extra episode 10【結衣の日常・後編】
前回に引き続き、結衣のショートストーリーです。
ちなみにかなりどうでもいいですが、大学の授業シーンはかなりリアル目に書いてます。自分の専攻だったもので…………(笑)
「今日の実験はPCRをやってもらう。さて。当然ながら俺様の授業を受けている諸君ならば、PCRが何かはわかっていると思うが………………おい、土井。答えてみろ。PCRとは何だ?」
「すんません、わかんないっす。」
「バカ野郎。幼稚園からやり直してこい。」
今日の午後は安達先生の分子生物学実験。安達先生と言えば、一哉君が志望している研究室の先生です。一哉君、珍しく楽しみにしてたのに、風邪だなんてツいてないです。
それにしても安達先生、相変わらずの横暴さだなぁ。私はちょっと苦手かも。
「今日は南条のヤロウは欠席の連絡入ってたな。んじゃ、東雲。PCRが何か答えてみろ。」
「ふ、ふぇ…………?!」
あわわ………………!
余計なこと考えてたら、こっちに矛先が向いちゃいました。もしかして先生、私がちょっと苦手だなぁなんて思ってたのをわかってて当ててきましたか?!
ちょっとマズいです。油断してて、答えを用意してませんでした。
でも、何とか答えなきゃっ!
私は先生の過去の授業内容を記憶から何とか捻り出します。
「え、えと、えっと………………鋳型となるDNA断片から特定の配列を選択的に増幅する…………方法?」
あぅ………………。何で最後、疑問系にしたの私………………。
心なしか、先生の視線が冷たくなった気がします………………。
「………………まあ、及第点としておこう。」
よ、よかった…………!
間違えて、安達先生にケチョンケチョンにされた日には、落ち込んで暫く立ち直れなくなるんですから………………。
「PCRとは、今東雲が言ったように、鋳型となるDNAの塩基配列から、2種類のプライマーによって決定される特定の配列だけを選択的に増幅する手法だ。はっきり言って、分子生物学をやる上で、PCRは絶対に理解しておくべき基礎中の基礎の実験手法。これが理解できねぇ奴は幼稚園からやり直せ。」
先生はそう言いながら、各実験班のテーブルに実験概要の書かれたプリントを配布していきます。
「今日は諸君に、その基礎中の基礎の入り口を体験してもらう。今日、俺は手元に10種類のプライマーを用意している。今回の実験で成功するのはそのうち、たった一つの組み合わせだけだ。お前達は、手元の資料の配列を増幅するにはどのプライマーを用いれば実験が上手くいくのか、考えろ。以上、実験始め!」
「説明はやっ! しかも雑っ!」
私の向かいに座る海音ちゃんが、ビックリして声をあげます。うん、確かに安達先生の説明短いね。他の先生なんか一時間以上説明する人もいるもんね………………。
「おい、林。お前も幼稚園からやり直すか?」
「実験します!」
「ったく。やり方は全部プリントに書いてあるし、わからなかったら俺に聞け。こういう実験は、グダグダ説明するより、手を動かした方が良いんだよ。」
それもそうかもしれません。習うより慣れろってやつですやね。
うーん、でも。
他の先生の説明が長いから、なんか調子狂います。
「んじゃ先生!」
「ただし! 思考停止な質問してきた奴は即幼稚園送りにしてやるから覚悟しとけ。んで、何だ土井?」
「………………ナンデモアリマセン。」
先生、幼稚園好きですね………………。
土井君も学習しようよ………………。
そんな風に、賑やかになってきた実験室で私はプリントとにらめっこします。
あれ。これ、結構簡単じゃないですか?
原理の図も乗ってるし、塩基配列も全部載せてもらってるから、迷うこと無いですよね?
