弐ノ舞 悪意渦巻く研究所
怪しげな組織の怪しげな研究所の一幕
一哉達が屋敷でテレビを見ている頃――――――
神流はとある地下研究施設を訪れていた。
その場所は表向きは一般製薬企業の本社ビルとしてふるまっているが、その実態は、地下に『黒帝』の所有する巨大な秘密研究所が存在した。
「【神流】様、ようこそいらっしゃいました。」
「挨拶は結構。例の件はどうなっているのか、さっさと報告を頂戴。」
神流へと挨拶をしたのはこの秘密研究所の所長。脂ぎった禿頭と分厚い眼鏡、不健康そうな血色の悪い顔が特徴の中年であった。ヨレヨレのスーツの上からぐしゃぐしゃの白衣を羽織るその男の様子は、いかにこの研究施設に引きこもっているかを如実に表している。
明らかに媚びへつらい、ゴマを擦る態度の男を軽くあしらった神流は、どんどんと奥へと進んでいく。
「正直に申し上げますと、進捗は芳しくないというのが現状でございます。」
「そう…………。やはり精神安定性に問題が?」
「はい。確かに平均よりも高い力をつける傾向にあるのですが、途中で精神崩壊を起こして暴走するか、【壬翔】の様に強大な陰の気に己の欲望を増幅させられてうまく制御できないという事態になっており、我々としても手を焼いているところですよ。」
神流はどんどん奥へと進みながらも男からの説明を受け、ついでに男が用意していた資料を受け取る。
資料を捲って目を通す神流の手に迷いは無い。
まるでパラパラ漫画を見るかのようなスピードで資料に目を通すと、資料の紙束を男に投げ返す。
「相変わらず奇跡の様な速読能力の持ち主だ……」
そんな事を後ろを歩く男が気味の悪い猫撫で声で呟いていたが、神流は無視した。
神流はこの男の事が――――――ともすれば、死体売買のブローカーの男や変態部下である【壬翔】よりも嫌いであった。仕事上どうしても付き合いの多い相手であったのだが、同じ空気を吸う事すら生理的に受け付けないのである。
神流はそのまま男を無視し続けると、とりわけ頑丈かつ大きな扉の前で立ち止まる。
その扉は厳重なセキュリティに守られ、隠された研究所の中でもさらに選ばれた者しか入る事が許されていない。しかし、そんな扉も神流は自らが持つセキュリティカードでロックを解錠。
躊躇いもなく中へと入っていく。
そこは闘技場であった。
サッカーのピッチ程もある巨大な地下闘技場であり、逃げ場も無いような高いフェンスに阻まれ、さらにその上から何人もの研究者がその様子を観察していた。
今、高校生程の少女と血塗れの鉈を持った中年の男が戦っている。
『いやぁ…………!! こ、来ないでぇ…………。お願い、助けてよぉ…………!』
『グフフ………グフ………………グハハハハハハ――――――――!!』
下の闘技場の音声がスピーカー越しに神流の耳に響く。
戦っているというのは少々語弊があったかもしれない。
展開はあまりにも一方的だった。少女は全身傷だらけで、血に塗れている。恐怖のあまり武器を展開する事もせず、ただ後ずさるだけである。顔は涙でグチャグチャになり、遠慮なく言ってしまえば汚い。
そして迫る男は涎を垂らしたまま狂気的な笑いを上げており、正気を失っているのは誰の目にも明らかだ。
そんな状況にもかかわらず、誰も戦闘を止めようとしない。
だが、それも当たり前の事だった。
周りの研究員にはこの状況は音声でしか把握できていない。彼ら、彼女らは所詮は人間なのである。人間の視力では、下の少女と男など豆粒程にしか見えていないはずだ。そしてこの距離感は、足元で行われる非人道的な実験に対する罪悪感を薄れさせるための仕掛けでもあった。
神流が今、下の闘技場の状況を正確に把握できているのは、彼女が人ならざる存在であるからに他ならない。
だからこの場に、下の少女を助けようとする者など居ない。
「今回の検体もどちらも失敗の様ですな。」
後ろの男が溜息と共に零す。
そう。失敗だ。そんな事は見ればすぐにわかる。
今、神流は新たな手駒を作るべく実験を繰り返していた。それも主たる『黒帝』に黙って。
