壱ノ舞 ナイトメア~再演~
第4章本編開始!
「何だ…………? 今の夢は。」
特級鬼闘師・南条一哉は目を覚ました。
場所は南条家の屋敷。その自室。
いつの間にか自室の机に突っ伏して寝ていたらしく、姿勢が悪かったのか、どことなく体が痛い。
時刻は午前1時42分。
そして机の上には、大学の講義「分子生物特論」の授業レジュメ。
そして時計代わりにしていたスマホはとっくに電池切れで沈黙してしまっている。
一哉はノロノロと椅子から立ち上がる。
ボンヤリとした頭で思い出せば、いつものメンツで夕食を取った後に自室に戻って、明日の大学の最後の上期期末試験に向けて勉強していた所、急に眠気に襲われて眠ってしまった事を思い出した。
しかし、思考はすぐに先程の夢へと戻される。
先日の連続通り魔事件の騒ぎの最中に、繰り返し見ていた夢とは全く違う悪夢。
ただ、今回の夢は全く現実感が無かった。
一番の原因は、夢の中で出てきた、"姉"なる存在のせいだろう。南条聖の子供は間違いなく自分と佐奈の二人だけだ。
絶対にあり得ないことが夢の中で展開されていたからこそ、現実感の無い夢だと感じるのだろう。
だが、一方で、なぜかこの夢をただの夢だと一笑に付す事が出来ない自分も居るのだ。
その"姉"なる人物は絶対に知らない。
"栞那"という人間など、会ったことも喋ったことも無い筈だ。
それなのに、何故か自分はその人物を知っている気がするのだ。
気がつけば、真夏で冷房を効かせている筈の自室で、自分が汗をびっしょりとかいている事に気がつく。
先日の嶋寛二――――――【壬翔】の一件で疲れているのだろう。
そう思った一哉は、いつも以上に渇いた喉を潤すために台所に向かった。
当然ながら、真夜中の南条家の台所には誰一人、居ることはなかった。
一哉の覚えている限り、咲良は今日は家に帰っているし、佐奈は任務だ。明日一哉と同じ試験を受ける筈の結衣なら、試験勉強の為に起きているかもしれないが、居るとすれば自室だろう。
鬼闘師である一哉と佐奈とは違い、結衣は遅くまで起きている必要にかられることも無いので、もしかすると既に寝ているかもしれない。
一哉は食器棚からガラスコップを取り出すと、シンクの取水レバーを上げて、その中身を満たす。そして、それを一気に飲み干した。
喉の渇きはそれで潤されたが、一哉自身の気持ちはどこか優れないままだ。きっとさっき見た夢のせいに違いない。
だが、なぜあんな荒唐無稽な夢の事が気になって仕方がないのか、まるでわからない。本来であれば、あり得ない筈の夢の内容が、喉に刺さった魚の骨の様に気になって仕方がないのだ。
一哉はまた、コップに水を満たす。
最後に自分が刺されるシーンであの夢は終わっていた。
だから、自分が殺されるイメージに精神的に参ってしまったとでもいうのだろうか。
だが、何となくそれだけでは無い気がする。
それだけが、このモヤモヤとした気分の原因ではないと、直感が告げている。
スッキリとしない心を落ち着けようと、一哉はシンクに両手をついて、頭を垂れる。昔から、モヤモヤすると一哉がついついしてしまう、悪癖のようなものだ。
「一哉君、大丈夫?」
横からかけられた声に顔を上げると、そこには南条家に居候する女性である東雲結衣の姿があった。銀縁の眼鏡をかけ、大きな黒目に小さめの口と鼻。小顔かつ小柄な美少女と言える女性だ。彼女の年齢を考えると、「少女」では少し失礼ではあるが、結衣はどちらかと言うと、美人というよりは可愛い系なので特に問題は無いだろう。
寝るときの髪型なのか、絹の様なロングの黒髪を緩く結んで前に流している結衣は、黒と白のツートーン好きの彼女には珍しく、薄ピンクの寝間着に水色のカーディガンを羽織っている。
実は結衣は一哉とは10年来の知り合いである。
その事を一哉が思い出したのはつい数日前の事だったが、一度認識が変わると、一哉の結衣を見る目は変わってしまった。
一哉が結衣を思い出したのは、10年前に体験して、そして忘れてしまっていた悪夢がきっかけ。最初は何か記憶が混濁していると思っていた一哉だったが、数日前の【壬翔】との戦いの最中、結衣自身が10年前に一哉と会っていると宣言したが故に、完全に記憶のリンクが果たされたのだった。
その結果、一哉はある事を認識してしまう。
それは、ひょっとすると自分の初恋の相手は結衣だったのではないか、という事。
少なくとも今は男女関係における「好き」という気持ちを今一理解できない一哉であるが、夢の中の自分は、きっと結衣に対する淡い恋心を抱いていたのだという、確信にも近い認識を持つに至ったのだ。
あの甘く切ない、胸が締め付けられるような気持ちを恋心と言うのであれば、きっとそうなのだろうと。
極めつけは、結衣に対してそういう事を考えても発作が起こらないというところにある。
今までの一哉であれば、男女交際という意味での好意を寄せられる事を認識した途端、激しい目眩と吐き気に襲われていた筈だ。だが今のところ、結衣をそういう風に意識してみても、発作は起こっていない。
「なんか、酷い顔してるよ? 顔もちょっと赤いし…………。何かあったの?」
少し考え込みすぎて、結衣の顔を凝視していたのか。
結衣が心配そうな顔で、一哉を見つめてくる。