内容も先生の授業聞いてればしっかり理解できるし…………。
試薬の量や混ぜる順番なんかも全部書いて貰ってるから、何も難しい事ないじゃないですか。一哉君が、あの先生は凄いと言ってた意味がわかるような気がします。
なんて思ってたんですけど、そう思ったのはどうも班では私だけだったみたいで――――――
「海音~…………。ウチ、こんなんわからんってぇ。」
「フォワードプライマーはこれだろうけど。んん??? リバースプライマーが全然わかんない………………。海音、わかる?」
「いや、アタシに聞かないでよ。アタシもちんぷんかんぷんだよ。」
私以外の3人は頭を抱えてます。
最近、海音ちゃん以外の二人――――――奥野凜ちゃんと、川部志乃ちゃんといいます――――――とも仲が良いので、私は3人に向けてわかったことを教えてあげます。
「海音ちゃん、凜ちゃん、志乃ちゃん、私わかったよ? 2番と9番で上手くいくと思う。」
「えぇ…………?! 結衣、アンタ早くない?!」
「おお、さすが優等生のゆいっちやわ~。」
「東雲さん、さすが!」
3人は私に驚きの視線を投げ掛けてきます。別に凄いことじゃないんだから、やめてほしいです………………。
恥ずかしいよ………………。
それと凜ちゃん、私、別に優等生じゃないんですけど!
私はどうしてそうなるのかを、3人に説明します。
先生の作ってくれた資料もあるので、説明はそう難しい事ではありませんでした。3人も納得してくれたようで、頷いています。
でも、私の説明で理解できるのなら、ただ単に皆勉強不足なんじゃないかなぁ………………。
PCRの実験は、試薬を混ぜてしまえば、後は反応待ちの時間が2時間位あって暇です。他の班の皆はまだプライマー選びに悩んでいるみたいです。私たちと同じスピードの班は一哉君と鈴木君の班だけです。
一哉君が居ない中、私達のようにすぐに実験に取りかかれているのは、鈴木君のお陰でしょう。
鈴木君、流石は金髪チャラ男の見た目に反しての成績上位者だけはありますね………………。
私は実験待ちの暇な時間を、お昼に買っておいた本を読んで潰していましたが、突然、海音ちゃんが私の肩を叩いてきました。
「どうしたの、海音ちゃん?」
「今日はアンタの旦那が居なくて、寂しいな、結衣?」
だ、だ、だだだだだ、だ、旦那?!
みみみ、海音ちゃんは何を言ってるんですか?!
「え、何々? 東雲さんって結婚してるの?」
「うわ~。見た目によらず、すすんでるんやねぇ。んで、相手誰なん?」
ほらぁ!
二人も話に乗ってきちゃったじゃないですかぁ!
しかも、話はまだ悪い方向に動きます。
「相手はねぇ、この学科にいるんだぞ? しかも同学年。」
「えぇ?! マジでっ?!」
海音ちゃん!
なんて事を言うんですか!
後、志乃ちゃん。そんな大声で叫ばないでください………………!
「あ~、でもウチ、相手知っとるかも。」
「え! 誰?」
「南条君。この前、駅前のデパートでデートしとったの見たわ。」
それって、一哉君のお家に引っ越した時の話じゃないですか!
見られてたんだ………………。当時は友達が増えるなんて思ってなかったから、迂闊だったよぉ………………。
「え、マジマジ? 東雲さん、南条と結婚してるの?! あ、でも、名字変わってないから、カレシ?」
「そうやねぇ。南条君とはどこまで行ったん? A? B? C?」
唐突に始まった暴露大会に、顔から火が出そうです!
何でこんな状況に………………?!
「………………AもBもCもしてないです。というより、付き合ってすらいないです………………。」
何で私も律儀に答えちゃってるの?!
自分の発言で更に赤くなってしまうマッチポンプ。身体は燃えるんじゃないかというぐらい暑いです。
はあああぁぁぁぁ………………!!
恥ずかしいよぉ………………!!
あぁもう、これも全部、海音ちゃんのせいです!
「海音ちゃん!!」
「アハハ…………、ゴメンゴメン結衣。」
抗議の眼差しを向ける私に、海音ちゃんは笑って謝ってきます。本当に悪いと思ってるんですか?!
まったく!
笑い事じゃないですっ!
