壱ノ舞 変わり果てたカタチ
既にあの日から丸5日が経過していた。
対策院から下された謹慎処分の期限が過ぎても、一哉は対策院には戻らなかった。
それは梶尾への宣言通り、一哉は対策院との決別を決めたからだ。
どうせ内閣情報調査室の須藤が何か仕掛けて来るのがわかっている以上、対策院に戻ろうが逃亡しようが結果は同じである。
そして今、一哉は9日ぶりに自宅である南条の屋敷に戻ってきた。
松本の病院で結衣と別れた後、一哉は結局家には戻らなかったのだ。
ではその間一哉が何をしていたのかというと、それは失われた法具の代わりを調達していたのである。
あの時、佐奈に斬り落とされた「神裂」と「鉄断」。
一哉がこれまで苦楽を共にし、あらゆる任務を切り抜けてきた二振りの愛刀は、切断面に異常な程の陰の気をぶつけられたせいで、練りこまれた霊術の術式を全て破壊され、修復不能になっていた。
かつては3つもあった一哉の法具は、今や全て失われてしまった。その穴を埋めるために、新たな法具を求めてさ迷っていたというわけである。
そして手に入れた新たな法具が、今一哉が持っている「魔斬」と銘打たれた、日本刀。
見た目は、同音の刃物とは似ても似つかない、刃渡りが80cmもある事以外は、何の変哲もない日本刀だ。
「神裂」や「鉄断」とは違って、その刀身には銘以外の何も刻まれていない。実際、先の二つの刀とは違い、「魔斬」には特別な素材を使っている訳でも、攻撃の為の霊術機構を組み込んでいる訳でもない。
だが、この刀が「魔斬」と銘打たれたのには明確な理由がある。
それは、「魔斬」には「刀身で受けた霊的な力を取り込んで逆変換し、吸収量に比例した力として放出する」という、特異な機能が盛り込んであるからだ。要は、敵の力をも利用して敵を滅する刀、という訳である。
もっとも、耐久性は先に所持していた三刀とは比べるまでも無く低いのだが――――
「さて。とりあえず屋敷に追手は居ない…………か」
一哉は屋敷の外から意識を張り巡らせて中の様子を確認。中に誰も居ない事を確認してから、敷地の中に入る。
9日振りに帰る我が家は異様な程の静けさに包まれていた。
つい一ヶ月前は、佐奈がいて、結衣がいて、咲良がいてとても賑やかだったというのに。
ほんの少し何かを掛け違えただけでここまで結果が変わるなど、この様な形で思い知らされるなどと、思ってもみなかった。
だが、どこか物寂しさを感じてはいても、あくまでこれは今の一哉が望んだ状況に過ぎない。
一哉は既に、義姉と妹への復讐の事しか考えていない。それ程までに二人の裏切りは一哉の心に影を落としていた。
例えそれが、かつて常識的な姉弟の範疇を超えた付き合いをした義姉と、自分が最愛の妹として愛し続けた実の妹の命を永遠にこの世から消し去ってしまう様な事だとしても、今更止まらない。止められる訳が無い。
一哉は閑散とした自宅の敷地内へと足を踏み入れる。
生まれてから今までずっと育ってきた自分の家。
この家には本当に色々な思い出が詰まっていて、そんな思い出達がまるで昨日の事の様に思い出せる。
決して多くの時間ではなかったが、両親と過ごした笑顔の日々。
佐奈と暮らした16年間の苦しくも愛おしかった日々。
栞那が居た、異常でありながらもどこか満たされていた日々。
昔も今も何だかんだと居ついている咲良。
長らく停滞していた南条家に新しい風を吹き込んでくれた結衣。
そして、本当に僅かな間だけとはいえ同じ時間を共有した瑠璃。
だというのに、自らの身の一部とも言える我が家が、なぜか今全く違うものに思えた。
温かみの無い、ただの冷たい建築物にしか見えなかった。
だがそれで良かった。
今の一哉には、温もりなど必要無い。一度魂に宿した憎悪の炎には、そんな生温い感情など邪魔以外の何物でもないから。
一哉が帰ってきたのは、なにも自分の家だからという単純な理由ではない。
既に今の一哉にとっては、家など執着するようなものではない。
ここ数日対策院との連絡を一切断っているとはいえ、今の一哉が家でぬくぬくと穏やかに過ごす事が出来なくなっているであろう事など、想像に難くない。
数日前の栞那との戦闘。
その時、一哉は全く相手にならなかったとはいえ、言い逃れができない程に霊術の行使を行った。
内閣情報調査室の須藤は恐らく、その事実を決して見逃さない。
そうなれば須藤の事だ。確実に一哉を対策院から追放、または抹殺に来るだろう。
間違いなくこの南条家の屋敷は戦場となる。
既に対策院に戻るつもりのない一哉だが、須藤の放つ刺客におめおめと殺されるつもりもない。
ゆえにこの家に戻ったのは、全く別の理由であった。
「この部屋……今まで気が付かなかったのは佐奈か親父のせいか……」
一哉はその目的の目の前――――古びた部屋の前に居る。
結衣の部屋の丁度隣にあるその部屋は一哉にとってとても懐かしいものだったが、記憶の有無にかかわらず、その存在自体8年ぶりに気が付いたものだった。