鏡が無いので、今の自分の表情はそんなに酷いものなのだろうか。だとすれば、やはりあの夢のせいだろう。
元々、結衣に対しては対策院の世界には極力足を踏み込ませない方針を貫いている一哉だが、今は前にも増して、その傾向が強まってしまっている。結衣が自分の初恋の相手かもしれないがという疑念は、その傾向を増長させてしまっている。
その考えこそが、【壬翔】の一件で結衣が独断で動いてしまった一因となってしまっている事に気づきもせずに。
だから一哉は結衣を心配させたくなくて、気遣いに対して平然と嘘をついてしまう。
「いや、大丈夫だ。ちょっと夢見が悪かっただけだよ。」
「でも…………本当に辛そうだよ?」
シンクについた手に、結衣の手が重ねられる。
それだけの事で、一哉の心中は強烈な撹拌機で過剰に掻き回されたかの様に乱れる。だが、今の一哉にはこの心の乱れが何か理解が出来ない。10年前の自分なら理解できたのかもしれないが、今の自分には無理だ。
だが、不思議と悪い気はしない。
「一哉君、私言ったよね。私は一哉君の事、ただの友達だなんて思ってないって。この10年を取り戻すんだって。だから、教えて? 何があったのか。」
今までの結衣であれば、絶対に深入りせずに引き下がっていた筈だ。一哉にはその確信がある。だが、先日の【壬翔】の一件で一哉が結衣の事を思い出して以来、結衣はまるで別人の様に一哉に対して深入りする様になっていた。
そんな結衣の様子に、心中を激しく掻き回された一哉はアッサリと折れてしまう。
今までであれば、多少食い下がってきたとしても、決してその心中を語ろうとはしなかっただろう。自分の弱い部分を見せられないが故に、ひたすらに口をつぐんだだろう。
だが、一哉自身も先日の一件を経て、結衣に対する思いが――――言葉には表せないが――――変わってきており、少し話してみてもいいかな、位には思ってしまっているのである。
「笑わないで聞いてほしいんだが…………」
「うん。」
「変な夢を見たんだ。刀で刺されて殺される夢。」
「うん。」
「…………見たんだ、夢。」
「うん。それで?」
明らかに話の続き待ちの様子の結衣。
だが、結衣の期待は大ハズレだ。この話にこの先は――――無い。
「うん。だから、そういう夢を見たんだ。」
「…………もしかして、それだけ?」
「あぁ、それだけだ。」
「プッ…………ふふふ…………あははは!」
急に吹き出す結衣。
一哉の返答を聞いた結衣は、よほど面白かったのか、顔を手で隠してまで笑っている。
「おい! 笑わないでくれって言ったろ?!」
「ご、ごめんね…………ふふふ…………なんか、怖い夢見たって言って顔色悪くしてる一哉君が、子供みたいでかわいいなって思って…………ふふふふふ!」
結衣の楽しそうな笑い声が、南条家の台所にこだまする。
続けて文句を言いたくなった一哉だったが、結衣の楽しそうな顔を見ているうちに、そんな気持ちも萎んできた。
「ったく…………。まあ、そういうわけだから、俺は大丈夫だ。」
「ふふふ……。うん、わかった。怪我の方は大丈夫なの?」
一瞬何の事を言っているのかわからなかった一哉だが、結衣の視線が、自身の胸元に向かっているのに気が付き、察した。
それは、数日前の【壬翔】との戦いで、避け損なったナイフでの一閃を受けてしまった時の負傷の事だ。思った以上に深く斬られてしまっていたが故に、かなりの出血を伴ってしまっていた。
確かに絵面としては、かなりスプラッタな事になっていたので、一般人の結衣が心配してもおかしくない。
「あぁ…………。アイツに斬られた傷なんだけどな、あまりに綺麗にスッパリと切れていたもんだから、簡単に塞がったんだよ。ほら、聞いたことないか? 切断面が綺麗だと、すぐにくっつければ、人体でもくっつくって。あんな感じだな。」
実際、【壬翔】に斬られた傷は、わずか数日しか経っていない今ですら、ほとんどうっすらとした線程度にしか残っていない。
「あと、咲良が止血してくれたのもでかいしな。流石に血を流しすぎたせいで、増血剤は射たないといけなかったが。」
傷は簡単に塞がったが、出血量はそれなりに多く、咲良の処置がなければ危なかったのは間違いがない。
そして、それを聞いた結衣は納得したのか、どこか安堵した顔を見せ、一哉のコップの水を勝手に飲み干すと。
「そっか…………。うん、わかった!! じゃあ明日の試験、頑張ろうね、一哉君。おやすみ。」
「あぁ…………。おやすみ、結衣。」
一哉は台所から出ていく結衣を見送ると、そっと溜め息を吐いた。
「言えるわけ無いよなぁ…………。居る筈もない姉貴に殺される夢を見たなんて。」
一哉はもう一度コップに満タン水を満たし、一気に飲み干す。
そして、明日の試験に備え、もう一踏ん張りと気合いを入れると、部屋へと戻っていく。
季節は、夏真っ盛りの8月上旬。
海が、山が、生き物が。そして一哉には今まで縁遠かった青春という時期が最も輝く季節。
この8月を境に、自分の、そして仲間達の運命が大きく動き出す事を、一哉はまだ知らない。
今回も最後まで読んでいただきましてありがとうございます。
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