結局、その日の実験の空き時間はずっと3人に遊ばれていたのでした。
● 〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇
散々、海音ちゃんと、凜ちゃんと、志乃ちゃんの3人に遊ばれた私は、ぐったりしながらバイトに向かいます。
朝は静かさに寂しさを感じもしましたが、今は無性に一人になりたい気分です。あんなにもベタな女子トークの渦中に入ったのは、何しろ初めてでしたので、とても疲れてしまいました。
「うぅ………………今はやんちゃな子供達が恨めしい………………。」
そして私のバイト先は子供向けの学習塾。
この先に待っているのは、やんちゃで元気な子供達による狂想曲です。端から見れば、ただのどんちゃん騒ぎに見えるかもしれません。小さな個人経営の塾ですから、そういった空気になるのも仕方がないのかもしれません。
普段なら、そんな子供達の騒ぎでさえ私の癒しなんですが、今日に限っては憂鬱でしかありません。少し静かな環境にいさせてください………………!
「ああぁーっ! 結衣先生来たぜ!」
「ホントだー! ゲームして遊ぼうぜ、先生!」
「ヨウ君、勉強しなきゃダメだよっ!!」
私が部屋に入るなり、大騒ぎの歓待。
一人だけ、良心の塊みたいな子がいますが、そんな存在すら気に出来ないほど気疲れしています。
いつもなら、「かわいいなー」なんて思いながら子供達に「静かにしなきゃダメだよ?」って言うところなんですが、もう疲れきった私はそんな事を言うことすら億劫で、思わず「はい、授業始めるから座って」なんてぶっきらぼうに返してしまいました。
「…………………………」
あれれ???
何で皆、お化けでも見たような顔をして私を見てるんでしょう?
って、そうかっ!
私、子供達相手にイラついてましたよね?!
あぁ、もう、ダメだなぁ私………………。こんなんじゃ、自称・子供好き失格です。
でも、子供達が私を見る目がそうではなかった事はすぐに明らかになりました。
「先生、カレシにフラれた?」
「…………………………へ?」
私の教え子の中でも、一番ガキ大将っぽい子がジト目で聞いてきます。
私はたっぷりと時間かけても、ひらがな一文字を返すのがやっとでした。な、何の事でしょう。この子達がそんな事を言いだす事に何の心当たりも無いんですけど…………。
「いや、今日先生元気ないじゃん? この前、ショッピングモールで一緒に歩いてた、黒い服装の男にフラれたんじゃないかって。そういや、あの男、この前は違う女と歩いてたぜ? なんかやたらふりふりの黒っぽい服着た、髪の長い女と。先生、浮気されてるんじゃねえの?」
はぅ…………っ!
な、なんでそんなところも知り合いに目撃されてるんですかっ!
そんな何回も目撃されるほど、一哉君とお出かけして無い筈なんですけど…………っ!
それに、「やたらふりふりの黒っぽい服着た、髪の長い女」って多分咲良ちゃんの事ですよね。本人の知らないところで、一哉君の風評被害が………………っ!
「いや、先生、別にあの人と付き合ってるわけじゃないからね? だから、あの人も浮気じゃないよ。 ちょっと先生、疲れてるだけだから――――――」
私は嘘は言っていません。
いえ、願望はありますけど、実際に私と一哉君の関係は付き合う以前の問題ですし、別に一哉君にフラれたわけでもありません。一哉君と一緒に暮らしてるのだって、同居じゃなくて居候ですから。
そう、私は嘘は言ってないんです。
でも子供たちはなぜか信じてくれません。
「先生、無理しなくてもいいんだぜ? なんなら俺が…………。」
「結衣せんせー、泣いてもいいんだよ???」
なんでしょう。
別に意味で泣きそうなんですけど………………。
その後は何かと騒ぎ立てる子供達を何とかなだめて、授業へと話の方向を持っていきました。もう、本当に大変ですよ。子供達ときたら、一度盛り上がった話題をいつまでも蒸し返そうとするんですから。バイトは週に1回ですが、毎週毎週てんやわんやですっ。
まあ、そこも子供達のかわいい所なんですけどね。
そして――――――
「さよなら、先生~!」
「はい、さようなら。」
約1時間半の塾の先生のバイトが終了します。
