」というか「評論」の方が読むのも、書くのも向いているんじゃないか。だから「評論」テイストで「小説」を書いていけば、何かが書ける可能性が微レ存?しかし「評論」100%では「小説」にならないから、その比率を適当にイジって日常パートと評論パートに分けて書いていくスタイル。
それただの「只野教授」のパクリじゃね?まぁ、「只野教授」は文学論パートも大学での講義の体裁を取っているから書き言葉ではなく話し言葉ではあるから厳密には違うが大体同じ(?)だろ。こんなローカルな場所で今更パクったところで誰からもクレームはこないし、ええやろ。ともかくこれなら「小説」が書けなくても、「評論」を混ぜることで「水で薄めたカルピス」はできるかも。でも「只野教授」は「講義シーンより教授会シーンの方が面白い」ってそれ一番言われてるから。だから「水で薄めたカルピス」を作ってもしょうがないのかもしれない。
ちなみに関係ないけど「只野教授」で一番驚いたことは、「あの類まれなるフィクションが大体半分くらいは現実にあるらしい」ということである。具体的には、一番面白いと言われる教授会パートだが、世の中に出ると要はオトナのダメな会議の典型としてああいうことはそんなに珍しくないことは嫌というほどわかる。更にそこに「大学の教授」なる、今や権威も箔も失われつつあるが持つと何やら面倒くさくなる看板が引っ付けば、もっと輪をかけてヤバくなるのは火を見るより明らかである。正に「小説」の題材としてはうってつけで、題材が良いので「小説」として調理しても、「評論」として調理してもどっちでもイケる話になっているというところが、「只野教授」の魅力ともいえよう。
8回目に続くのか?