平成30年12月11日(火)
5回目。坪川素晴、アラサー、独身、どこにでもいるサラリーマン。「異世界笑点」なる、全く異世界モノと関係ないわけのわからんモノにかまけていたことに愕然し、マジメな考察に戻る。
あ、ありのままに昨日起こったことを説明するぜ。異世界モノの考察をしていたと思ったら、笑点をやっていた。な、何を言っているのかわからねーと思うが、俺も何をしていたのかわからなかった・・・。頭がどうにかなりそうだった・・・。サボリだとか、現実逃避だとかそんなチャチなモンじゃ断じてねぇ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ・・・。
ともかく何か考えていたら、想定外の方向へぶっ飛んでいってしまう。これが異世界モノの「魔力」か。仕切りなおして、一旦「異世界設定」から離れた方がよい気がする。ということで「異世界モノ」は一旦措いて、「無双チートモノ」がなぜ嫌いか(何が嫌いか)を考えてみる。
まず当たり前だがそもそも「無双モノ」と「チートモノ」は違うということである。たとえば時代劇なんておおよそ勧善懲悪の「無双モノ」だが「チートモノ」ではない。水戸黄門なんかは印籠というチートアイテムがありながら、それが発揮されるのは「無双」(チャンバラ)した後の事後処理であり、「無双」とは関係ないのである。逆にドラえもんは「チートモノ」だが「無双モノ」ではない。つまりドラえもんやのび太のワンサイドゲームの物語にはなっていない。むしろ、チートでありながら、無双しない(最後はチートで調子に乗って失敗するパターンが多い)というところに藤子・F・不二雄の意図があるといえる。これを踏まえれば、俺は必ずしも「無双するから嫌い」とか「チートだから嫌い」とかというわけではないように思う。時代劇や歌舞伎で大見得を切っておいて、無双しない(格好が付かない)のは逆に変だし、ポケットの無いドラえもんなんて「ただの中古ロボット(ハイスペック)」である。では、何が不満なのか。
第一に安易に「無双」と「チート」をくっつけるのが気に入らない。思うに近年の諸作は、「無双」できる理由付けとして「チート設定」をしているのだろう。しかし「無双」の理由付けだけならば、それこそ時代劇よろしく「主人公補正」で行えば十分なはずで、「チート設定」は「チート設定」として「無双」以外の要素として活かさなければ意味がないのではないか。更に言えば、「無双」のため(だけ)の「チート設定」、更にその「チート設定」のため(だけ)の「転生設定」となると、これもうわけわかんねぇな。
第二に時代劇や歌舞伎の「無双」は、「懲らしめてやりなさい!」でも「成敗!」でも、お決まりとはいえある種の様式美になっているが、近頃の諸作はそうした様式美まで昇華したようには感じない。
ラフに言えば、非常にお粗末に思える。これは単純に「年季の差」なのかもしれないが、より根本的には所構わずいつも大見得を切っているような印象を受けることが大きい。大見得は話の要所で切るから映えるのであって、それを乱発(正にバーゲンセール)してしまえば意味が無くなってしまう。こんなことは当たり前であって、ことさら強調することでもないはずなのだが、それを敢えて強調せざるをえないほど酷い手合いに遭遇することが少なくない。
繰り返しにはなるが、誰も暴れん坊将軍や水戸黄門が無双(?)しても文句も言わないし、ドラえもんがご都合主義の秘密道具をぽいぽい出しても「チーターや!」とクレームをつけるバカはいない。結局のところ『「無双」も、「チート」も所詮は「設定」なので、ようは使い方次第』ということなのだろう。そしてその余りにお粗末な使われ方が、俺は気にいらないのだろう。卑しくも作家ならば、自身の「設定」、「道具」、「武器」etc.を他の誰よりも丁寧に扱わねばならぬ。それができぬということは、自身の作品を理解できていない、更に言えば愛着がないということで、嫌悪の根源もその辺りにあるように思われる。
6回目へ続くのか?