はぁ………………。
今日は特に疲れました。お家に帰ったら、一哉君の家の広いお風呂にゆっくり浸かって疲れを癒すとしましょう。
幸い明日は土曜日です。風邪の一哉君を看病してみるなんてのもいいかもしれませんね。
――――――絶対、佐奈ちゃんに邪魔されると思いますけど。
「先生…………」
「ん? どうしたのかな?」
私も早速家に帰ろうと思っていたところで、教え子の女の子に声をかけられました。背の小さな、髪をおさげにした、眼鏡をかけた女の子。何となく、昔の私に似ている子です。
でも、自分から私に話しかけてきたことの無いこの子が、私に何の用なんでしょうか。
「あのね、先生!――――――――――――」
● 〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇 ● 〇
「――――――うん、もうすぐ帰るね、一哉君。風邪はもう大丈夫? ――――――そっか。やっぱり、佐奈ちゃんはお兄ちゃん大好きだね。わかった。まっすぐ帰るね。じゃあね。」
結局、その女の子のお話と言うのは恋愛相談でした。
小学校で好きな男の子がいるけど、どうやって話しかけたらいいかわからない。今日、先生の彼氏の話になったから思い切って聞いてみようと思った。らしいです。
いやね、私が聞きたいですよ、そんな事。
独り相撲で10年も片思いしてて、何のいたずらか、好きな人と同じ家に住むことになると思ったら、ライバルは同じく10年来の幼馴染と実の妹で、肝心の好きな人は誰からの好意も全く気付いていない――――――というより、気付くつもりがない?人ですよ。
私の方が一哉君との距離の縮め方教えて欲しいぐらいですよ。
だけど、そんな事を子供に言うわけにはいきません。だから、その子には本当の事を教えてあげました。
――――――私は10年も前からずっと片思いしてる事。
――――――実は、初めて出会ってから8年は一度も会えなかった事。
――――――最近、やっとお話しできるようになった事。
――――――2年も前に再会していたのに、それまで勇気が出なくてずっとお話できなかった事を、実は後悔しているという事。
私は「何を話せばいいとかそういう事じゃなくて、話せなくなるその前に、何でもいいから話しかけてみて、徐々にお話する時間を延ばせていければ良いんじゃないかな。私はきっかけが無かったら、今でも好きな人とお話なんてできなかったと思うから…………」、なんて事を言ったのです。
あの子に言った事は本当の事です。
お姉ちゃんの事件が起きた事は、私にとって不幸ではありましたけど、一哉君にやっと近づけたっていうとってもラッキーな出来事でもありました。
でも、思うんです。あの事件の前に、いくらでもお話しする機会はあったじゃないかって。
その機会を逃さなければ、今の私と一哉君の関係ももっと変わってたんじゃないかって。
そして、もしあの時、お姉ちゃんが悪霊に堕ちかけなければ――――――【鵺】が現れなければ、今も一哉君と話せない日々を鬱々と過ごしていただけなんじゃないかって。
だから、機会を逃してはいけないんです。
だけどそんな事はわかりきった事です。
私は一哉君と一緒に居たいと思っていますが、必ずしもそうなれるとは――――――いえ、むしろそうなれる可能性は限りなく低いでしょう。
そんな私でも、後悔しないように。一哉君と一緒に居られるこの時間を無駄にしないように。
そう思います。
まず私にできる事は確実に――――――といっても、家事位しか思い浮かばないんですけど――――――やろう、与えられたチャンスを最大限に活かすんです。
さて、帰ったら一哉君の看病でもしましょう。
やっぱり佐奈ちゃんに邪魔されちゃうんでしょうけど、それでも仕方が無いです。一哉君と一緒にいるって事は、佐奈ちゃんの事も大切にするって事ですから。
そんな風に半ば無理矢理決意した私は、夜道を南条のお屋敷に向かって歩くのでした。
いつも読んでいただきましてありがとうございます。
次回から後半戦へと突入します。
誠に申し訳ありませんが、仕事の期末につき執筆ができず、ストックを使い果たしてしまったため、次話は4月16日 21時掲載です。
よろしくお願いいたします。