神流には手駒が必要だった。【壬翔】の様な"壊れた"存在ではなく、だからと言ってただの操り人形ではない、自律行動可能な駒が。
だから失敗だ。
精神を崩壊しかけ唯泣き崩れるだけの女も、自分の力に溺れて増幅させられた性欲に振り回される男も、神流の理想の手駒とはなり得ない。
「まったく、手のかかる…………」
それはあくまでも気まぐれだった。
神流は遥かに下で今にも少女に襲い掛かろうとしていた男に向かって手をかざし――――――
「――――――『刺氷』。」
ただ一言唱えた。
神流の掌に蒼い霊力が収束し、氷の槍が一本形成される。そのまま氷の槍は神流の手を離れる。
『グフフフフ…………。さぁ、オジサンと楽しい所に行こうかあ――――――グァッ?!』
氷の槍は男の頭を貫いて消滅する。
その瞬間に男は絶命していた。周囲の研究者が驚いた様な視線を神流に送ってくる。
ああなった以上、男は元から廃棄処分だ。神流が手を下すか下さないかの違いだけであり、その権限は全て自分が握っている。だから、おかしな物を見たと言いたげな視線を送ってくる研究者たちが鬱陶しくて仕方がない。
そして足元の闘技場では、絶望に顔を歪めていた少女が、まるで救世主でも見るかのような目線を神流に送っていた。
(そんな目で私を見るのはやめなさい。貴女だって私の計画の手駒の一要素にしか過ぎないのよ? その事位、貴女だってわかっているでしょうに……)
神流は意図的に少女からの視線を無視すると、後ろに立つ男へと向き直る。
「次のリストを見せなさい。」
「こちらになります。」
男は即座に先程の資料とは別の資料を渡してくる。
この男の事は生理的には受け付けないが、仕事だけは評価できる。神流が求める事を必ず先読みして用意している。普段から気に入らないものを即刻斬り捨てる神流がこの男を何時迄も生かしているのもそういった理由だ。
「ふーん。面白い人材がいくつかリストアップされているようだけど。」
「はい。【神流】様ご希望の条件に合う人間は、これまでの62人の実験体のデータから概ね絞り込めてきております。まあ、実験結果が芳しくないので、あまり有効な絞り込みとは言えないのかもしれませんが。」
「はあ…………。まあ、これに関しては仕方がないわ。『黒帝』様に命じられている『魔人』の作成プロトコルに関してはこの実験のデータを流用できるわけだし。私の『計画』を主導で進める事で表向きの任務をこなせるのなら、多少の実験の失敗を許容する位の度量は持ち合わせているつもりよ。」
「はっ。ありがとうございます、【神流】様。」
神流は男の礼を軽く聞き流すと、再びリストに目を落とす。
「コイツなんて面白そうじゃない? ほら、この東北の大学教授。妻の目を焼く事に快楽を見出す異常性癖者。これならいい素材になりそうよ。」
「――――――。」
「何よ?」
「【神流】様。お言葉ですが、これ以上性的倒錯者の魂をベースに実験をされるのであれば、『真祖』の『人造吸血鬼』でも作った方が宜しいのではないでしょうか?」
神流は男の言葉に多少なりとも驚きを感じていた。
神流に心酔し、媚を売る事しか考えていないこの男が神流の意見に異を唱える事は大変珍しい。
「理由は何? 聞かせなさい。」
「素体が男しか居なかったというのも理由の一つかもしれませんが、その条件に合致する人間をベースとした実験では85%の確率で己の欲望に飲み込まれて暴走しております。ギリギリの合格ラインだった【壬翔】ですらあのザマなのです。確かに強い力を与える事は容易かもしれませんが、私は目的に近づいている様で、逆に遠ざかっている蜃気楼の様な条件であるとしか思えないのです。」
なるほど、理由としては弱いかもしれないが、筋は通っている。
「そもそものお話ではございますが、【神流】様の存在自体が奇跡なのです。」
男は少し興奮したかのような口調で神流に語り掛ける。
唾液が飛んできて気持ち悪い事この上ないが、この男の研究者としての視点は、他に変えられないものがある。神流は胸の中に渦巻く殺意を抑えつつも、男に話の続きを促す。