それはかつて栞那が一哉の姉としてこの屋敷に居た時に使っていた居室。
結衣の部屋の隣にあったその部屋の事を、つい数日前まで認識すらできていなかった。
いくら栞那の存在自体を忘れていたとはそんな事が有りうるとすれば、それは恐らく、栞那の存在を一哉に秘匿しようとした父か妹の所為――――
だか、その真偽ももはやどうでも良い。
一哉の目的はただ一つ。栞那の部屋から栞那の居場所の手掛かりを見つける事。
たとえ二人が自分に何をしていようが自分の復讐には然程の影響も無いからだ。
「この部屋も……8年ぶりか……」
少しだけ緊張しつつ入った、かつて栞那の居室であったその部屋は一哉が覚えていたそのままだった。むしろ8年も経っているというのに、あまりに変わらなさ過ぎて気分が悪くなってくる。
栞那の部屋は良くも悪くもシンプルだ。
かつての栞那の几帳面さがよく表れた、整理整頓の行き届いた部屋。だが逆を返せば、何の面白みも特徴も無いただの和室だ。
部屋の壁にはポスターの類も、メモの類も何も貼られていない。
本棚には栞那が当時使っていた高校の教科書や参考書の類。他には何冊かの恋愛小説の文庫本。
机も何冊かのノートが立てかけてあるだけでこれといった特徴は無い。
それゆえに、机の上にただポツンと置かれた一枚の紙が醸し出す異物感は際立っていた。
一哉は紙を手に取ってその内容を読む。
『平成22年8月10日を以て、以下の者を上級鬼闘師に任ずる
対怪奇現象対策院 執行局 実務処理班 南条聖特級鬼闘師付
南条栞那 一級鬼闘師』
紙に書かれていた内容は一哉にとっては既知のもの。
8年前、栞那は上級鬼闘師に昇格するのとほぼ同時に対策院本部が指揮を執った長期任務に参加し――――そして狂気に堕ちた。
その間に栞那に何があったのか。
そしてどういう理由であのような力を、陰霊剣という力を手に入れたのか。その答えをこの紙に求めたところで答えてはくれない。
だが、答えは必ず8年前にある。
そして今の栞那の居場所のヒントも。
一哉は栞那の部屋をひっくり返し続ける。
栞那は【砕火】をこの屋敷に現れるように手引きしていたとも言っていた。
それが本当なのだとしたら栞那は少なくとも一回、それもつい最近この屋敷に足を踏み入れた事になる。
あの栞那の性格を考えれば。それが良いものなのか悪いものなのかは関係なく、一哉に執着する栞那の事を考えるのであれば、この部屋と一哉の部屋に足を踏み入れていない訳が無い。そして、何らかの保険か痕跡を敢えて残している可能性が高い。
南条栞那という女はそういう女だ。
"自分がここにいる"という事実を他人に認めてもらわなければ生きていけない。
そういう女だ。
でなければ、母・澪を亡くした一哉にあんな関係を求めたりする訳がない。
そうして部屋の捜索を続ける一哉。
だが、思い出の品こそ見つかれど、栞那の痕跡と思われる物など何一つとして見つからない。
元々栞那はそれ程物を多く持ちたがる様な質の人間ではなかったので、部屋の中にある物などそう多くは無い筈だというのに、手掛かりの欠片すら見つかる気配が無い。
机の中も、押し入れの中も本棚の中も。ひっくり返して見ているのに何も出てこない。
「クソ……ッ! 絶対何かこの部屋に残していった筈なんだ、あの女!」
一哉は大切そうに仕舞われていた栞那のアルバムを投げ捨てて毒づく。
現状、一哉が栞那にたどり着く可能性がある手掛かりはもうこの家にしかないのだ。
刻々と時間だけが過ぎていく状況に一哉の焦りは徐々に募っていく。
進捗しない状況に嫌気がさした一哉は床に身を横たえる。
見上げて見える景色は8年前に何度も見た光景。
そして鼻腔を僅かに満たす古びた黴の様な臭い。
思い出すのも当然だ。この部屋に何度も足を運んだのだから。
一哉と栞那の関係は義理の姉弟という枠組みに収めるには距離が近すぎた。
そもそも当時中学生であった一哉にとって、それはとても不健全な関係だった。
だがそれでも、決して恋人ではなかった。
当時栞那に直接言われた訳ではないが、一哉が思う限り、栞那は間違いなく一哉に恋慕の感情を抱いていた筈だ。そうでなければ、栞那の方からあれ程に一哉を求めるとは到底思えない。
しかし、一哉の方はそうではなかった。
それは当時はまだ覚えていた結衣の事があったし、そもそも一哉が栞那の誘いを受けたのはそんな事が目的ではなかった。
「あの時はこんな事になるなんて思ってもみなかった。俺はただ、姉さんを救いたかっただけなのに……」
今思えば、全ては10年前に母が殺された時から始まっていたのだろう。
栞那の一哉に対する距離感が段々とおかしくなっていったのも丁度その頃だった。
澪が居なくなってから、少しずつだが確実に狂っていった栞那を前に、当時の一哉は放っておけなかった。
それが悲劇の始まりとなるとも知らずに。
当時の事を思い出しながら重い溜息を吐き出す一哉は再び身を起した。
再び手掛かりを探すために。
そんな一哉に、意外な人間の声がかけられる。
「一哉……兄ぃ……?」