「私もこの研究所の所長になってからかれこれ16年経ちますが、貴女様の様な完璧な存在をこの目で見た事自体が、貴女様自身を除けば一例もございません。【霧幻】様の様な例は、現在生産方法が安定しておりますが、精々上級鬼闘師程度の力しか発揮できませんし。そもそも貴女様方の様な存在自体が、奇跡という現象を煮詰めて煮詰めて、その煮え残りの中からさらに砂粒よりも小さいものを見つけ出すようなものなのです。多少なりともアプローチを変えてみるべきかと。」
そう興奮気味に語る男の言葉に神流の表情は渋いものとなる。
今、目の前の男が言っているのは、自分がやろうとしている事は、あまりに無謀な事だと告げているのと同義なのだ。
神流は正直、自分の計画を推し進めるための実験がここまで難航するとは微塵も考えていなかった。なぜなら奇跡を知っているのだ。実例を知っているのだ。
だからこそ、心の底では焦っていた。なぜ完成しないのかと。
ここまで62人の人間を生贄に捧げて、成功した例は【壬翔】ただ一体。
この事実に、研究者でない神流ですらも、このままではいけないのではないかと思い始めていた。
「――――――。わかったわ、今回は貴方の進言に従う。ならば提示しなさい、貴方の言う『別のアプローチ』を。」
その神流の言葉を聞いた男は、我が意を得たりと、ニヤリとした表情を作る。
脂ぎった禿の中年男のにやけ顔などもはや罰ゲームでしかなく、神流はあからさまに嫌悪の表情を浮かべるが、そんな様子にすらも男は興奮したらしく、気持ち悪い笑みを深めた。
「【神流】様。リストの最後の人物をご覧ください。」
「――――――どういう事かしら? 現役アイドルの、それもこんな明らかに適性の無さそうな子を選ぶなんて。」
リストの最後の名前は、神流が街中で調査していた時に何度か聞いた事のある名前だった。
そして、一度だけ渋谷のスクリーンでその顔を見た事がある。
だが、どう考えても次の素体として選ぶべき人物とは神流には思えなかった。神流が求めるのは心身共に強い素体。この人物はどこからどう見てもそのどちらをも満たしていない。
「ヒヒヒ…………。確かに今のままでは、第2段階に達する事すら難しいでしょうなぁ……。だからこその逆転の発想という奴ですよ、【神流】様。味付けをするのです。心の支えを作ってやるのです。幸い、我々にはそうできるだけの人員も資金も豊富にあるのですから…………!」
まるで自分の傑作論文を発表するかのようなテンションで悍ましい事を平気で宣う目の前の男。神流の胸の中には嫌悪感しか沸かない。だが、目的を達成するためにはこの男の考えに乗る方が案外近道かもしれない。
それに対象の少女に対して、可哀そうだと思わない事も無いが、別にその命を奪う事には何の躊躇いも無い。今までだってこの実験以外にも、若い男も、若い女も、幼い子供も、幸せな夫婦も、聖職者も犯罪者も、あらゆる人間を踏み台にしてきたわけであるし、この少女が例えどんなに愛らしい見た目をしていて、どんな綺麗な心の持ち主で、どんなに家族に愛されていて、どんなに人気のあるアイドルであったとしても自分には関係ない。
なぜなら、自分にとって南条一哉以外の人間など、道端に転がるゴミ以上の価値も無いのだから。
「わかった。この件に関しては貴方に任せるわ、北神所長。進捗があればすぐに私に連絡しなさい。」
神流はそう言い残すと、地下研究所から出ていく。
用事は終わった。後は再び、今の悩みの種である【壬翔】の監視に戻るだけだ。
「ホントにあんな子が私の役に立つ子になるのかしら……? まあ、【壬翔】よりマシであればマシ、という事ね。まったく…………何もかもままならないわ。」
神流は夜の闇に消えていく。まるで、そこには最初から何も無かったかのように――――――
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次回は再び南条家の一幕へ……




